講義ノート2


第二章 視線、声、権力

フェミニスト美術史学とマルクス主義

2 マルクス主義の功績と落とし穴

pp.46-47 障害となるのは、アーティストの歴史としての美術史(伝記、個別作家研究)、文明史の一部としての美術史(時代状況の反映、その時代の知的傾向)、そしてそれだけで価値のある審美的なオブジェの歴史としての美術史である。(*15)

p.47 …これらは、歴史と、そして当然ながら社会が、どう動いているのかについてのブルジョワ・イデオロギーの具体的表現である。

p.47 一八四八年の革命後に書かれた人間社会の歴史的発展に関する表現を見ると、それまでの、歴史とは対立、断絶、変化の過程であるとする一八世紀的見方に替わって、神秘化と、歴史の否定というべきものがうちだされた。

p.47 ブルジョワ階級の現在の機能を規定している現実社会の諸条件をも み消すことと、現存ブルジョワ社会と過去の社会のあいだにある違いはいかなるものも認めないという不可欠なもみ消しはつながっていた。

p.47 第一に歴史を「現在化」すること、…(中略)…第二に…(中略)…まるでそれらが普遍的で、つねに変わらぬ「自然」のように見せることである。

p.47 永遠で自然の秩序というフィクション…

p.47 そこでフェミニストとしては二つの仕事をしなければならない。つまり歴史ではなく自然、という置き換えに挑戦すること、そして歴史とはそれ自体が変化、対立、差異化であるという認識をうちだすことである。

p.48 美術史学とは言っても、単なる美術鑑賞も同然で、まったく歴史とは無関係のときもある。

p.48 審美的鑑賞の秘儀へと学生を導き入れることで、説明のつかない創造力への拝跪が教えこまれる。

p.48 評論家が作品を料理する過程でよく行うのは、テキストを解剖して、隠された意味の鉱脈を詳細の限りを尽くした評論によって掘りだし、作品全体を評論家の言葉に「翻訳」することだ。(中略)評論家自身のイデオロギー的なイメージに塗り替えている(つまり作品を現在化している)

p.48 この説明のつかないものへの拝跪と、翻訳による説明という並行する過程は、学生を重要な問題から遠ざけてしまう。

p.48 重要なのは、ある美術作品なりテキストが、どうやって、なぜつくられたのか、誰のためにつくられたのか、どういう種類の仕事をする目的でつくられたのか、いかなる束縛と可能性のなかでつくられ、使われていたのか、といった問題である。

p.48 「一冊の本がどうやって書かれたかを見ると、その本がどういうところからつくりだされたかもわかる。本のなかにはない、それを見れば、その本の歴史と、『歴史的なるもの』との関わりがわかる」。(16)”

p.48 文学鑑賞と、鑑賞としての美術史学にとっての関心事は質、つまり作品に対する肯定的ないしは否定的な評定である。

pp.48-49 こうした等級づけのための鑑定は、女にとって特別な意味がある。

p.49 どれもおなじみの表面的な、あるいは心理分析的、様式的な審査基準が勢揃いして女の作品を評定する。その効果は、作品を鑑定するという観念と、そしてもちろん、その鑑定に使われる規範的な基準とをそのままに温存することである。

p.50 フェミニスト美術史が明らかにするであろうのは、そうした評価は、美術史という王国のなかで純粋な鑑定行為であるかのように装ってはいるが、実は性別分業社会における対立のしるしであるということだ。

p.51 問題となるは次のような点である。第一に、芸術を、それをつくりだした社会の反映と見ること、あるいは社会における階級分化を映す像と見ること。第二に、アーティストを彼/彼女の属する階級の代表と見ること。第三に、経済還元主義、すなわち、文化的事象の形態や機能に関する議論を、ことごとくに経済的ないしは物質的な因果関係に還元すること。第四に、イデオロギー的な一般化、つまり、たとえば一枚の絵を、そこに描かれているだれにでもわかる内容を根拠に、ある社会なり時代なりの思想、信条ないしは社会理論の一カテゴリーにはめこむこと

p.51 反映理論の問題は機械論的な点であり、それによれば芸術は、社会と呼ばれる不動で首尾一貫したものを単に鏡のように映すだけの、不活性な客体ということになる。

p.51 芸術作品が、アーティストの意識とイデオロギーによって特に選定された素材を使ってつくられたもので、実に複雑でわかりにくく変動やまぬ社会的プロセスを表現していることを、反映理論は単純化するあまり見過ごしている。

p.52 たくさんの作品すべてが、アーティストの手をとおして表現された、あるひとつの社会階級のたったひとつの見解を表現する一元的なモデルとなる。

p.52 フェミニスト美術史のなかでは、女性アーティストは女という性の代表とされることがよくある。つまり彼女たちの作品は、女という性全体の視覚的イデオロギーを表現しているということになる。

p.52 これでは結局、…(中略)…ひとりの制作者を、女という性全体の代表にしたことになる。フランケンサーラーという女性個人の固有な構想と実践は、女全体のものとして一般化され、つまり不特定で同質なものになってしまった。

p.53 芸術作品を研究するにも、その知識、その社会経験の内容にどう関わるか、どういう姿勢で臨むかを含む緻密な理解が必要である。

反映理論批判(=単純)緻密な理解

p.54 …イデオロギーというのは矛盾をおおい隠す過程である。イデオロギーそのものが、つぎはぎで矛盾している。

p.54 芸術の由来をその時代のイデオロギーで説明しようとしても、明らかになることはない。ある特定の美術作品がどういうイデオロギー的機能を果たしているのか、それはだれのためか、という必要な研究がおざなりになるだけである。

p.54 ことが階級であれ、人種、また性別であれ、それを一般化したり、還元したり、典型化したり、あるいはひとつの反映として主張することは、アーティスト個人の語法の固有性、制作者としての固有性、時代の固有性を一切問題にしないことを意味する。

※(やや強弁。勇み足)ここでは反映理論批判をさらにすすめ、「固有性」を絶対視するような口ぶりにおいて、あらゆる還元的思考様式への批判を行っている。だが言語を使用する段階で既に代理表象作用が働く点を反省してみても、こうした固有性の神聖視、そして固有性の絶対者的位置からの分析的記述への攻撃は空論でしかない。
「一般化」「還元」「典型化」「反映としての関係性の設定」は、固有性をあぶりだすための道具であり、それらの活用なくして固有性の記述そのものが不可能になる。私たちとしては、それらの現在的有用性において、あらゆる利用可能なものを利用すべきなのであって、「無効化」「破棄」「廃棄」を薦める強弁には、眉にツバして向き合わねばならない。

pp.54-55 われわれは次のような定式化を一切やめるべきだ、というのが私の提案である―いわく「芸術社会」「芸術社会状況」「芸術その歴史的背景」「芸術階級構造」「芸術ジェンダー関係」。ここで回避されている真の問題はこれらの「と」にこそある(*23)。われわれが目を向けなければならないのは、次のような複数の歴史の交錯する相互作用である――芸術における約束ごとの歴史、芸術世界のイデオロギーの歴史、美術機構の歴史、社会階層の歴史、家族の歴史、性的支配の諸形態の歴史。そして、それぞれがどう相互的に決定しあったり、あるいは独立を保っているのかを、均質ならざる配置そのままに位置づけなければならない。

芸術を予め独立・自律したものと見なさず、さまざまな関係性の交差する地点において姿を現すものとして位置づけ直す必要性が提案されている。


3 フェミニストの諸理論

p.55 芸術はイデオロギーの構成要素であって、単にイデオロギーを説明する挿し絵ではない。それはひとつの社会的な行為であって、それをとおしてわれわれが生きていくに必要なある世界観や定義づけ、アイディンティティがうち立てられ、再生産され、再定義されたりもする。

p.56 映画というのは、すでに社会に存在する意味を反映するだけではなく、意味を生産する能記(シニフィアン)である

p.56 そうであるなら、映画を、あらかじめ形成された意味を伝達するだけの媒介物と考えたり、既知のアイディンティティの反映と考えるのではなく、積極的な介入と見るべきである。

pp.56-57 レヴィ=ストロー スにとっては、男のあいだでなされる女の交換は社会性の基盤である。というのは、交換によって価値を付与され、それによって意味を獲得するものの交換は、相互的な関係と義務を形成し、それらが自然状態ならぬ文化的(すなわち社会的)機構の基礎となるからである。その最も発達した形態が言語であることは言うまでもない。言語を構成しているのは、意味をつくりだして話してと聞き手の位置を決定する諸関係のなかに秩序づけられた意味の諸要素である。

p.57 その意味は社会的な諸関係の産物である以上、変わりうるものである。変わりうるものである以上、たえず再形成しなければならない。

p.58 父権制に関してきわめて明確な政治的定義づけをしている三者を例に考えてみよう。

p.60 こうして彼女は権力が単に威圧的強権の問題ではなく、組み入れと排除、支配と従属の諸関係のネットワークであることを教えてくれる。

p.60 この強力な網の目に対抗するために、われわれは、ジェンダーが実際どのように形成されるのかを理論的に見きわめる必要がある。

p.60 しかし、それは、われわれに向けてつくりだされる表現によってたえず再強化されつづけなければならない。そのイデオロギー的実践の領域こそ、われわれが文化と呼ぶものである。