第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ I

 6/15-11/2
 ジャルディーニ(カステッロ公園)ほか、ヴェネツィア(イタリア)


1.旅の覚書

 1-1.今年度開催される国際展

第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ 6/15-11/2

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003 7/20-9/7

第7回リヨン・ビエンナーレ 9/18-04.1/4

第8回イスタンブール・ビエンナーレ 9/19-11/16

第8回ハバナ・ビエンナーレ 11/1-12/1

第3回ベルリン・ビエンナーレ 04.2/14-4/18

 1-2.旅費、滞在費

旅程:9/15-25:成田-パリ-ヴェネツィア-リヨン-成田

旅費

・航空運賃(エール・フランス):約18万円

・列車運賃(ヴェネツィア-リヨン):約1万円

滞在費

・パリ(知人宅):2泊

・ヴェネツィア:28ユーロ(約3,600円)×5泊:約2万円

・リヨン:55ユーロ(約7,200円)×2泊:約1.5万円

・入場料等:カルティエ財団:5ユーロ、ヴェネツィア・ビエンナーレ3日券:18ユーロ、カタログ:60ユーロ、ガイド:6ユーロ、リヨン・ビエンナーレ:10ユーロ、カタログ:25ユーロ:約1.5万円

・食費:約163ユーロ:2.2万円

※旅費+滞在費=約26万円(他、雑費あり)


2.テーマなど

 2-1.全体

ジェネラル・コミッショナー:フランチェスコ・ボナーミ

 「複数の対話が発生しうる多様性と矛盾を内包した展示空間を目指した」

タイトル:夢と葛藤(Dreams and Conflicts)

サブ・テーマ:観客の専制(The Dictatorship of the Viewer)

 2-2.企画展10

  ジャルディーニ

1.「遅延と革命」/フランチェスコ・ボナーミ、ダニエル・バーンバウム

2.「ゾーン」/マッシミリアーノ・ジオーニ

  アルセナーレ

1.「秘密の行為」/フランチェスコ・ボナーミ

2.「分断線―現代アフリカン・アート、移り変わる風景」/ギラン・タワドロス

3.「個人的なシステム」/イゴール・ゼイベル

4.「緊急ゾーン」/ホウ・ハンルゥ

5.「生存の構造」/カルロス・バシュアルド

6.「現代アラブの表象」/カトリーヌ・ダヴィッド

7.「日常の変容」/ガブリエル・オロツコ

8.「ユートピア・ステーション」/モリー・ネズビット、ハンス=ウルリッヒ・オブリスト、リクリット・ティラバーニャ


3.日本館の展示

コミッショナー:長谷川祐子

テーマ:ヘテロトピア

"三次元の空間で、「ここ」というとき、トポスという考え、「夢と衝突」に対応させた、「ユートピア、ヘテロトピア」という概念が浮かんだ。これはそのまま、彫刻と場をつくる作家で、自国を離れて旅する作家と、自国にとどまり、その文化を吸収しながら制作する作家というイメージ、曽根と小谷にむすびついた。禅的な逆説法により未知の風景をつくろうとする曽根、アニメやホラー映画、雑多なサブカルチャーもすべて吸収して変異という特殊の瞬間を彫刻化しようとする小谷は対照的でありながら、たいへん日本的である。日本という国について考察したとき、ヘテロトピックという概念の方がよりストレートに響いた。またフーコーの解釈にたったとき、現実に存在し、世界に対して抵抗と交渉を行う場という概念に二者の作品はふさわしいと思われた。それは二十世紀初頭に行われた西洋的なユートピア論をいま召還することに対する筆者自身の懐疑でもあった。"

長谷川祐子 「第五十回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館コミッショナーを務めて」、)、『美術手帖』839号、2003年9月、59頁。

作家:

曽根裕
  《ダブルリバー・アイランド》(ワーク・イン・プログレス) 2003年

小谷元彦
  《ソランジェ》 2003年
  《スケルトン》 2003年
  《ベレニス》 2003年
  《ロンパース》 2003年


4.日本館展示について

――では、日本館の展示は村上さんから見てどうでしたか。

村上 だれもが思っていて、いってたことは、作家がかわいそうだったっていうこと。華がなかった。作品がいいとか悪いとか、見えてこなかった。キュレーションの成否のポイントは、ズバリ、プロデュースです。つまり現場。頭がよくてコンテキストがいいのは当たり前で、そこからが勝負なんです。お金の使い方、アーティストのキャスティング、ギャラリストやエージェント、関係者、個人スポンサーとの絡み、人間の心をつかんでなんぼの勝負です。参加している人間、それは観客も含めて、みんながハッピーになれるかどうか。そこが大切です。

「ヴェネツィアからGEISAIへ 村上隆インタヴュー[前編]」、『美術手帖』839号、2003年9月、90頁。


5.紹介記事から

日本館の予算はナンボ? コミッショナーと作家の報酬は?

国際交流基金が支出したのは三千万円強。ちなみに一九九五年の予算や約四千万円でしたが、低金利のいまは運用益があまり望めないのが実状です。それから、作家やコミッショナーみずからが集めた企業協賛金が、だいたい三百万円程度といわれています。

コミッショナーには謝金が支払われていますが、「多い額ではありません」(前出・岡部氏[引用者註:国際交流基金芸術交流部展示課課長補佐/日本館サブコミッショナー・岡部美紀氏])。作家に関しては、作品制作費もギャラも、いずれもタダ。金銭には換えられない名誉が得られるという、昔からのなごりがありまして。それに、こちらは必ずしも新作を依頼しているわけではありません。作家からの不満もありますが、この条件をご理解いただいてます。ただ、個人的には(無報酬)は問題があると思いますよ。予算があれば出したいところなのですが……」(同)。

新川貴詩「ヴェネツィア・ビエンナーレQ&A」、『美術手帖』839号、2003年9月、76頁。

極東のハンディキャップ、役所体制の脆弱さ

…日本はパビリオンをもちながらも、いまだに極東であるというハンディキャップがあることは否めない。

窓口である国際交流基金の担当者がニ、三年ごとに変わるシステムでは、何年たっても他国の専門的でしたたかな対応には太刀打ちできないうえ、いつもその狭間で苦しむのは現場レベルであろう。

逢坂恵理子「チーム・ワークと経験の継承に向けて」、『美術手帖』839号、2003年9月、64頁。


ボナーミの「夢」

…ボナーミは、カタログ・エッセイで、マーティン・ルーサー・キングJr.の「私には夢がある」という演説を引用し、今日の世界がキングの夢とは正反対であるにせよ、「狂気を抑え込む夢を見ることは重要」であり、「戦争や暴力や差別」に「芸術の理屈に合わない創造性」を対峙させることは、芸術に関わる側の良心的選択ではないかと述べている。

松井みどり「視覚の拡大、共生の夢――第五十回ヴェネツィア・ビエンナーレの挑戦」、『美術手帖』839号、2003年9月、67頁。

多様性と矛盾をはらんだ構成

フランチェスコ・ボナーミ(以下FB) あるひとりのコミッショナーな「独自の」視点によって統轄される大規模な国際展という考えからそろそろ離れてもよい頃かな、と思ったからです。それよりも、展覧会のスペースの中で対話や議論が行われるような、多様性や矛盾をはらんだ構成をしてみたかった。そのための最良の方法は、単にアーティストだけを並べて比べるのではなく、キュレーションのさまざまな方法論を比べる、しかも、観客自身がそれを見比べることのできるものだと考えました。

FB 直接的には反映されていません。が、キュレーターたちは皆、現代の世界の状況について、メタファーをとおして考えているのだと思います。

共有するための場

FB 彼[引用者註:リクリット・ティラバーニャ]は、「参加したアーティストが、それぞれ独自の世界観や世界との関係性をもっているにも関わらず、個人の才能や技術を見せつけるのではなく、みんなで共有できる場を作るために力を貸そうとしていた」と語っていました。

FB 確かに、前回のビエンナーレでは、個人の作家の才能や力量が強調されていました。

観客の専制

FB ルールが変わると人は文句を言うものです。傲ったことを言うようですが、私は、観客自身が自分の体験を決定し、想像力を働かせることができるようにプレッシャーをかけたつもりです。「あなた自身が積極的にかかわらなくては何も始まらない、展覧会の愉しみは、金の皿に乗ってあなたの口に運ばれてくるわけではない」、と伝えたかったのですね。これは発見のゲームなのです。そして観客は、「旅行者」として、予期しなかった小さな宝を見つけるのです。何年もの間、ビエンナーレは、観客の反応を支配してきた。それは、団体バス旅行みたいなもので、すべてが説明付きで目の前に展示され、観客は何も発見する必要がなかったのです。

「フランチェスコ・ボナーミ インタヴュー」(聞き手:松井みどり)、『美術手帖』839号、2003年9月、41-45頁。

これまでのビエンナーレにおいて「観客は何も発見する必要がなかった」などとは決して言えない。観客の主体的な参加、積極的な鑑賞は常に求められてきたこと。ここでは即ち、過去を貶めることによって現在の価値を引き上げ、何か「新しい」内容がつけ加えられたかのように見せる詭弁が弄されている。こうした詭弁が召還される理由は、ビエンナーレが常に新しい価値を生み出しているというフィクション、より実質的には「観に行くだけの価値がある」というフィクションを延命させるためであると考えられる。「ルール」はどこも変わってはいない。文句が出ているのはルールが変わったからではなく、観に行ったけれども、「わざわざ観に行くほどまでには、内容が観客を満足させられるほど充実したものではなかった」ということが妥当な理由である。ボナーミは、観客の能力を引き出すような口ぶりで、端から観客の能力をまったく低く見ている。

さらに、マーティン・ルーサー・キングJr.の「私には夢がある」という演説 を引用してのボナーミによる「夢と衝突」は、北半球の西ヨーロッパという圏域で行われる国際美術展における、白人富裕層による黒人貧困層の「声」の簒奪である。現実世界で起こっている「衝突」は、世界の富裕層の「夢」ではなく「欲望と利権」が、貧困な状況に押し留められている残りの人びとの「生活と生命」を危機に晒しているという一方的な構造のうちにある。この白人社会の「欲望」を、黒人社会の代弁者の「夢」にすり替えている点もやはり、ボナーミの詭弁だと私は考える。支配者は被支配民の「声」をこそ奪い、専有する。

ボナーミのビエンナーレは、言説と内実が逆行した、反動的な展覧会である。

(以上、文責:藤川哲)


否定的な評判

もはやヴェニスに現れはない。確認しかないのだ」(レジス・ドゥブレー、『反ヴェニス』)

オルタナティヴ。出口、抜け道、EX-。昨年十二月ボローニャ大学で開かれた講演会では、若いキュレーターと若いアーティストを選ばなくてはならないと、とにかく「若い」(ルビ:ジョヴァネ)の語を繰り返していたのが奇妙なまでの、最大の印象であった。文字通り、自身が史上もっとも若いディレクターである元画家ボナーミ…(中略)…は、一年前の展覧会<出口(EXIT)――イタリアの創造性の新しい地理>においても。「まず外皮を変えてから、アイディンティティーを変える」ことの重要性を強調していた。

「<観客の独裁>の語が意味するのは、民主主義的・スペクタル的・グローバル的な帝国の勝利と価値の不在のなかで、唯一の証言は、観客面での成功、ようするに経済的な成功だけであるという事実の、知的なボナーミによる知的な確認である」(同紙[引用者註:ヴィットリオ・グレゴッティ『レップブリカ』]、七月七日)。

「このビエンナーレは、観客の独裁ではなく、むしろキュレーターたちの独裁となっている」。(『フラッシュアート』イタリア編集長ジャンカルロ・ポリーティ)

「観客を"美学的消費のセルフサービス"へと誘っている。(このビエンナーレは)ダイエットを、また批評的な責任からのより直接的な審議を、必要としている」(レナート・バリッリ、ルニタ紙、六月十五日)。

沈黙をはかることのできる沈黙が、必要とされている。

阿部真弓「『独裁者』はつねに、複数形で書く」、『美術手帖』839号、2003年9月、46-48頁。


6.会場風景と出品作品