講義ノート3


序論精読2

1 イコノログラフィー/イコノロジー要説

p.3〜
1-1 日常生活を例にとった三層分析

事例:「街である知人が帽子をとって私に挨拶」

 *参考図版
  ギュスターヴ・クールベ《出会い(こんにちは、クールベさん)》 1854年 油彩・カンヴァス 129.0×148.0 モンペリエ、ファーブル美術館


1-1-1 「第一段階的・自然的意味」:「形の上で」→「主題・意味」の最初の領域

  視覚世界:色・線・量の全体的パターンの一部を成す形態の中の幾つかの細部の変化
   ↓
  対象:紳士、出来事:帽子をとること

1-1-1-A 「事実的意味」:初歩的で理解しやすい性質のもの
p.3 l.10-2 "...視覚に映ったある形を、実際的経験によってすでに私が知っているある対象と同じもとの単純に認めることによって、またそれらの形の関係の変化を、ある行為や出来事と同一であると認めることによって把握される。"

1)経験によって、私は私の視界にあるものが、人間であり、さらには私の「知人」であることを認知する。
2)これもまた経験によって、対象の一番上方、それはつまり「頭上」であり、そこに存在するものは「帽子」であり、対象の左右に突きだしているものは人間においては「腕」ないし「手」であり、それが帽子へとのび、それは視覚的には「形態の変化」であるのだが、私の脳においては、「彼が彼の意志によって手を動かしている」ということが経験的に理解される。
3)そして、「手」はものを掴むことができる、ということも経験的に理解している私は、彼の手が帽子をつかみその帽子を頭に「被った」(これも経験的理解による)状態から、別の状態に変化させる動作について、それは「帽子をとる」という行為である、ということも、「帽子」が人間の服飾品であることを知る私は経験的に理解しうる。

1-1-1-B 「表現的意味」:心理学的なニュアンス
p.3 l.16-p.4 l.1 "これは単純な認識によってではなく、「感情移入」によって把握されるという点において「事実的意味」とは異なっている。"

4)彼に対する「感情移入」により、彼が帽子を大げさにとる身振り、最初目を丸くし、それからその目を細める様子が観察されるなら、彼は私と久しぶりに会って喜んでいるのだ、という印象が私の中には生起するし、また、彼が軽く帽子をとるにとどまり、視線も合わせないようなら、彼には何か気がかりなことがあって、私と出会ったことに対してあまり関心を抱いていないのだ、というような勘が働く。また動作は丁寧でも、こちらを見据えるような鋭い目つき、憮然とした口元などが合わせて観察されるようならば、「何かこちらに敵意を抱いている」ようだ、という推測もつくし、丁寧な動作は逆に「形式的なもの」だ、とすら判断するであろう。それらは皆、私が「感情の表現」について、私自身の経験と行動になぞらえて相手の活動にも同内容・同原理の行動様式が成立しうると習慣的に確信しているからである。


1-1-2 「第二段階的・伝習的」:まったく別の解釈の領域
p.4 l.6-10 "この挨拶の形は西洋独特のものであり、中世騎士道の名残りなのである。…(中略)…オーストラリアの未開人や古代のギリシア人に対して、帽子を上げることが何らかの表現的な含蓄をもった実際的な出来事であること、またさらにはそれが礼儀のしるしであることなどを理解するよう期待する方が無理というものであろう。"

・ある文明独特の伝習や文化的伝統
・実際的世界を超えた世界
・感覚的ではなく知的な意味
・意識的に付与されてきた意味


1-1-3 「内的意味・内容」:精神的肖像を組み立てる
p.5 l.1-2 "...経験を積んだ観察者に対しては、彼の「人格」を作り上げるにいたったすべてのものを表すことにもなる。"

p.5 l.7-10 "われわれはこのたったひとつの行為に基づくだけでは無理だとしても、この人間についての多数の同じような観察を統合し、それらをこの紳士の属する時代・国民性・階級・知的伝統などについての全般的な知識と関連させて解釈すれば、そのとき初めて彼の精神的肖像を組み立てることができよう。"

p.6〜
1-2 美術作品における三つの層

1-2-1 「第一段階的・自然的主題」:美術上の「モティーフ」の世界:「イコノグラフィー以前の」記述
1-2-1-A 事実的主題
1-2-1-B 表現的主題
事例:
"人間・動物・植物・家屋・道具などの自然な「対象」の表現として認めること"
"それらの相互関係を「出来事」として認めること"
"さらに姿勢や身振りが悲しげであるとか、室内の雰囲気が家庭的で和やかであるとかいうような「表現的な」特質を知覚すること"
1-2-2 「第二段階的・伝習的主題」:「イメージ・物語・寓意」を認識すること:「狭義のイコノグラフィー」の領域
事例:
"小刀を持った男性像が聖バルトロマイを表し"
聖バルトロマイ:"この使徒について、新約聖書はその名にふれるだけで、行いについては記していない。一方『黄金伝説』は、インドへの伝道やアルメニアで生きながら皮を剥がれて殉教したことを記述している。"(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』 高階秀爾監修 河出書房新社 1988年5月 p.263)
*参考図版
  マテオ・ディ・ジョヴァンニ《聖使徒バルトロマイ》 1480年頃 テンペラ・板 80.5×48.0 ブダペスト国立美術館
  ドッソ・ドッシ《聖ヨハネと聖バルトロマイ、および寄進者》(細部) 1527年 油彩・板 248.0×162.0 ローマ、国立美術館
  ミケランジェロ・ブオナローティ《最後の審判》(部分) 1536-41年 フレスコ 1440.0×1330.0 ローマ、ヴァティカン宮
  ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ《聖バルトロマイの殉教》 1722年 油彩・カンヴァス 167.0×139.0 ヴェネツィア、サン・スタエ

"桃を手にした女性像が「誠実」の擬人化であり"
:"1枚の葉を付けた桃の実は古代において心臓と舌の象徴とされたが、ルネサンスにも同じ意味が引き継がれて、<真実>の擬人像の持物とされた(真実は心と舌が1つになって生まれるの意)。"(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』 p.342)

"一定の配置と一定の姿勢で晩餐の食卓に着いている一群の人々が「最後の晩餐」を表現し"

"一定のやり方で互いに闘っている二人の姿が「悪徳と美徳の闘い」を表現している"
美徳と悪徳:"ゴシック彫刻は一般に、人間または動物の形をした特定の悪徳を足下に踏みつけている美徳の姿を表す。中世におけるキリスト教の美徳の基準は、信仰・希望・慈愛の3つの「対神徳」(「コリント人への第一の手紙」 13:13)と正義・賢明・剛毅・節制の4つの「枢要徳」からなる。後者はプラトンの『共和国』(4:427以下)で、理想都市国家の市民に求められる美徳として定式化された。初期キリスト教の教父たちは、これをキリスト教の美徳と公認し、…(中略)…7つの美徳は、時には適当な悪徳(必ずしも七つの大罪ではない)と対の形で、中世の彫刻・壁画に広く表された。最後の審判と合わせて描かれる場合が多い(ジョット作、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂)。(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』 p.271)"
*参考図版
  パオロ・ヴェロネーゼ《「美徳」の「悪徳」に対する勝利》 1553-4年 油彩・カンヴァス 295.0×165.0 ヴェネツィア、パラッツオ・ドゥカーレ、三委員長の間

ヴェルフリンへの批判的言及
p.7 l.1-9 "われわれは、そう深い考慮も払わずに「『形』に対置される『主題』」とよく口にするが、その場合実際には、…(中略)…「第一段階的・自然的主題」の領域に対置させて、「第二段階的・伝習的主題」の領域、つまり「イメージ・物語・寓意」の中に表された特殊な「テーマ・概念」の世界のことを述べている場合が多いのである。たとえば、ヴェルフリンの言う意味における「形の分析」にしても、大抵は、モティーフやモティーフの組合わせ(構図)の分析であって、言葉を厳密な意味で用いた場合の形の分析ならば、…(中略)…「人」「馬」「柱」というような言葉さえ避けねばならないはずである。"
1-2-3 「内的意味・内容」:エルンスト・カッシーラーが「象徴的価値」と呼んだもの:「深い意味におけるイコノグラフィー」
事例:
"レオナルドの人格の記録として"
"イタリアにおける盛期ルネサンス文化の記録として"
"特殊な宗教的態度の記録として理解しようとするとき"
"「何か別のもの」の一そう特殊化された証拠として解釈しようとする"

p.11〜
1-3 実例とまとめ

1-3-1 イコノグラフィー以前の記述

事例1:ロージェ・ファン・デル・ヴァイデンの『三人のマギ』(図1)、(全体図)と写本挿絵《ナインの青年の復活》(図2)

"小さな子供の「顕現」が空中に描かれている"
「顕現」:"目に見える支えが何もないのに、彼が空中に描かれているという事実"
→「光輪」は十分な証拠にならない:「降誕図」にもしばしば見出される

→比較:「虚の空間に浮かぶ都市」
 ○"抽象的・非現実的な背景として考えられている"
 ×"未熟な観察者なら、この都市はある種の魔法によって中空に浮かべられたところが描かれていると..."
 証拠:基底の奇妙な半円形:山岳地帯に位置:移しかえ

※相反する解釈が生まれる理由:ヴァイデンの絵がもつ「写実主義的な」性質と写本挿絵のもつ「非写実主義的な」性質

p.13 l.13-4 "...われわれはわれわれの実際的経験を「様式の歴史」とでも呼び得る制御的な原理の支配下においているのである。"
1-3-2 イコノグラフィー上の分析

事例2:フランチェスコ・マッフェイ"左手に剣を、右手に斬られた男の首を載せた盆を持つ美しい若い女性の絵"(図3)
《サロメ》
  ○盆「ヨハネの首は盆に載せられて運ばれてきた」
  ×剣「自らの手で首を斬ったのではない」
《ユディト》
  ×盆「首は袋に入れられた」
  ○剣「自らの手で首を斬った」

p.15 l.2-6 "しかし幸いに諦めなくてもよいのだ。なぜなら、…(中略)…特殊な「テーマ・概念」が、変化する歴史的状況下で「対象・出来事」によって表現される方式、つまり「類型」の歴史を洞察することによって、われわれの文献資料による知識を修正し制御することができるからである。"

→検証:
  ○a)「ユディトの侍女が描かれているから間違いなく《ユディト》である作例に盆があるか」
  ×b)「サロメの両親が描かれているから間違いなく《サロメ》である作例で剣を持った例があるか」
*参考図版
  ティツィアーノ・ヴェチェリオ《ホロフェルネスの首を持つユディト》 1515年頃 油彩・カンヴァス 89.5×73.0 ローマ、ガレリア・ドリア=ポンフィーリ
  カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》 1595-6年 油彩・カンヴァス 145.0×195.0 ローマ国立美術館
  ジョヴァンニ・バリョーネ《ホロフェルネスの首を持つユディト》 1608年 油彩・カンヴァス サイズ不詳 ローマ、ボルゲーゼ美術館
  クリストファーノ・アローリ《ホロフェルネスの首を持つユディト》 1613年 油彩・カンヴァス 139.0×116.0 フィレンツェ、ピッティ宮

  ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロ《サロメ》 1615-20年 油彩・カンヴァス サイズ不詳 フィレンツェ、ウフィッツィ美術館
  マッティア・プレッティ《サロメと洗礼者聖ヨハネの首》 制作年不詳 油彩・カンヴァス サイズ不詳 サラソタ、リングリング美術館 

→理由:
"剣は、ユディトや多くの殉教者の、また<正義><剛毅>などの<美徳>の広く一般に認められた名誉ある持物であったから、剣が淫奔な女性に移されなかったのは至極当然のことである。"
"十四-十五盛期に、洗礼者聖ヨハネの首を載せた盆は…(中略)…単独の礼拝像になっていた"《聖ヨハネの首》(図4)→"斬られた男の首の概念と盆の概念との間に密接な関係を作りあげ..."
*参考図版
  ラファエッロ・サンツィオ《正義》 1508年 フレスコ 直径180.0 ローマ、ヴァティカン宮、署名の間
  アンドレア・ピサーノ《剛毅》 1330年 ブロンズ サイズ不詳 フィレンツェ、洗礼堂
1-3-3 深い意味におけるイコノグラフィーによる解釈
必要な能力:
 "診断医のそれにも比すべきある心的能力"
 "「総合的直観」"
 "博識な学者より有能な素人によく発達する場合もあり得る能力"

修正:(直観を修正する原理がなおさら必要)
p.17 l.14-5 "探究の目的とした人間、時代、国家の政治的・詩的・宗教的・哲学的・社会的傾向を証言している諸記録の「内的意味」と彼が考えるものに照らし合わせて、修正しなければならない。"

「内的意味・内容」の探究において、人文科学の各分野が、共通の場で出会う
1-3-4 結論
「主題・意味における三層」の区別が重要→ただし、実際には一つの有機的で分離されえない過程の中に互いに融合している。
修正原理:歴史的過程に対する洞察
「伝統」:歴史的過程の総体

*印を付した作品は『イコノロジー研究』中にない参考図版