ジャン=マルク・ビュスタモント展  

 プライベート・クロッシング
 10/16-11/24
 山口県立美術館

カタログについて

 論文:ドリス・フォン・ドラーテン「私的移行 ジャン=マルク・ビュスタモントの仕事に寄せて」 清水穣訳
    ジャン=ピエール・クリキ「閉じられた家」
    天野太郎「交差する関係性」
    河野通孝「ビュスタモントのことば」
 図版一覧
 作品リスト
 略年譜
 参考文献
 Doris von Drathen, Private Crossing: On the work of Jean-Marc Bustamante
 Taro Amano, Intersecting Relationships     


展覧会構成

 「タブロー」シリーズ
 「パノラマ」シリーズ
 《ジャケット》
 《ダブル・ミラー》
 「糸杉」シリーズ
 《クリスマス・ツリー》
 《大陸》
 《サスペンション》
 「リュミエール」シリーズ
 「S. i. M.」シリーズ
 《分散》
 「LP」シリーズ
 「T」シリーズ


出品作品紹介



講義ノート

各論文より

展覧会のタイトルについて

"展覧会のタイトルである「プライベート・クロッシング」という言葉には、ビュスタモントの作品に見られる様々な表現分野をはじめ、印画紙、スティール、アクリルといった異なる素材と、それを扱う作家自身との私的な交換といった意味がある。同時に、作品が作家の手を離れ、公的な場に展示されたりすることで生じる、鑑賞者と作品との新たなる対話もまた、この言葉には込められている。さらに「プライベート・クロッシング」には、歴史的な証言者となるような体験だけではなく、孤立化した日常のなかの極私的な体験、それも他人から見ればささやかで、場合によっては理解されないような行為を通じても、世界の深い理解につながるのだということも含意されている。"(天野太郎「交差する関係性」 pp.122-123)

ビュスタモント作品の特徴

"誰でも記憶のなかに、そんな瞬間を持っているのではないだろうか、ほんの小さな出来事で、語るに足るほどでもないのに、決定的に意識を新しくしてしまうそんな瞬間を。"(ドリス・フォン・ドラーテン「私的移行 ジャン=マルク・ビュスタモントの仕事に寄せて」 p.106)

"実際、彼の作品の豊かなイメージの細部を追ってみれば、そこでは一人の芸術家が、体験されたものと語られたもののあいだの糸が途切れる以前に彼が知っていたあの世界を追い求め、概念や説明がなくても、たちまち世界と触れあうことができた、あの体験の能力を探し求めているのだ。"(ドラーテン p.106)

"ビュスタモントのイメージ―写真と立体作品―は、世界を把握しようという試みとしてではなく、むしろ反対に、把握しようとする意志の放棄とみなされうるだろう。"(ドラーテン p.106-107)

"だから、我々は先入観なしにゆっくりと見るための時間をとろうではないか。何を知ることもなく、まず自分が見ているものを引き受けること。"(ドラーテン p.107)

"自らの内に持っているイメージ、自分自身が変わっていくように移ろいゆくイメージを問題としているのである。"(ドラーテン p.108)

"現実の手段によって現実から抜け出すこと、言語の過剰のなかで失語状態になること、この危険な企てに、ビュスタモントは自らをそして観客をさらすのである。"(ドラーテン p.108)

"実際ビュスタモントは言う、イメージが彼を見出すのであり、逆ではない、と。"(ドラーテン p.111)

"...ビュスタモントは、秘密のなかに閉じこもるようなイメージを取り上げるのである。"(ドラーテン p.112)

"すべての画家と同じく、ビュスタモントも描かれざるイメージ群をひきずっている。"(ドラーテン p.113)

"1977年から制作が開始された代表作〈タブロー〉のシリーズに見られるように、ビュスタモントは、自然と人工物が併存する比較的ありふれた現実の風景を写真メディアを介して精緻かつ平静に「絵画化」する。・・・(中略)・・・特定の対象をいかに真実として伝えるかといった、これまでの写真のあり方ではなく、何げない日常の風景への凝視、あるいは眼差しに重きをおいた彼の作品は、現代の写真表現にたいして強い影響を与え続けている。"(天野 p.122)

"...ビュスタモントは、見なれた風景が、実際には見なれているというだけで、鮮明なイメージとして記憶されているわけではないこと、そして実は日常を注視する行為ほど困難を伴う作業はないことをここで伝えようとする。"(天野 p.123)

"そして、91年の湾岸戦争あたりから写真家たちは、写真の眼差しを、大きな物語=歴史に向けるのではなく、私的な、そして日常的な風景に向けるようになる。よりリアルな風景を模索する結果、等身大の風景に辛うじて自らのリアリティを感じることができたからだ。"(天野 p.124)

"...彼が〈タブロー〉を撮影する際に、何の変哲もない郊外の風景、なかでも人の手の入った風景を意識的に選んだこと、つまり自然と人工のあいだ、あるいは未完の都市風景のなかの、言ってしまえば中途半端な風景にその眼差しが向けられたことに関係する。まさに、宙吊りにされた状態は、ますます「真実」を見分けることが困難となり、それが現実風景への対応を保留せざるをえない現代の写真にも通じる点であるからだ。"(天野 p.124-125)

"この意味で、〈タブロー〉という作品は、見る側の「見る」という意志が働くことではじめて成立するのだ。"(天野 p.125)

"そして、観者は、〈タブロー〉の前に立つことで、その複雑な様相とのあいだで対話を交わし、日常の現実としての世界の一端を眺めるがごとき体験をすることになる。"(天野 p.126)

"...透明性のあるアクリルという素材は、それが展示される壁に属するのか、あるいはそれを見ている我々が立っている空間に属しているのか、まさに両義的な存在となっている..."(天野 p.127)

"ビュスタモントは、そうした演出された空間において、観者に世界との対話を要請する。けっして容易ではない対話を辛抱強く続けることを期待する。"(天野 p.127)

"そして、展示の全体に、ビュスタモントの個々の作品を連動させる世界観が、通奏低音のように流れている。"(天野 p.129)

"...あくまでも視覚との関係において感知される深さや浅さといったことがここでも主題となっているのだ。"(天野 p.129)

ビュスタモントのことば

「作品と観客とのあいだで交わされる対話は独特のもので、興味をそそられます。作品は自分を守ろうとして、分析されるのを拒むのです。作品の前を通り過ぎようとする観客を阻むものはないし、立ち止まることを邪魔するものもありません。私の作品など目もくれずに通り過ぎることもできる一方で、私の作品が人目を惹きつけるということもない。作品そのもののうちにこうした矛盾が潜んでいるという状態が気に入っていて、この矛盾がけっして解決しない時にこそ、芸術に触れているという感覚が湧き上がってくるのです。」(河野通孝「ビュスタモントのことば」 p.132)

この写真作品の主題。それは世界そのものであって、そのなかで孤立しているひとつひとつのものというわけではない。」(河野 p.132)

「ある時期私がしていたように、曖昧な場所、移り行く空間、街はずれといった不安定な空間を写真に撮るということは、写真固有の特性をはっきりさせるということにも通じます。つまり、すばやい動きをつかまえるのではなく、ゆっくりとした動きをとらえるということ。それは大地の動きを、と同時に脱文明化の動きをとらえるということなのです。」(河野 p.133)

「しかし、こうした未完ともいえる状態であるだけに、作品を見ている人はもっと作品に近づき、作品と崇高な関係を結ぶことなく、ある種親密な対話を交わすことができるのです。」(河野 p.134)

「私は、写真の現像所で数年間働いたことがあるのです。そこではいつもイメージを出現させていました。深遠からイメージがたち現れてくる現場に出会ったのです。だからこそ事物を潜在させながら、層状に出現させようと思うのです。」(河野 p.135)

私がやりたいことは作品と人間の関係を変化させるということで、ある感情を引き起こしたり、何かを教えたりするのはもはや作品ではないと思うのです。作品の果たすべき義務とは、作品を見ている人の存在を証明することであって、その結果、見ている人も作品にたいして負うべき責任が発生してくるのです。」(河野 p.136)

「何かが足りないという感情がますます私のなかで膨らんでいるのを感じます。制作している時も、普段の生活でも、いつもこの感情が頭から離れないので、いかなる押しつけがましい態度もとることがないよう心がけているのです。」(河野 p.137)

私はもはや『デウス・エクス・マキナ』としての芸術家像、つまり窮地に突然現れて救済をする全能の神といったような芸術家像など信用してはいないのです。」(河野 p.138)

「1970年代、コンセプチュアルな規則を厳格に定めて作品をつくっていた芸術家たちにとって、写真とは目的に到達するための手段となっていました。・・・・・・私はこうした風潮に抗い、写真をオブジェへ戻そうと試みた世代に属しています。そこに新しいイメージや新しい形態、あるいはすっきりとした平面への欲求や新しいコンセプトの創造などが見出せなくても、つまり格別の創造がなくとも、オブジェへと回帰し、そこにただようはかなさを取り戻そうとしたのです。」(河野 p.138)

重要なことは、むしろ、制作している時に感じる不思議な感覚なのであって、完成したあとにもその感覚が残っているかどうかなのです。」(河野 p.138)

「...置き換えをこころみたり、はぐらかすことによって事物の新しい関係を見出し、提示したいと思っているのです。私にとって、作品をつくるということは、誘導することなのです。」(河野 p.139)

作品というのは、なによりもまずそれを見る人の存在を証明するものであるべきだし、そうして存在を証明されたその人自身も作品との関係に責任を持つようになるのです。」(河野 p.139)



参考:DVD

 "Contacts. Le Renouveau de la Photographie Contemporaine, vol. 2," arteVIDEO, (c)1992-2000-La Sept ARTE-KS VISIONS-Le Centre national de la photographie
  11 films: Sophie Calle, Nan Goldin, Duane Michals, Sarah Moon, Nobuyoshi Araki, Hiroshi Sugimoto, Andreas Gursky, Thomas Ruff, Jeff Wall, Lewis Baltz, Jean-Marc Bustamante(11×13min.)