長岡現代美術館は、現代美術の推進に積極的に寄与することを念願としています。この意図に沿ったひとつの事業として、今度新しく、当美術館にて、「長岡現代美術館賞展」を毎年一回開催することになりました。2-2 受賞者一覧
毎年、その年間に発表された作品をよりどころとして、現代美術に新風を送りこみ、さらにひろく国際的にも活躍し得る能力をもつとおもわれる作家を選びだして組織されたものです。現代美術はその表現の多彩さに加え、絵画・彫刻・版画などのジャンルをはみだしたような作品がうまれていますが、この展覧会は、そういう現代美術の動向をひろく反映するとともに、明日のヴィジョンをきりひらく鋭意なものでありたいと考えています。
当美術館は、この展覧会の出品者のうちから選ばれた一名にたいして「長岡現代美術館賞」を贈与します。
この賞が単に画壇の新人を顕賞するという意味のものでなく、作家のヴィジョンの開発の原動力となり、世界的な視野での現代美術の進展に寄与したというのが設立の主旨であります。
1964年 第1回展 岡本信治郎《10人のインディアン》(10点組)
1965年 第2回展 選出せず(チャールズ・ヒンマン推薦と高松次郎推薦とが拮抗)
1966年 第3回展 エンリコ・カステラーニ
1967年 第4回展 山口勝弘《作品》
1968年 第5回展 関根伸夫《位相―スポンジ》
1901 (明34) |
越後長岡で、味噌、醤油造りを営む父宇多七、母トキとの間の10番目の子供(三男)として誕生 |
旧制長岡中学卒業 | |
1920 (大 9) |
新潟高校中退(病気のため) |
大阪の株式仲買会社に給仕奉公 | |
1922 (大11) |
帰郷(父の死のため)、兄と共に無尽(互いに掛け金を融通し合う目的の組織)会社設立 |
西田天香(1872-1968)によって京都に設立された信仰団体「一灯園」に惹かれる(トルストイの影響から「無所有、無一物」をモットーとし、信者の絶対平等、共同生活、奉仕の托鉢業を行う)。 | |
1927頃 | 帰郷、無尽会社再建 |
1928 (昭 3) |
北越産業無尽の支配人就任 |
1941 (昭16) |
同社長就任 |
1942 (昭17) |
「大光無尽」と社名変更:「大光」は観音経の一節「広大智慧観 無垢清浄光」に由来 |
1943 (昭18) |
第4代長岡商工会議所会頭就任(〜昭37) |
1951 (昭26) |
大光無尽、「大光相互銀行」へ改組、社長就任 |
1964 (昭39) |
「財団法人長岡現代美術館」開館、館長就任 |
1972 (昭47) |
NST新潟総合テレビ社長就任(〜平11) |
1994 (平 6) |
「財団法人駒形十吉記念美術館」開館、館長就任(〜平11) |
1999 (平11) |
98歳で没 |