美術館の夢  

 松方・大原・山村コレクションなどでたどる
 4/6-6/23
 兵庫県立美術館

カタログについて

 論文:木村重信「美術館とは何か―開館の意味するものと『美術館の夢』展」 pp.8-9
     速水豊「序:日本の美術館をめぐって」 pp.10-5
     木下直之「美術館がほしい」 pp.23-6
     五十殿利治「中原實『ミュゼ・ド・ノワール』考―美術館のも一つ先の美術館」 pp.104-6
     湊典子「松方幸次郎の夢―共楽美術館」 pp.129-32
     建畠晢「グレーゾーンとしての美術館―コレクション・反コレクション」 pp.200-2
 関連年表 1870-1980
 出品リスト
 主要参考文献
 謝辞


展覧会構成

プロローグ 美術館前史
第1章 「美術館」誕生
 1-1 日本最初の「美術館」
 1-2 高橋由一の美術館構想
  写真特集 1 博覧会の美術館
         2 美術家たちの展示場所(1)
         3 明治の美術運動と表慶館
第2章 国が集める美術と在野の「美術館」
 2-1 文展の創設と作品買上げ
 2-2 白樺派の美術館構想
  写真特集 4 美術家たちの展示場所(2)
         5 大正期の美術館運動と二つの「美術館」
 2-3 前衛の美術館/中原實の活動と構想
第3章 西洋美術への情熱
 3-1 松方コレクションと共楽美術館
  写真特集 6 コレクターと美術館
 3-2 大原孫三郎と大原美術館
  写真特集 7 第二次大戦後の美術館
         8 二つの近代美術館
第4章 現代美術と美術館
 4-1 アンデパンダン展と美術館
 4-2 大光コレクションと長岡現代美術館
  写真特集 9 美術家たちの展示場所(3)
 4-3 山村コレクションと再制作作品
 4-4 山口勝弘の《イマジナリウム》と新しい美術館像
エピローグ ある地方公立美術館の30年の活動とリニューアル


出品作品紹介



講義ノート

各論文、章解説等より

展覧会のテーマ
p.10 "...問題となるのは、どのような美術館がそれぞれの時代に求められたか、「美術館」という言葉に人々が何を求めてきたかである。"(速水豊「序:日本の美術館をめぐって」より)

美術館前史
出開帳(でがいちょう):寺の仏や器物、書画などを他所に持ち出して公開する。江戸時代に盛んに開催された。
博覧会のパヴィリオンとしての「美術館」:1877年、第1回内国勧業博覧会にて。

中原實「ミュゼ・ド・ノワール」
"我々の時代まで美術館とは普通の住家を大きくした家だった。…(中略)…厳正な批判を下す所としては、余りに乱暴な建物であった。…(中略)…思へば画家は気の毒な人達だった。"
"人を集むる場所としては都会の真中にあるべきであるが交通が今より更に更に発達するとして広漠たるミシシッピーの流域か日本アルプスとでも云つた山の上に周囲に目をさえぎる何ものもないインランドに建てたい。"
"望遠したところ、新式の軍艦の胴体だけの様な物を頂上に置く。"
"真黒にするのは凡ての反射光線(色のついた光線)を遮るためと、一つには眼をつかわない様に絵の前に出るまでは、あらゆる色から遠ざけるためである。"
"Aは膨大な作品の室で朝はX(略図二)の位置にあり、陽と共に回転してYの位置を夕がたに取る。"
(「理論絵画」 『中央美術』 1925年8月 第117号:本展図録p.89に再録)

松方コレクション約2000点
画家フランク・ブラングィン(ロンドン)、リュクサンブール美術館館長レオンス・ベネディット(パリ)らを相談役にコレクションを形成
日本に発送されたのは一部=理由:1924(大正13)年、奢侈品に対して「従価10割の輸入税」が課せられた
ロンドン保管分(300〜600点)=1939年、倉庫会社の火災ですべて焼失
パリ保管分約400点、第2次大戦後、フランス政府によって敵国財産として没収され、サンフランシスコ講和条約により、美術館建設を条件に一部を除いて寄贈返還。1959年開設の国立西洋美術館へ収蔵
国内移送分:1927年の金融恐慌時、松方が社長を務める川崎造船所のメイン・バンク十五銀行が休業。川崎造船所は経営危機に陥り、コレクションは銀行の担保に。戦前に行われた13回の展覧会(売り立て)で散逸
(湊典子「松方幸次郎の夢―共楽美術館」より)

大原孫三郎と児島虎次郎、大原美術館
大原家による同郷の学生への奨学金制度←児島虎次郎
児島の希望「留学することができない日本の洋画家に優れた西洋絵画を見る機会を与えたい」
コレクションの公開と盛況ぶりが大原の心を動かす
1929年児島没→関東大震災以来の大不況にもかかわらず、児島の遺志を継いで大原は美術館建設に着手。1930年11月開館。

読売アンデパンダン展に対して都美術館から出された「陳列作品規格基準」
 (1)不快音または高温を発する仕掛けのある作品
 (2)悪臭を発しまたは腐敗のおそれのある素材を使用した作品
 (3)刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品
 (4)観覧者にいちじるしく不快を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品
 (5)砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品
 (6)天井より直接つり下げる作品

大光コレクション約700点
1979年、大光相互銀行の経営上の理由などより、長岡現代美術館は休館。コレクションも売却。うち約150点が新潟県に購入され、同県立近代美術館に引き継がれる。残りは全国に分散。

山村コレクション68作家166点
1986年、兵庫県立近代美術館に一括収蔵。1985年4月、非公開、1日だけの「山村コレクション研究会」開催。分散収蔵されていたコレクションを一堂に集め、全体像を概観した山村徳太郎は、今後の方針に検討をつけ、一層の充実を目指す心積もりだったが、翌86年1月59歳で他界。

山口勝弘《イマジナリウム》
"(2)...〈イマジナリウム〉は、わが国に伝わる連句、連歌のような集団的な芸術形式を、その先駆的な例としてあげることができる。"
"(3)〈イマジナリウム〉のもう一つ大きな展開は、人工衛星によるコミュニケーション・システムを利用する点にある。この計画は、一つは地方にある〈イマジナリウム〉の間を、衛星による通信システムにより結びつけることである。これは、中央集中的な芸術や文化活動によって生まれる文化的な階層性を排除し、ローカルな芸術や文化の特質を大切にするためにも必要な手段である。
また、都市計画や建築物などを対象とした情報交換や、大きな彫刻や造形物の展示にともなう莫大な輸送経費を考えた場合、サテライトによる芸術情報のネットワークは、将来ますます重要な役割を果たすことになるだろう。こういう時代的な要請に答えるため、現在地球上の軌道を廻っている通信衛星を利用するには、いろいろな制約が多すぎる。そこで、すでに気象衛星や、軍事衛星のように単一の目的に利用される衛星があるのだから、芸術の目的に利用される「芸術衛星」を打ち上げる必要があるというのが私の考えである。「芸術衛星」を打ち上げる費用は、世界中の美術館や、美術関係者が賛同すれば調達可能な金額ではないか。"
"〈イマジナリウム〉のネットワークが機能的に活動すると、こうした遺跡のなかで、ビデオ・プロジェクションや、レーザー・ショーや、大ホログラフィーなどを利用し、さらに音楽や舞踏を含めた、大イヴェントを開くことができる。"
(『作品集 山口勝弘360°』 六耀社 1981年より:本展図録p.198に再録)