イタリア抽象絵画の巨匠 アフロ ブッリ フォンタナ  


 4/6-5/26 ふくやま美術館
 6/6-7/21 国立国際美術館

カタログについて

 論文:マルコ・メネグッツォ「アフロ、ブッリ、フォンタナ:象徴、物質、行為」
    バルバラ・トゥルーディ「第2次大戦後のイタリア美術:アフロ、ブッリ、フォンタナの源泉」
    谷藤史彦「イタリアの戦後美術:1945-1968」

 アフロ
  谷藤史彦「アフロ:透過する光と詩情」
  図版
 ブッリ
  中井康之「ブッリ:制作の論理」
  図版
 フォンタナ
  谷藤史彦「フォンタナの宇宙」
  図版

 アフロ年譜
 ブッリ年譜
 フォンタナ年譜
 日本語主要参考文献

 Marco Meneguzzo, "Afro, Burri, Fontana: Sign, Material, Gesture"
 Barbara Trudi, "Art in Post-War Italy: Origin of Afro, Burri and Fontana"
 Fumihiko Tanifuji, "Postwar Italian Art: 1945-1968"
 Fumihiko Tanifuji, "Afro: Penetrating Light and Portry"
 Yasuyuki Nakai, "Burri: The Logic of Production"
 Fumihiko Tanifuji, "The Universe of Fontana"
 Bibliography: Afro
 Bibliography: Burri
 Bibliography: Fonatana

 出品作品リスト/List of Works in the Exhibition


展覧会構成

 アフロ
 ブッリ
 フォンタナ


出品作品紹介



講義ノート

各論文より

 バルバラ・トゥルーディ「第2次大戦後のイタリア美術:アフロ、ブッリ、フォンタナの源泉」

p.16 "この国は、18世紀まで正当に認められてきた、絵画や建築、彫刻といった視覚芸術における主導的役割を、広く見れば早くも19世紀に、そして明確には20世紀初頭に見られるが、既に失ってしまっていた。"

p.16 "... 第2次大戦の終わり、ファシスト政権からと、思想的宣伝としての芸術の修辞的な表現からの解放の後に、イタリアの芸術家たちは意識的に、芸術の観念と創造的行為を修復しようとした。"

p.20 "重要な年は1948年である。戦争による中断の後、ココシュカ、シャガール、クレーの個展によって「ヴェネツィア・ビエンナーレ」が再び始まった。フランスのパヴィリオンにはルオーやマイヨール、ブラックが展示された。ひとつの部屋が「芸術新前線」にさかれた。とくに「ビエンナーレ」期間中に注目されたのは、ペギー・グッゲンハイムのコレクション展であった。彼女はヴェネツィアに移ってきたばかりであったが、20世紀の最も重要な作家たちの作品をもちこんでいた。キュビスムから形而上絵画、シュルレアリスムまで、とくにウィリアム・バジオーテス、アーシル・ゴーキー、ロバート・マザーウェル、ジャクソン・ポロック、クルト・セリグマン、クリフォード・スティルと[い]ったイタリアで初めて紹介されたアメリカの若い作家たちのコレクションであった。・・・(中略)・・・アメリカから吹き込んできた変革の風がすでにあった。"

アフロ

  谷藤史彦「アフロ:透過する光と詩情」より

p.41 "チェザーレ・ブランディも、1973年の個展での作品を見てアフロにおける光の重要性を強調している。「アフロの絵画は光という言葉で解釈することができる。その光というのは、色彩の背後にあり、それをたたえ、それを前面に押し出し、旗のようなスクリーンにしたてる。このようにして、光は印象的な源泉を持つが、印象派の影響を受けているわけではない。彼の行為は、面の粉砕という意味で、キュビスム的なところをもち、風が本の頁をめくるように、風が落ち葉を集散させるように、空間を転覆したり、重ね合わせたりしている」"

ブッリ

  中井康之「ブッリ:制作の論理」より

p.67 "第二次世界大戦以降の美術界の主要な動向を捉えた場合、フランスを中心としたアンフォルメル運動と、アメリカで展開していった抽象表現主義を、二つの大きな流れとして揚げることができるだろう。両者とも色彩と形態が自律的な運動となって画面上を駆けめぐるような表現様式であり、・・・(中略)・・・当時の美術界の主流が、そのような画面上の出来事として世界を築き上げて行った世界であることに対して、ブッリは、画面の基底となる部分に視点を移すことによってフォンタナとともに20世紀後半の世界美術史の中で、イタリアに独自な地位を招来したのである。"

pp.67-68 "イタリアのファシズムは、ナチス・ドイツのファシズムによる文化政策のような抽象芸術に対する排斥運動はなかったものの、それぞれの作家が国家的な問題を取り扱う気運を高めていた。国中にファシストの芸術家による審査員が組織され、ヴェネツィア・ビエンナーレやミラノ・トリエンナーレを盛大にし、ローマ・クワドリエンナーレが新たに創設され、また強い宣伝色を持った公的な展覧会が組織されて、多くの大衆を動員していた。そのようなイデオロギー臭の強い体制側の動きに対して、若い作家を中心として表現主義的な描写によって精神的な抗議を示す「ローマ派」が結成され、1927年から1938年にかけて断続的な行動を続けていた。もし、ブッリが、イタリアで作家になる準備を始めていたら、この両者のどちらかの動きに取り込まれていた可能性は高かったであろう。"

p.70 "また、同年〔講師註:1952年〕夏に開催された第26回ヴェネツィア・ビエンナーレのドローイング部門に《かぎ裂きの習作》《継ぎ当ての習作》を出品したのも、その本作品である《かぎ裂き》《継ぎ当て》を本会場では「これは芸術作品ではない」として断られたためである。"

p.73 "... この穴を空けられた缶など、フォンタナの膨大な数の《空間概念》という作品が形成されていく過程の中で、ブッリ作品がある重要な役割を果たしていったと考えるのが自然だろう。"

フォンタナ

  谷藤史彦「フォンタナの宇宙」より

p.104-5 1950年4月、『空間運動の規定に関する提言』
"「空間主義者は、ラジオ、テレビ、ブラック・ライト、レーダー、および人間の知性がこれから発見する可能性のあるものすべてを、新たな表現手段として自由に使い」、「もはや観客に具象的なテーマを押しつけたりはせず、観客自身が、その個人的な想像力と、作品から受ける感動を通して、テーマをみずから創り出すような状態へとみちびく」。そして、「人間のなかで、新しい意識が形成されるよう」になり、「芸術家は、人間や家や自然を描こう」というのではなく、「彼自身の想像力によって、空間感覚を創り出そうとする」意志が強くなっていく。"

p.106 "空間主義においては、これをさらに進めた。それは絵画でも、彫刻でもなく、「空間を通じた形であり、色であり、音」である時間と空間の統合を基礎とする芸術を探究しようとした。"

p.110 "「穴」の第1の特徴は、イリュージョンの従属から逃れたということだ。これはブッリの「袋」につながっていく大事な要素であった。イリュージョンから逃れることにより、「穴」は「穴」として見え、色彩も「色」そのものとして見えるようになった。この瞬間に絵画という形式を突破したのである。"