講義ノート3


諸論精読2

1 赤線を引くところ、青線の中でも特に重要なところ

 1-1 (一) 様式の謎 pp. 25-27

 1-1-1 アランの漫画 pp.25〜26
p.25 l.7-8 "それぞれの時代や民族で、なぜ視覚世界の再現方法が異なっているのか。"
 1-1-2 芸術的視の多様性と美術史家の研究態度への反省 pp.26〜27
p.26 l.4 "美術史に関する問題点は多々あるが、それらは歴史的な方法だけでは解決できない。"


 1-2 (二) イリュージョン pp.27-33

 1-2-1 二十世紀前半の美術革新とイリュージョンの問題 pp.27〜28
p.27 l.8-9 "二十世紀前半、大きな美術革新の嵐が全ヨーロッパを席巻するわけだが、この美術運動のおかげでわたしたちは前述のような美学の殻を脱ぎすてた..."
 1-2-2 兎か家鴨か pp.28〜29
p.28 l.16-p.29.l.1 "イリュージョンを発見することはあっても、それを記述したり分析したりするのはむずかしい。ある特定の経験をした場合、あれがきっとイリュージョンに「相違ない」とあとで知的に自覚はするだろうが、厳密な意味で、イリュージョンの渦中にある自己を見つめることはできないからである。"
 1-2-3 浴室の鏡 p.29 
p.29 l.11-3 "この主張は普通そのまま素直に信じてもらえそうにない。かくいう私自身も、幾何学がどうであろうと、髭を剃っているときにはほんとうの自分の顔(実物大の)を見ていると信じて疑わない..."
 1-2-4 ケネス・クラークの試み pp.29〜30
p.30 l.3 "ついに彼は同時に二つのヴィジョンをとらえることができなかった。"

p.30 l.7-8 "本書では、視覚効果の問題を美術作品の問題と切り離して論じた方が都合がよいと考えた。"
 1-2-5 略画遊び pp.30〜31
p.30 l.11-2 "再現は必ずしも芸術である必要はないのだが、それでも芸術に優るとも劣らず不可解なものである。"
 pp.31〜32 「再現方法の通俗化」についての指摘
p.31 l.11-2 "美術家でありしかも「イリュージョン作家」でもあるような過去の芸術家と取り組む場合、芸術研究とイリュージョン研究をいつも別々に考えられるはずがない。"

p.31 l.17-p.32 l.13 "かつては美術家たちが誇りとも手柄ともしていた再現方法の発見やその効果も、今ではつまらないものになってしまったという。わたくしはしばらくの間、この説を否定しないでおこう。だがしかし、この再現の問題が芸術とは何らかかわりあいがなかったとする近頃流行の思想を認めるならば、わたくしたちは過去の巨匠たちとのつながりを失ってしまうという誠に由々しい結果を招くのではなかろうか。自然の再現が今では何か陳腐なものと見なされている原因の究明こそ、歴史家にとってはなによりも興味深い問題であるはずだ。今日のように、視覚イメージがあらゆる意味でこんなにも安っぽかった時代はかつで一度もなかった。わたくしたちの身辺にはポスターとか広告がひしめいており、漫画や雑誌の挿絵などの矢面に立たされている。現代人はテレビのスクリーンや映画に映し出されるものとか、郵便切手や食品のパッケージに描かれているものなどを通して、再現された現実世界のいろいろの面を見ている。絵を描くことは、一種の療法として学校で教えられ、娯楽として家庭でたしなまれているし、多くの素人画家たちは、かつてジォットにとって魔術そのもののように考えられていたトリックを、いとも簡単に習得してしまっている。たとえば、ありふれた朝食用のコーンフレークの箱一つとってみても、あのけばけばしい色で描かれた絵もおそらくジォット時代の人々にしてみれば息が止まるほどの驚きであったと思われる。だからといって、ただちにこの箱の絵の方がジォットよりすぐれていると考える人がいるかどうかは知らない。少なくとも、わたくしはそうは考えない。しかしながら、再現方法の克服と通俗化が、美術史家にも美術評論家にも一つの問題を提起しているのではないかと考える。"
 pp.32〜33 本書の目的
p.32 l.15-7 "わたくしが以下の各章で解明せんとする主たる目的は、形、線、影、色などを駆使して、いわゆる「絵画」という視覚的現実の不思議なまぼろしをつくり出してしまう人間の能力に対して、もう一度驚異の眼を向けさせることにある。"


 1-3 (三) 様式論の展開(1) pp.34-41

 1-3-1 以下四節の構成 p.34
p.34 l.4-5 "哲学的な問題と取組み、新しい解決策を提案する人びとは、まずはじめに歴史について批判的な考察を加えることから出発しなければならない..."
 1-3-2 古典古代〜ルネサンス:様式用語の蓄積、タキトゥス、「ミメーシス」、ヴァサーリ pp.34〜37
p.35 l.15-6 "時代の条件に応じて聴き方もまたいろいろに変化するというタキトゥスの考え方は、様式の心理学と知覚の心理学とがはじめて触れ合った瞬間ではなかろうか。"

p.36 l.6-9 "ところで、古典古代が、かかる考察の中に含まれている意味を、果たしてどの程度まで認識していたか定かではない。厳密にいえば、それは今なお未解決の問題を提起しているとも言えるのだ。画家たちが見事に現実を模倣するのは「よりよく見る」ためなのか、それとも、彼らがよりよく見るのは模倣の技術を身につけているためなのであろうか。いずれの見方も、どうも常識的な体験から割出した推測の域を出ていないように思う。"
 1-3-3 ルネサンス〜十八世紀:マサッチオ、リチャードソン、バリー pp.37〜40
p.38 l.10-2 "「自然を見ること」とは何かという問い、つまり今日のいわゆる知覚心理学の問題は、まず美術教育における実技上の問題として様式論の中で取上げられた。再現の正確さに意を注ぐアカデミックな教師は、生徒がこれに手を焼くのは自然を写す力がないだけでなく自然を見る力も持っていないからだと気付いた。"

p.40 l.7-8 "幾分なりともそれについて事前に知っていたり探求心がない限り、目の前に展開されている光景といえども目にとまらないのだ。"

p.40 l.9-11 "われわれの視の領域の縮小と拡大が、たんなる肉体的な視覚の受像以外のいろいろの条件によるところが如何に大きいかを痛感させられるのである。"
 1-3-4 十九世紀:コンスタブルとラスキン pp.40〜41
p.40 l.13-4 "科学の抬頭と、事実に即した観察に新たな関心が向けられたのに刺激されて、十九世紀を迎えると、この種の視覚の諸問題が美術家たちによりしきりに論じられるようになった。"

p.41 l.4-9 "懐疑的な批評家が、試しに波や雲、岩や草木の構造について分析してみても、つねにターナーは正確であると認めざるをえないであろう。美術の進歩は、ことここに至って、ついに伝統への偏見を制したのだ。思えばここまで辿りつくのに随分手間取ったものだが、これは、わたくしたちが現に見ているものと、ただ知識として知っているものとを峻別し、清浄な眼を取戻すのが如何に至難であったかの証左でもある。"

p.41 l.15-7 "だがしかし、ほんとうに印象派の画家たちは、彼らが描いているように自然を見、「網膜上のイメージ」を再生したと主張する権利があったのだろうか。それが果たして、美術史がひたすらそれに向かって突進んでいたゴールだったのであろうか。知覚の心理学は、美術家の諸問題を最終的に解決することができたのであろうか。"


 1-4 (四) 様式論の展開(2) pp.42-51

 1-4-1 古典古代〜印象派:感覚と知覚をめぐって pp.42〜43
p.42 l.3-4 "わたくしたちが現に見ているものと、知性によって推論するものとを区分する考え方は、遠く人間が知覚について考えたときからすでにはじまっている。"

p.42 l.11-3 "...もしも眼が光と色だけにしか反応しないとするならば、わたくしたちの第三次元、つまり奥行きの知識は一体どこから来るのかというわけである。"

p.42 l.13-4 "空間や量塊感についての知識は、触覚や運動感覚から得られるに違いないというのだ。"
 1-4-2 フィードラーとヒルデブラント pp.43〜44
p.43 l.8-10 "彼は印象派に反対して、「精神の操作にとって、あたかもたんなる原料のように思える印象というようなもっとも単純な感覚でさえ、すでに一つの精神的な問題なのであって、いわゆる外的世界も実のところ複雑な心理学的過程から出てきた結果なのである」と指摘した。"
 1-4-3 ヴェルフリン、リーグル、ヴィックホフ pp.44〜48
p.47 l.1-3 "触覚は、移動する視点にかかわりなく、物を永遠の形においてとらえる一層「客観的」な感覚である。エジプト人たちが三次元的描写を避けた理由もここにある。画面に、引込んだくぼみや短縮法を持ち込むのは、とりもなおさず主観的な要素を導入してしまうことになるからである。"
 1-4-4 ヘーゲルの歴史哲学 p.48
p.48 l.8-9 "ローマン派は、歴史それ自体がそもそも少年期から成熟期に至る人間進化の一大ドラマと考えた。こうして美術は、世界精神が到達した状態を示す徴候となり、「年齢の表現」となった。"
 1-4-5 ゼードルマイヤー、全体主義と時代精神 pp.48〜50
p.48 l.18-p.49 l.1 "「人類」「民族」「時代」といった集合名詞を使った語り口の説き方では、全体主義的な気質の人に対する抵抗を弱める。"

p.50 l.4-6 "特にこれというような仮説が立てられないのであれば、さしずめ現に存在している一定の外的再現法などが平易なその説明の材料を提供してくれているわけで、こうした同型の再現法があるということは、とりもなおさずそこに超個人的精神、つまり「時代精神」とか「民族精神」なるものがあるからにほかならない。"
 1-4-6 徴候的な意味のみを帯びた選び方の歴史 pp.50〜51
p.50 l.16 "趣味と流行の歴史は、選択の歴史、与えられたものの中からどれにするかの選び方の歴史である。"

p.51 l.5-7 "もしも様式を、あるものの徴候として扱いたいと本気で考えるなら、二者択一の理論なしでは不可能だ。なぜなら、変化が必然的で絶対的なものであれば、比較の余地など残されていないわけだし、...。"


 1-5 (五) 様式論の展開(3) pp.51-56

 1-5-1 指導を受けた学者たち(1):ローウィ pp.51〜53
p.53 l.7-10 "ローウィは、人間の進化という立場からではなく、前述の特徴が、ゆっくりとではあるが理路整然と除去されて行った史上初の時代として、初期ギリシア美術をテーマにしながら、現実のイリュージョンを志向する美術によって、圧倒される運命にあった諸力を見直すべきことを教えてくれた。"
 1-5-2 指導を受けた学者たち(2):シュロッサー pp.53〜54
p.53 l.13-4 "ちょうど同じ頃、わたくしの美術史の恩師であるユリウス・フォン・シュロッサーも、類型の果たす役割、就中、伝統における固定形式(ステレオタイプ)の役割りに特に関心を持っていた。"
 1-5-3 指導を受けた学者たち(3):ヴァールブルク p.54
p.54 l.3 "...新しい視覚言語の採用によるルネッサンス様式の発生に関する調査研究にまで及んだ。"
 1-5-4 指導を受けた学者たち(4):マルロー pp.54〜55
p.54 l.14-5 "...過去の様式は文字通り各時代の美術家たちのものの「見方」を反映しているとする誤解には、はっきり決着をつけている。"

p.54 l.17-8 "わたくしたちは、アラン漫画の謎ときについて、まだ満を持しうる解説に接していない。"

p.55 l.5-6 "伝統の力に関するこれらの知識で梃入れして、今一度、様式の問題にアプローチする時機に来ているのではないかと思う。"
 1-5-5 芸術における慣習というテーマ pp.55〜56
p.55 l.8-9 "美術史は、影響の究明に専心当たっているものだから、創造性の神秘を見のがすことになるのだという非難は、耳にたこができるほど聞かされてきた。"

p.56 l.2-5 "...ただしここでは、いくら新しい容器の形にしても、かつて工芸家が見たことのあるものと、兎にも角にも同系列の形式をとると思われる点、あるいはまた、画家の「森羅万象」の再現法は、その師たちから彼に授けられた再現法と必ずや連続するものを持つと思われる点、などに触れていないのである。"


 1-6 (六) 現在の状況と本書のプログラム pp.56-63

 1-6-1 心理学の必要性 pp.56〜58
p.56 l.9-10 "わたくしたちの学問の中心課題と取組むには、「見ること」と「知ること」を対立させる旧い考え方を繰返していたり、すべて再現は慣習に基づくとする一般論にこだわっているようでは駄目だ。"

p.57 l.14-5 "知識の歴史における最も幸運な瞬間は、まだ特別な資料でしかなかった事実が、それとはあきらかにかけ離れた他の事実と関係づけられたときに起こる"
 pp.58〜59 心理学から芸術の領域への突入:アルンハイム、アイヴィンス・ジュニア、エーレンツヴァイク
 pp.59〜62 心理学領野への「遠征」
p.59 l.6-8 "彼らは、心理学者の国境を越えて侵入をはかることが、様式研究の歴史家に課せられた急務なりと力説しているように思われる。この遠征による戦利品の成果に期待をかけたが、首尾は上々で、個々別々ながら奪取した心理学の実験結果は二、三にとどまらない。しかもそれは、従来の人間精神についての観念を根底からくつがえす急激な方向転換を伝える報道であり、美術史家たる者無関心で放置できぬものである。"

p.60 l.2-4 "いずれにしても、一見異説紛々たるかっこうながら、各理論とも、次第に刺激から有機体の反応へ論点を移行する形勢にある。そして、この反応も、はじめは不明瞭で一般的だが、だんだんと分節し分化してくることが明らかになりつつある。"

p.60 l.5-7 "「学習の過程は、不確定から確定への道をとるのであって、感覚から知覚へ進むのではない。人は、知覚されたものを所有するために学習するのではなく、それらを分化するために学習するのだ」と、J・J・ギブソンは視を論じた中で書いている。"

p.61 l.3-6 "心理学でこの種のアプローチは、次のようなブルナーとポストマンの理論の中に採り入れられている。すなわち、「認識過程というものは、知覚、思考、想起のかたちの別にかかわりなく、すべて有機体が組み立てた『仮説』をあらわしている。(中略)それらの仮説は、もう一歩"押し進めた"経験のかたちをとった『解答』、つまり、仮説を確証するか反証するかのいずれかの解答を求める」。"

p.61 l.13-p.62 l.3 "わたくしの主たる関心は、イメージをつくることの分析、つまり、美術家が「つくることと合わせること making and matching」により、視の秘密の一部を発見したやり方を解明することにあった。アラン描くところのエジプトの少年たちが、現実のイリュージョンを創る前に、まず学ばねばならなかったことは、「彼らが見たものを写す」ことではなくて、静止した視の拠どころにしなければならない曖昧な手がかりを、イメージと現実とが見分けがつけにくいところまで巧みに処理することであった。別の言い方をすれば、彼らは「兎か家鴨か」の遊びをする代わりに、彩色された地上の形態 configuration をあやつりながら、すくなくともある距離をおいてみればイリュージョンを生ずるような「カンヴァスか自然か」のゲームを発明しなければならなかったのである。芸術的か否かは別にして、これはまさに、数えきれないほどの試みとやり損ないの結果、はじめて浮び出てくるゲームなのだ。"
 pp.62〜63 本書の構成、性格づけ
p.62 l.10-4 "それぞれの結果は、全体の構造の中でささえられていることもまた事実である。媒体や図式からくる似ることの限界、イメージをつくる上での形式と機能との間のつながり、就中、曖昧さの解決にあたり観照者の果たす役割についての分析などは、芸術のイリュージョンは成果であるばかりでなく、美術家が外観を分析する上で欠かせない道具でもあるから、美術には歴史があるのだとするむき出しの陳述をまことしやかなものに思わせるだろう。"

p.63 l.10 "芸術様式の心理学は白紙のままなのだ。"

2 緑線を引いたところ
p.25 l.9-10 "わたくしたちが本物そっくりだと思っている絵も、未来の人々から見れば、エジプト絵画を前にした現代人と五十歩百歩で、説得力に欠けるのではなかろうか。"

p.32 l.14-5 "ギリシア人は、驚きは知識のはじまりであり、驚きがなくなってしまえば知識欲の中絶に通ずる危険があると言った。"

p.46 l.1-2 "歴史家の務めは、判断することではなく説明することなのである。"

p.55 l.8-9 "美術史は、影響の究明に専心当たっているものだから、創造性の神秘を見のがすことになるのだという非難は、耳にたこができるほど聞かされてきた。"

p.58 l.9-10 "...彼をして「芸術的現実の水準をもう一歩おし進めれば」、ピカソ、ブラック、クレーなどの作品が、「彼らが再現している物と寸分違わないものに見える」ようになると期待させるのである。"

p.62 l.15-6 "だが読者はここで本をおかずにわたくしと一緒に、この観念を人相の表情に応用したり、さらには、遙かに瞥見する程度ながら、かの約束の地ともいうべき美学との境界領域にもこれを応用して検査することを望みたい。"