ヴェネツィア・ビエンナーレの歴史 II


〜国際現代美術展の光と影〜

1.影

 1-1.90年代新設ラッシュ

p.105 "私自身が正確な数字を把握しているわけではありませんが、世界各地で開催されているビエンナーレやトリエンナーレ形式の国際現代美術展の数は、聞くところでは百をかなり上回っているようです。とりわけ1990年代以降に大規模な国際展の創設ラッシュともいうべき状況が続いており、主だったものを挙げただけでも…"

建畠晢「トロイの木馬? ―国際展におけるマルチカルチュラリズム」、『国際シンポジウム2002「流動するアジア―表象とアイディンティティ」報告書』、国際交流基金アジアセンター、2003年3月

国際美術展の第1回展開催年リスト

 1895年  ヴェネツィア・ビエンナーレ
 1896年  カーネギー・インターナショナル
 1932年  ホイットニー・ビエンナーレ:アメリカ美術のみのため国際美術展ではないが参考までに
 1951年  サンパウロ・ビエンナーレ
 1955年  ドクメンタ
 1959年  パリ・ビエンナーレ(〜85年)
 1968年  インド・トリエンナーレ
 1973年  シドニー・ビエンナーレ
 1977年  ミュンスター彫刻プロジェクト(10年毎)
 1981年  バングラデシュ・ビエンナーレ
 1984年  ハバナ・ビエンナーレ
 1987年  イスタンブール・ビエンナーレ
 1991年  リヨン・ビエンナーレ
 1992年  台北ビエンナーレ(国際展としては1998年から)
 1993年  アジア・パシフィック現代美術トリエンナーレ
 1994年  アート・フォーカス(イスラエル)
 1995年  光州ビエンナーレ
 ヨハネスブルグ・ビエンナーレ(第2回展で中止)*
 1996年  上海ビエンナーレ
 マニフェスタ 欧州現代美術ビエンナーレ
 1998年  モントリオール・ビエンナーレ
 
ベルリン・ビエンナーレ
 1999年  福岡アジア美術トリエンナーレ
 メルボルン・ビエンナーレ
 2000年  越後妻有アート・トリエンナーレ
 釜山ビエンナーレ
 リバプール・ビエンナーレ
 2001年  横浜トリエンナーレ

参考資料
 建畠晢「トロイの木馬? ―国際展におけるマルチカルチュラリズム」、『国際シンポジウム2002「流動するアジア―表象とアイディンティティ」報告書』、国際交流基金アジアセンター、2003年3月、105-112頁。
 「世界の大型国際展データバンク」、『美術手帖』(特集:現代アートの祭典)746号、1997年9月、102-112頁。
 「Datafile国際美術展」、『美術手帖』(特集:拡大する美術)627号、1990年8月、90-107頁。

 1-2.増幅される混沌

p.89 "私たちは、アートを見るためなら遠隔の地までも訪れてみたいと思うようになり、そこで見るのはしかし、アーティストの制作現場とは何の関係もないメディア情報のアートなのです。アートの生産や消費を実質的に支配しているのは、いまやメディアです。結局のところ、メディアがアートを操作し、アートはその伝達役になっている。メディアこそ、ビエンナーレの名のもとにアートのエントロピー(混沌状況)を増幅する根本要素と言えます。"

李龍雨「グローバリズムとその制度的虚栄」、『国際シンポジウム2002「流動するアジア―表象とアイディンティティ」報告書』、国際交流基金アジアセンター、2003年3月

 1-3.虚栄としての国際展

経済的な負担

p.89 "こうしたスペクタクルの創造は、惑々する大仕事であると同時に虚栄でもあります。また、ビエンナーレの開催者は、ビエンナーレ用の作品を作るという経済的負担をアーティストに負わせることで、閉幕後も続く不安定な金銭状況にアーティストを追い込むのです。アーティストはビエンナーレの展示スペースに見合う作品を作らねばならない。その規模といったら、ローマのコロセウムにも匹敵するほどです。"

政策への従属

p.89 "国や地方自治体の援助を許す、あるいはそれを要求する、いや結局のところ援助を必要としているからには、ビエンナーレは、国や地方行政の一部となり、政策主導の、また政策に従う義務のある事業となってしまう。"

アートの消費

p.89 "ビエンナーレは2年ごとに新しいアートを生み出し、それはまた、2年たてば古くなるアートを捨て去っていくということです。"

p.90 "ビエンナーレのサイクルがあまりに速いために、アーティストはアートシーンの主役の位置を失い、いまや文化産業の単なる随行員として、招待されては消えてゆく。"

p.91 "ビエンナーレは、波乗りの楽しみです。ひとたび興奮が過ぎてしまえば、疲労と不安だけが残される。投資も消費も巨大だったわけですから。このスポーツでは、勝者はごくわずかで、大多数は敗者です。"

李龍雨「グローバリズムとその制度的虚栄」、『国際シンポジウム2002「流動するアジア―表象とアイディンティティ」報告書』、国際交流基金アジアセンター、2003年3月


2.出会いをもとめて

 2−1.鑑賞者たちは出合いを探していた

"50回を迎えた今回は、400人近いアーティストが参加し、多数の企画展が集まった巨大展覧会となった。その中を、鑑賞者たちが気ままに巡り、新たな表現との出合いを探していた。"

山盛英司「第50回ベネチア・ビエンナーレ」、『朝日新聞』2003年6月25日

 2−2.個人の想像力と経験が大事

"総合監督のフランチェスコ・ボナミさんは「巨大展の中での鑑賞は旅と似ている。個人の想像力や経験を大事にしてほしい」と語った。"

山盛英司「第50回ベネチア・ビエンナーレ」、『朝日新聞』2003年6月25日

 2−3.投げ出された事実と向き合う

p.90 "○○館は(つまり○○国は)、アジアの作家は…、その動向は…という質問には違和感がつきまとう。問題はこの機会をとおして何点の作品と出会い、作家個人の世界との出会いがあったかである。ヴェネツィア・ビエンナーレという形而上学について云々するまえに、投げ出された事実とどこまで向き合ったかのほうが重要なのである。もう総論がありえないことを人びとは知っている。"

長谷川祐子「ここでしかない場所」、『美術手帖』(特集:ヴェネツィア・ビエンナーレ 100年目の孤独?)712号、1995年9月

 2−4.淡々と自己の表現を深めている作家たちとの出会い

p.27 "これらの日本ではそれほど知られていない作家たち、時代の表に出てくることは多くはないが、しかし周囲の影響に振りまわされずに自己の探究を営々として行っているような良質の作家たちの作品に出会うことは、あらためて芸術国イタリアの懐の深さを考えさせる。"

倉林靖「主体なき多様性」、『美術手帖』(特集:ヴェネツィア・ビエンナーレ)599号、1988年9月

 2−5.賞にとらわれない

"賞選考は毎回、出品作家や関係者をいらだたせ、日本ももっと賞獲得に向けた運動をすべきだといった批判もよく聞かれる。…(中略)…賞にとらわれず、人生をよく生きるための価値を、作品に探し出せればいいのではないか。宮島氏もおそらくその辺りのことはよく分かっていて、「今回はいい経験になった」と語っていた。"

菅原教夫「第48回ベネチア・ビエンナーレ報告 下」、『読売新聞』1999年6月30日

 2−6.じっくり見るのに適さない展覧会

p.47 "この野外彫刻展示はビエンナーレの導入部にあたるのだが、玉砂利を敷きつめた地面にかなり狭い間隔でゴタゴタと作品が並べられているので、一点ずつ集中して見ることなど不可能だ。"
 

岩渕潤子「歴史的栄光と対峙する現代美術」、『美術手帖』(特集:ヴェネツィア・ビエンナーレ)599号、1988年9月

 2−7.内藤礼:美術関係者の慌しい作品消費に対する批判

"日本館の内藤礼の作品は、三分間に限って一人だけ館内に入れるというシステムのため、館前に行列ができ、多数の展示を忙しく見て回る美術関係者の印象を悪くしたようだ。もっとも、彼女は慌しく作品を消費する美術受容のありかたを、その瞑想的なインスタレーション(設置作品)で批判したとも言える。"

菅原教夫「ベネチア・ビエンナーレ」(欧州現代美術の祭典から 上)、『読売新聞』1997年7月30日

「無理に私の作品を見なくていいのです」

p.22 "最初彼女は一人15分の時間を与えることを主張したが、これで計算すると会期中ほんのわずかの人しか見ることができない。なんとか3分に縮めてもらって、ピークの時には1分にするというルールにした。それでも、オープニングの期間中パヴィリオンの前には長蛇の列ができ、入れない観客から罵声を浴びることになった。私はその状況に恐れをなしたが、彼女はまったく動じず、苦情を述べる人の前で、「待つ時間がないなら、無理に私の作品を見なくていいのです。美術は時間のある人が見ればいいのですから。」と答えていた。小さな日本人女性のそうした厳然として揺るがない様子を見て、息巻いていた巨体のジャーナリストが粛然としてしまったのを覚えている。"

南條史生「体験としてのヴェネチア・ビエンナーレ」、『12人の挑戦―大観から日比野まで』、茨城新聞社、2002年11月


3.光

 3-1.アートを解放する国際展

p.91 "このビエンナーレは、考古学的価値を持つ洗練されたオブジェなどといったアート作品の概念を打破します。アートを解放するシステムであり、大衆の前や広場に作品を連れ出します。また、美術館の系統的で威厳ある壁から作品を離すことで、絶えず変化する美学論へとアートを導くのです。"

バザールとしてのビエンナーレ

p.91 "そう、ビエンナーレとは、現代のバザールのようなものです。常に情報が飛び交い、人種、文化、伝統、言語、宗教、そしてアートさえもまったく自由に表現される国際舞台です。…(中略)…ビエンナーレは、美学や美術評論における前衛の基礎を固める礎石なわけです。"

李龍雨「グローバリズムとその制度的虚栄」、『国際シンポジウム2002「流動するアジア―表象とアイディンティティ」報告書』、国際交流基金アジアセンター、2003年3月

 −2.「普遍的芸術」を問う場

p.88 "各国の芸術表現と普遍的芸術の関係への問いかけは、不十分としかいいようがない。"

p.88 "ビエンナーレは歴史的に見れば古い民族国家的な観念に由来している。そしてそれは、イスラエルの素晴らしい展示がそうであったように、文化的な背景が明確に主題化されるのであれば、今日でも十分に興味深いものなのだ。"

マティアス・フリュッゲ「美術界をうつす黒い鏡」、矢羽々崇訳、『美術手帖』(特集:ヴェネツィア・ビエンナーレ 100年目の孤独?)712号、1995年9月

 3−3.交流の場としてのパヴィリオン

交流の場としてのパヴィリオン
p.89 "数年前コミッショナーたちにもとめられた、個々のパヴィリオンを交流の場にしようというアイディアは、また脆くも崩れさったのだ。それこそが衰えはじめたビエンナーレを新しくする道であったはずなのに。"

マティアス・フリュッゲ「美術界をうつす黒い鏡」、矢羽々崇訳、『美術手帖』(特集:ヴェネツィア・ビエンナーレ 100年目の孤独?)712号、1995年9月


作品紹介