講義ノート2


精読2


1 赤線を引くところ、青線の中でも特に重要なところ、緑線を引いたところ

 

 2 分析的キュビスムに対する抽象表現主義の優位 p.59 上l.22-p.60 下l.16

p.59 下l.2-3 "...抽象表現主義の展開全体は、実際、抽象的キュビスムの総合的種類から分析的種類への後退として記述され得た。"

p.59 下l.18-23 "ポロックの蜘蛛の巣状のものやシミによって創りだされる漠然とした空間は、いつも「抽象的」な空間として機能するわけではない。それはイリュージョンとしても機能し得るのである。分析的キュビスムは芸術と自然の双方を追及することで、徹底した抽象のせとぎわにまで到ったが、一方、抽象表現主義は明らかに芸術だけを追求することで、自然の領域へと立ち返ったのである。"

p.60 上l.8-10 "分析的キュビスムは、帰する場所なき再現性の件の他にも、絵画的なものと非-絵画的なものの総合を具現化していた。"

p.60 上l.18-23 "このことはホフマンについてでさえ本当のことなのだ。・・・(中略)・・・フォーヴィスムがキュビスムと結合したのと同時に絵画的なものが線的なものと融合しているのである。"

p.60 下l.12-16 "つまり私は、ニューマン、ロスコ、スティールのことを言っているのだが、彼らは絵画的であることを放棄してしまった、もしくは少なくとも抽象表現主義とのある種の関連を放棄してしまったのであり、それはまさに色彩の優位性に的を絞った考え方のためであった。"

 3 開放性と構想―スティール、ロスコ、ニューマン p.60 下l.17-p.64 下l.9

p.60 下l.21-22 "そして開放性(ルビ:オープンネス)が、絵画的なもののもうひとつの目的であるはずなのに、絵具をがむしゃらに用いることは、絵画の表面をぎっしり詰まったごった返し(ルビ:ジャングル)の中へと詰め込む結果に終わっている―"

p.61 上l.2-8 "スティール、ニューマン、ロスコは、抽象表現主義の絵画的な手法(ルビ:ペインタリネス)から顔を背けている。まるで絵画的であることの目的―色彩と開放性―を、絵画的であること自体から救い出すためであるかのように。しかし、彼らの芸術は、絵画的と非-絵画的の総合を成し遂げたというよりも、むしろその二つの間の差異を超越したと言える。超越であって和解ではない―和解とは、現在、ホフマンの性質であるように、かつては分析的キュビスムの性質だった。"

p.61 上l.14-18 "モダニズムの芸術の偉大な革新者の一人であるクリフォード・スティルは、色彩の強調に関しては、このグループの主導者であり開拓者である。彼は、遠い昔からの明暗対比の強調に反対して、色彩には多かれ少なかれ明度差とは無関係に、純粋な色相対比を通じて発揮される力があることを主張した。"

p.61 下l.13-16 "スティール同様、彼ら両者とも〔講師註:ニューマンとロスコ〕慎重に考え抜いたものを提示しようとするのであり、それはあたかも、今や絵筆やペインティング・ナイフの素早い取扱いから離れられなくなってしまっているマンネリズムを彼らが拒絶することを実証するためであるかのようだ。"

p.61 下l.23-p.62 上l.2 "しかしニューマンとロスコは、触覚性と細かいドローイングを避けることによって、もっと積極的な開放性色彩のもっと鋭い効果であると私に見受けられるものに到達している。"

p.62 上l.7-11 "同時に色彩は、位置を定めて表示する役割から解放されることによって、より自律的となる。それはもはや領域や面を特定したり、その中を満たしたりするのではなく、形体や距離の限定を多かれ少なかれ解消して、色彩それ自身のために語るのである。"

p.62 上l.15-18 "サイズは、漠とした空間を示唆するために必要とされる色相の鮮明さと同じくらい、色相の純粋さをも保証する。つまり、沢山の青は少しの青よりも単に青いということだ。"

p.62 上l.19-23 "これに関しても再びスティールが、まず最初にその方途を、自分のものにした二色か三色の絵画(・・・略・・・)というヴィジョンを指し示したのだった(・・・略・・・)。"

p.62 下l.5-8 "つまり諸形体の空間の量の適正な均整によって、最も扱いにくい色彩もしくは色彩同士の関係を克服することができるのである。(芸術が全く関係性と諸調整との問題であるということはいくら強調しても十分ではない。)"

p.62 下l.9-14 "これら三人の画家全員の芸術において達成された究極の効果は、色彩の強度以上のものとして記述されなければならない。それはむしろ、それによる創造のただ中にあって色彩を包みこんで同化する、殆ど文字通りの開放性の効果である。"

p.62 下l.15-17 "開放性は―絵画芸術においてのみらなず―この時代に馴染んでしまった眼を最も活気づけると思われる質である。"

p.62 下l.18-21 "...ニューマン、ロスコ、スティールの絵画における新しい開かれた性質が、近い将来の高度な絵画芸術のための唯一の方向への道を示している、と私は考えているということだけで良しとしよう。"

p.62 下l.22-23 "その方向は、彼らの制作や手法における妙技の放棄によってもまた指し示されている。"

p.63 上l.4-8 "絵画芸術にとっての削減し得ないものとは、たった二つの構造の因習もしくは基準のうちに存するということが、今では確かなものとなってきたように思われる。それは平面性と、その平面性を限界づけるものである。言い換えれば、これらたった二つの基準に従うことで、絵画として経験されるものを創造するには十分なのである。"

p.63 上l.17-19 "...ニューマン、ロスコ、スティールは、モダニズムの絵画の自己−批判をその元来の方向でただ継承することによって、それを新しい方向へと変えてしまったのだ。"

p.63 上l.19-22 "彼らの芸術において今問われている問題は、もはや、芸術もしくは絵画という芸術をそれ自体として構成するものは何か、ではなく、良い芸術をそれ自体として構成するものは何か、ということである。"

p.63 上l.23-下l.1 "そこから導き出された解答はこうであるように思われる。すなわち技量でも訓練でもないし、制作や実作に関係したその他のいかなるものでもなくて、唯一構想(ルビ:コンセプション)だけである、と。"

p.63 下l.10-11 "技量つまり器用さは、今ではもはや質を生み出せないことが明らかにされている。"

p.63 下l.14-17 "インスピレーション、構想だけが徹底的に個人的なものに属している。その他のものは全て、今や誰にでも入手され得るのだ。インスピレーションつまり構想だけは依然として、複製も模倣もされ得ない、成功した作品の創造における唯一の要因である。"

p.63 下l.20-23 "ニューマンの絵画は複製が容易に見えるし、おそらく実際そうだろう。しかしそれらを着想したり創案したりすることは全くもって容易ではないし、それらの絵画の質は殆ど完全にそれらの構想のうちに在るのだ。"

p.64 上l.3-6 "メディウム、色彩、サイズ、形態、均整―支持体のサイズや形態をも含めて―の正確な選択が、その結果の成功を左右するのであり、これらの選択は、唯一インスピレーションだけに頼らねばならないのである。"

p.64 上l.12-13 "ニューマンの隣に置かれると、他の大抵の現代絵画は凝りすぎたものに見えはじめるのだ。"

p.64 上l.14-15 "この理由から、アメリカの抽象芸術における幾人かの最も力強い新進や若手への称賛のうち、とりわけそれがニューマンに注がれるのである。"

p.64 上l.18-21 "ルイスやノーランドのような画家たちもそのことで意を固めているが、正確には彼らが直接的にニューマンに影響されたのではないから、なおさらである。(その件に関しては、スティールからもロスコからも影響されたのではない。)"

p.64 下l.4-5 "私は、ジャーナリストや学芸員たちが広めた誤解を解くためにのみこの点を強調しているにすぎない。"

 4 ネオ・ダダの否定 p.64 下l.10-p.65

p.64 下l.11-13 "抽象表現主義の余波に関する問題の核心は、いずれの場合も影響関係それ自体とはほとんど無関係である。芸術家たちが最終的に分岐するのは、安全な趣味が終わるところである。"

p.64 下l.22-p.65 上l.1 "我が国において、「ネオ・ダダ」や構成物-コラージュや、産業化した環境の陳腐さへの皮肉な注釈に熱中してきたその他の芸術家たちは、全くもって安全な趣味の支配を脱してはいない―彼らの殆どがとりわけそうなのだ。(ジョーンズは唯一の例外である。)"

p.65 上l.11-13 "いずれの場合にも結果は、因習的でキュビスム的なこぎれいさを有しており、ほとんどそれは「抽象表現主義以後」という見出しのもとで議論されるに値しない。"



2 講義用参考図版 ※原文にない図版

ゴットリーブ(Gottlieb)《青》(1962)

ニューマン(Newman)《ディオニュシオス》(1949)

スティル(Still)《1948》(1948)、《1951-N》(1951)

ミルトン・エイヴリー(Milton Avery)《 緑色の海》

ルイス(Louis)《Saraband》(1959)、《Beta Kappa》(1961)

ノーランド(Noland)《C》(1964)

サム・フランシス(Sam Francis)《白い線》(1958/59)

ジュールズ・オリツキー(Jules Olitski)《》()