講義ノート3
序論精読3
2 最も普遍的な表現形式
p.19〜
●本書の使命
p.19 l.12 "異なる世紀の描写芸術の根底にある把握の仕方を分析する"
p.19 l.13 "これらの根本形式を取り出す"
p.19〜
●二つの絶頂期
初期ルネサンス―盛期ルネサンス―バロック
萌芽期―開花期―凋落期:さらに誤解を招く脇役
"十五世紀と十六世紀の間には実際に質的差異が成り立つとしても、一五〇〇年代の(クラシック)美術と一六〇〇年代の(バロック)美術は価値の点では同一線上に並ぶのである。"
"西欧にける近世の発展は、…[中略]…むしろ二つの絶頂期をもつのである。"
p.20 l.4-7 "われわれがどちらかの絶頂期に共感をもつことはあり得ようが、いずれにせよ、その際には勝手に判断していることを知らなければならない。その勝手さ加減は、ばらの茂みは花の形成において、りんごの木は果実の形成において、その全盛期を体験する、と言うのと同様である。"
原始期作家の芸術:古風な芸術、まだ確実な図像形式が存在しない段階
p.21〜
●五対概念
(1)線的なもの→絵画的なもの
視線の軌道となり、眼の導き手となる線の育成→線の価値の緩やかな低下
可触的性質に従った立体の触知→視覚的仮象の甘受、「手でつかみ得る」描線の断念
事物の境界の強調→現象が境界づけられないもの
彫塑的な、輪郭を求める視覚=事物を孤立させる→絵画的に見る眼=事物は互いにくっつき合って見える
個々の立体的客体を確固たる可捉的価値としてつかむことへの関心→可視的なものを全体的に浮遊する仮象として把握することへの関心
ブロンズィーノ《エレオノーレ・ディ・トレドとその子ジョヴァンニ》、(細部) pl.21, p.68
ベラスケス《白い衣裳をまとう王女マルガリータ・テレサ》 pl.22, p.69
*ベラスケス《幼いマルガリータ・テレサ》、(細部) 1654年頃 128.0×100.0 ウィーン、美術史美術館
p.69 l.16-p.70 l.11
ブロンズィーノ:"線と面による金属的な明確さをもった頭部"、"極端に線的な趣味を反映して、豊富な図柄のある衣裳を表現"、"人間の眼はこれらの事物を、こうした線の均等な明確さをもって見ることが決してできまい。"、"絶対的な対象的明瞭性"
ベラスケス:"全体の現象に向けられた眼は、うわべをかすめる微光を捉えるだけであり、一つ一つの形は多かれ少なかれこの微光の中に埋没してしまう。"、"幼い王女の可愛らしい衣裳は、ジグザグ模様が刺繍されていたが、彼がわれわれに見せるのは、模様そのものではなく、きらきら輝く全体の幻像である。"
デューラー《僧房における聖ヒエロニムス》 署名:AD 1514 エングレーヴィング 24.7×18.8 pl.23, p.72
オスターデ《画家のアトリエ》 エッチング 23.5×17.4 pl.24, p.73
*オスターデ《アトリエの画家》 1663年 38.0×35.5 ドレスデン、絵画館
p.74 l.3-7 "同一のモティーフ―光が片側から射しこむ閉じられた部屋―が、デューラーとオスターデでは、まったく異なる効果を得ている。デューラーでは可触的な面と、一個一個の事物の対象性がすべてであるのに対して、オスターデでは移行と運動がすべてである。物を言うのは光であって、彫塑的な形ではない。全体が薄暗く、その中で個々の対象が見えてくる。ところが、デューラーではもろもろの対象が主要な事柄であり、光は添えものと感じられる。"
(2)平面的なもの→深奥的なもの
一つの図形全体の各部分を平面的な層構造に配置→前後関係を強調
最大の明解さを生む形式→平面の価値の低下、事物と事物が本質的には前と後ろとなるように結びつける
短縮法と空間的印象の完全な修得の瞬間に初めて現れる(クラシック=盛期ルネサンス)、「平面様式」は原始期美術の様式ではない。
パルマ・ヴェッキオ《アダムとエヴァ》 カンヴァス 202.0×152.0 ブラウンシュヴァイク、アントン・ウルリヒ公美術館 pl.33, p.116
*ラファエッロ《アダムとイヴ》(天井画) 1509-11年 フレスコ 120.0×105.0 署名の間 ヴァティカン宮
ティントレット《アダムとエヴァ》 カンヴァス 145.0×208 ヴェネツィア、アカデミア美術館 pl.34, p.117
p.115 l.7-12 "最初の実例としてパルマ・ヴェッキオの絵《アダムとエヴァ》(図33)をあげよう。ここで平面的配列としてわれわれの眼に入るものは、決して生き延びた原始期の型ではなく、平面の中にエネルギッシュに姿を現すという、本質的にクラシックの美であり、それゆえ、この空間が隅々まで均等に活気づいているように見えるのである。ティントレット(図34)ではこの浮彫的性質が壊されている。人物は深奥関係が生じるようにずれており、アダムからエヴァへ対角線的方向が生じ、それを風景が遠く地平線上の光をもって受け止める。平面美が常に運動の印象との結びつきをもつ深奥美に取って代わられている。"
ラファエッロ《奇跡の漁獲》(テンペラによる下絵)、《アテネの学園》
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》
ベラスケス《槍(ブレダの開城)》、《織女たち》
p.112 l.8-15 "一四〇〇年代の作家たちを見てきた人なら、だれしもレオナルドの《最後の晩餐》がまさしくこの方向に向かっているという印象を忘れないであろう。キリストの弟子たちの集団が着いている食卓は、これまでも常に画面の縁つまり舞台の前端と並行に置かれていたけれども、人物の並列と彼らの空間に対する関係はここで初めて、実にここで初めて壁のようなまとまりを獲得し、その結果、人に文字通り平面が押しつけられるのである。次に、さらにすすんでラファエッロの《奇跡の漁獲》(図38)を考えると、人物が一つのまとまりのある「浮彫的」な層に置かれる様子は、その時代でさえ、全体的に新しい印象である。ジョルジョーネやティツィアーノ(図89)が横たわるウェヌスを表現する時のように、ただ一つの人物が問題になる時でも、この事情は同じである。どれを見ても、形は画中に明確に表れた主要平面に据えられるのである。"
*参考:「一四〇〇年代の作家たち」の例
*アンドレア・デル・カスターニョ《最後の晩餐》 1447年 フレスコ 453.0×975.0 フィレンツェ、サンタポローニア
ディルク・ボウツ《最後の晩餐》 1464-67年 油彩・板 180.0×150.0
p.122 l.4-p.123 l.5 ベラスケスの槍:"主要人物たちの配置において、古い平面的図式が放棄されていないようでありながら、手前のものと奥のものをつなげ、という絶えず反復される指示によって、とにかく絵画にとって本質的に新しい現象が得られたのである。"、"タピスリー連作のラファエッロの構図やさらにシスティーナ礼拝堂におけるペルジーノのフレスコ画を引き合いに出せば、ベラスケスではあの横向きの出会いが図像の総体的外見に対して意味するものが、もはやいかに少ないか、人はただちに気づくであろう。二人の指揮官のモティーフのように平面への固定が起こりかねないところでは、まさにこの個所で、奥に明るく描かれた軍隊への眺望が開けるという仕方で、この危険が排除されるのである。"
p.123 l.6-17 "《織女たち》にしても同じことが言える。骨組みだけに固執する人には、この十七世紀の画家がここで《アテネの学園》の構図を模倣したように見えるかもしれない。前景では左右にほぼ同じ比重の群像を配し、背景ではちょうど中間に縦長の空間がある。ラファエッロの絵は平面様式の主要な実例であり、いくつかの水平の層だけが背後に続いている。ベラスケスでは個々の人物が問題になるかぎり類似した印象があっても、それが当然ながら異なる描法によって壊され、しかも、全体の構成も異なる意味をもつのである。なぜなら、陽が射した中景が、前景の右側に偏って置かれた光と呼応し、これによって初めから画面を支配する光の対角線が作られているからである。"
(3)閉じられた形式→開かれた形式
→緩やかな形式
→規則の弛緩、構築的厳格さの緩和の徹底的な遂行=新しい表現の方式
ヴァン・スホーレル《座するマグダラのマリア》 pl.70 p.200
グィード・レーニ《マグダラのマリア》 pl.71 p.201
p.201 l.18-p.202 l.6 "ヴァン・スホーレルの《座するマグダラのマリア》(図70)の表現は、われわれを肖像画のかなたへ連れて行く。なるほど、ここでは何らかの特定の姿勢をとる義務はないのであるが、その当時は直線と直立が絵の基調を決定するのは自明のことであった。人物の垂直性に樹木と岩の垂直性が応えている。座るというモティーフそのものが、横たえられたものという対立方向をすでに含んでおり、この方向性が風景と樹木の枝で反復される。こうした直角の出会いのおかげで、画面の見かけが安定するだけでなく、特別の程度で「それ自体でまとまっている」という性質さえ獲得する。類似した関係が反復されることによって、平面と余白充填物が互いに助け合っているという印象がかなり強められている。"
p.202 l.9-p.203 l.5 "むしろ穏健派に属しているグィード・レーニ(《マグダラのマリア》[図71])のような人さえも、図像の外見が同様に非構築的なものに軟化するのを示すのである。効果的な形式規定の原理であるカンヴァスの直角性が、すでに本質的に否認されている。主たる流れは対角線的である。塊量の配分はルネサンスの均衡からまださほど離れていないとしても、この《マグダラのマリア》のバロック的特性を知るためにはティツィアーノを思い出せば十分である。レーニの場合には、悔悟した女の緊張の解けた状態が決めてではない。もちろん、このモティーフの精神的把握も十六世紀のやり方とは違っているが、今や柔和さも力強さも同様に非構築的な基盤の上で展開されるであろう。"
(4)多数的なもの→統一的なもの
個々の部分は常に独立したものであることを主張→
全体によって統制されつつ、一個の個体であることをやめていない→全体を一つとして捉えるやり方
自由な各部分の調和→各構成要素が一つのモティーフのために集結、一つの絶対的に主導的な要素に隷属
ティツィアーノ《ウルビーノのウェヌス》 pl.89 p.246
ベラスケス《横たわるウェヌス》 pl.90 p.247
p.245 l.8-18 "ルネサンス的な美の規範は、ジョルジョーネの型を受容したティツィアーノの横たわる美女(図89)[《ウルビーノのウェヌス》]である。明瞭に限界づけられた個々の肢体ばかりで一つの和声が組み立てられ、その和声の中では個々の音そのものがまったく明瞭に響き続ける。それぞれは、それ自体でまとまりをもつように見える形である。ここでだれが解剖学的真理の進歩について語りたいと思うであろうか。一切の自然主義的な素材内容は、この把握へと導いた美の観念の前ではどうでもよいものに後退する。もしそれがどこかで使えるならば、音楽の比喩はこの美しい形の共鳴にこそふさわしい。"
p.246 l.6-18 "ベラスケスの《横たわるウェヌス》(図90)における根本感情は、ティツィアーノの場合といかに異なることか。身体はなお一層優美に組み立てられているが、それがねらう効果は分離された形の並列にはなく、むしろ全体が一つにまとめられることであり、一つの主導的モティーフに従わされることであり、各肢体を独立した部分として均等に強調するのを断念することである。この事情について別の言い方をすることもできる。アクセントが数個所に集められ、形が数個の強調点に分解されている、と―どういう言い方をしても同じことである。しかし、前提は、身体の体系が最初から別様に捉えられていた、すなわち、ほとんど「体系的」に捉えられなかった、ということである。クラシック様式の美にとって、すべての部分の均等に明瞭な可視性は自明のことであるが、バロックはそれを断念することができる。"
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》
ティエーポロ《最後の晩餐》 pl.44 p.133
*ティントレット《最後の晩餐》 1592-94年 油彩・カンヴァス 365.0×568.0 ヴェネツィア、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会
p.252 l.2-3 "レオナルドの《最後の晩餐》は史実どおりに一つの統一的図像になっている。一つの決定的瞬間が表現のために固定され、それにしたがって個々の参加者の役割が決定されている。"
p.252 l.13-18 "しかし次に、このクラシックの決定版を超える、どんな前進が考えられようか。一般に、この統一性を凌駕する可能性はあるであろうか。われわれが肖像画と風俗画で観察した変化を思い起こせば、その答が得られる。それは、もろもろの価値の等位を放棄することである。眼と感情のために、他のすべてのもの以上に価値をもつ主要モティーフが現われる。純粋に瞬間的なものの一層鋭い把握が起こる。レオナルドの《最後の晩餐》はたとえ統一的に整理されているとしても、後世の物語画に比べると、見る者によってはまったく多様性と見える、まことに多くの個別的状況を呈示する。"
p.252 l.18-p.253 l.4 ティエーポロの《最後の晩餐》(図44)をここで比較のために引き合いに出すことは、多くの人にいわば一種の神聖冒涜のように思われるかもしれないが、発展がどのように続くかが、これから見られるのである。すなわち、すべてが均等に見られたいと欲する十三個の頭部が並ぶのではなく、大勢の中から一対の頭部だけが取り出され、他の頭部は抑制されたり、完全に隠されたりする。そのために、その時に実際に見えるものは、二倍のエネルギーをもって画面全体に語りかけることになる。
(5)絶対的明瞭性→相対的明瞭性 「線的と絵画的」に関連
在るがままの事物が個別的に見られ、彫塑的な触覚感情で捉えられる→見えるがままの事物が、一つの全体として見られ、事物の非彫塑的品質にしたがって評価される
完全な明瞭性という理想を造り上げた→それを勝手に放棄した、不明瞭になったということではない、モティーフの明瞭性はもはや表現の自己目的ではなくなった
→形がその完全性において眼前に展開される必要はなく、本質的な要点を与えてくれるだけで十分
→構図と光と色彩はもはや絶対的に形の説明に奉仕するものではなくなり、それ固有の生活を営む
絶対的明瞭性を部分的に曇らせることの香辛料を利かすという意味での利用→すべてを包括する大きな表現様式としての「相対的」明瞭性
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》
p.285 l.16-p.286 l.6 "多数の人物がいる歴史画で、すべての人々の手や足まで明瞭にされなければならないと、今だれも期待しないであろう。厳格なクラシック様式でさえそういう要請を出したことがない。ところが、レオナルドの《最後の晩餐》で二十六本の手―キリストと十二人の弟子がいるから―のうち「食卓の下に隠された」手が一本もないことは意味深いことである。北方でも事情は同じである。アントウェルペンにあるマセイスの《キリストの哀悼》(図46)で試したり、ヨース・ファン・クレーヴェ(マリアの死の画家)の大きな《キリストの哀悼》(図114)で四肢を数えてみたりすることができる。手は全部揃っている。北方にはこの意味の伝統がなかったのであるから、ここではこのことはなおさら意味深い。その後、これと反対の事実が現われる。レンブラントの《布地組合見本検査官たち》(図91)のような、まったく事実に即して描かれた肖像画で、六人の人物が現われるのに、十二本の手のうち、五本しか見えない。全部が見えることは以前は規則だったが、今は例外となる。テルボルフは《二人の演奏する女性》(ベルリン)ではたった一本の手ですませているが、マセイスは《両替商の夫婦》という風俗画で、言うまでもなく二人の両手を完全に描いているのである。"
p.305 l.6-14 "ティントレットの最高力作の一つである《キリストの哀悼》(図113)は、真に重要な意味で効果が二つのアクセントにまとめられている絵であるが、その効果は不明瞭なものの明瞭性という表現の原理に、いかに多くのものを負っていることか。これまで人々がすべての形を均等な明瞭性にもたらそうと努力したところで、ティントレットは奔放になり、陰りをつけ、見えにくくした。キリストの顔面に投影がかかる。それは彫刻的基底をまったく無視している。しかし、その代わりに、苦しみの印象のために計り知れない価値をもつように、額の一か所と顔面の下部の一か所に光をあてる。失神して倒れ込んだマリアの目は、どんな言葉を語るのであろうか。眼窩全体は大きな円い穴のように、ただ一つの暗黒をもって満たされている。このような効果を最初に思いついた人はコレッジオである。しかし、厳格なクラシック期の作家たちはたとえ陰影を表情豊かに扱ったとしても、形の明瞭さという限界をあえて踏み越えようとはしなかったのである。"
p.305 l.15-18 "明瞭性という概念を幾分緩やかな意味で考えたがった北方さえ、いくつかの有名な作例で、多数の人物がいる哀悼図は、形の完全な明瞭性が得られるように作り上げていた。クェンティン・マセイス(図46)やヨース・ヴァン・クレーヴェ(図114)に思いあたらない人があろうか。すべての四肢まですっかり説明されなかった登場人物はなかった。そのうえ、採光はきわめて即物的な肉づけという目的以外に奉仕することはなかった。"
3 模倣と装飾
p.23〜
●模倣
"同一の類型のもとに席を見いだす"
"芸術家たちを結びつける様式的共通性は、十七世紀の人たちによってまさに自明であるものに基づく"
"生気があるものという印象に結びついている特定の基本条件"
"この基本条件は表現形式としても直観形式としても扱うことができる"
"人はこの形式において自然を見るのであり、芸術はこの形式においてその内容を表現する"
p.23〜
●装飾
キー・センテンス
p.23 l.12-13 "把握がそれによって規制されているものとして、特定の「眼の状態」についてのみ語ることは危険である。"
p.23 l.13-14 "快感という一定の視点に合わせて組織されている。それゆえ、われわれが言う五対の概念は模倣的意味とともに装飾的意味ももつことになる。"
"それが起こるのは新しい自然の真のためばかりでなく、新しい美の感情のためでもある。"
→「装飾的意味をもつ」とは、快感情に奉仕する側面をもつという意味
"下部の層をなすこれらの概念"
これらの概念は合理的な心理学的過程を呈示する=逆行はあり得ない
生理学的成育と同じ意味で法則的と言わなければならない明確な発展がある
"「眼」がそれ自体で発展を成し遂げるとは、だれも主張しようとは思わないであろう。眼は規制され規制しつつ、常に精神的領域と干渉をもつ。"
→いわば「眼と精神」
→「眼と精神」に関わる歴史的合理的法則の認識
科学的美術史の主要問題であり根本問題である