精読3
第一章 絵画取引のしくみ
3 美術と材料【画材】 p.33 l.9-p.40
p.33 l.17-p.34 l.1 "…ウルトラマリンや金は次第に関心の的ではなくなり、金は額縁の方に使われるようになっていった。"p.34 l.3-4 "このように高価な絵具に心を奪われなくなったことは、今日われわれが絵を見るときに取る態度に通じるものがある。"
p.34 l.6-7 "このような推移を美術史のなかだけで説明しようとしても無理だろう。絵画のなかで金の果たす役割が減っていったのは、豪華さを一部分にしぼる当時の西欧の一般的な傾向の一端をなしているのである。"
p.35 l.11-13 "豪華な金色の輝きが一般に好まれなくなっていったという変化には、実際非常に複雑で、相互に独立した多くの原因があったに違いない。―ある大きな社会的変動によって、新品のけばけばしい豪華さが好まれなくなるという問題が起こったのである。"
p.35 l.13-14 "…まず十五世紀における金の深刻な供給不足があげられる。"
p.35 l.14-15 "次に当時のキケロ流の人文主義がもたらした感覚的な放縦に対する古代趣味の嫌悪感があり、この倫理観は、より近づきやすかったキリスト教の禁欲主義を強化した。"
p.36 l.5-6 "つまり、誇示の方向が変わったのであり―ひとつの方向が禁じられ別の方向が発展した―誇示そのものは続いていたのである。"
p.36 l.12-13 "高価な材料の価値と、その材料を扱う熟練した腕前の価値との区別が、これからの議論のうえでかなり決定的である。"
p.36 l.14-p.37 l.1 "…初期ルネサンスにおいては、まさにこの区別は関心の<核心>だったのである。材料の品質と技術の品質との区別は、絵画や彫刻についての議論のなかではもっとも一貫した論題であり、その議論が美術作品の通俗的な享受を嘆く禁欲調のものであるにせよ、あるいは美術理論の文脈で見られる肯定的なものであるにせよ、区別自体は幾度となく繰り返されてきた。"
p.37 l.11-13 "なぜならあたりまえの色で黄金の輝きを表現することこそ、画工にいっそうの賞賛をもたらすものだからである。"(アルベルティ『絵画論』からの引用)
p.37 l.17 "しかし絵画についての知的な理念と、絵画の通常の慣習とはまったく別の物である。"
p.40 l.14-16 "ここには珍しく理論上の価値と実際上の価値とのみごとな対応がある。一方にウルトラマリン、画面と枠のための金、板の木材など<材料>の値があり、他方にはボッティチェッリの絵筆に対する<手間や技術>の値がある。"
3に挿入されている図版
図6 アントニオ・ヴィヴァリーニ《救世主御公現》
p.37 l.7 "自分たちの描く絵にやたらと金を使う画家たちがいる。"
参考作品:《三連祭壇画》 1446年 ヴェネツィア、アカデミア美術館図7 ボッティチェッリ《聖母子と二人の聖ヨハネ》
p.40 l.11-12 "ウルトラマリン代二フロリン、金と板の調達に三十八フロリン、<画家の腕前に対し>【per suo pennello[彼の絵筆に対し]】三十五フロリン。"
4 技術【画家の技倆】の価値 p.41-49
p.41 l.1-2 "見る目のある顧客が、絵画にあてる資金を顔料の金(ルビ:きん)から画家の「絵筆」【技術】へと振り替える方法にはいろいろとあった。注文した絵の人物の背景に、金箔ではなく風景を指定することもその一例であった。"p.41 l.10-13 "…画家は「人物、建物、城館、都市、山、丘、平原、岩、衣装、動物、鳥、その他あらゆる種類の獣」を描き込むことに同意した。このような要求は、ほんとうの技術ではないとしても、少なくとも労力に対する手間賃を保証しているということである。"
p.42 l.1-3 "技術を気前よく買う顧客となるには、もうひとつのより確実と思われる方法があり、それは十五世紀中頃にはすでに定着していた。つまりどのような手仕事においても、各工房内で親方と助手が費やす手間の価値に関して相対的にかなり大きな格差があったことである。"
アンジェリコと三人の助手の年間給与:
フラ・アンジェリコ 200フロリン
ベノッツォ・ゴッツォリ 84フロリン
ジョヴァンニ・デッラ・ケーカ 12フロリン
ジャコモ・ダ・ポーリ 12フロリンp.47 l.1 "…大規模なフレスコ画の依頼の場合には要求がより緩やかでもあった。"
p.47 l.5-6 "…人物像は背景の建築よりも重要で難しいので、フィリッピーノみずから筆をふるうべき部分が比較的多いということである。"
p.47 l.16-p.48 l.1 "一般的にいって、後の時期の契約書の意図ははっきりしており、顧客は注文した絵画に黄金によってではなく、名人芸つまり画家自身の腕前によって栄光を与えようとしている。"
p.48 l.2 "十五世紀中頃には、絵画技術の価値の高さはよく理解されるようになった。"
p.48 l.7-8 "しかしすべての顧客がそうであったわけではない。ここで述べた 状況は、十五世紀の契約書に見られるひとつの傾向であって、当時のすべての人々が従う規範なのではない。"
p.48 l.10-13 "しかし技術というものに目を開かれた顧客もたしかに数多くおり、彼らは芸術家の個性が次第にはっきりと意識されてくるのに促されて、一四九〇年になると公衆の画家に対する態度を一四一〇年頃とはまったく異なるものにしてしまったのである。"
4に挿入されている図版図8 ベルナルディーノ・ピントゥリッキョ《幼児キリストと出会う聖アウグスティヌス》
p.41 l.4-5 "画家はさらに画面【図8】の空白部分、正確にいうと人物の背景に、<風景と空>【paese et aiere】を描くこと。そしてそれ以外のほかの部分もすべて彩色すること。"
参考図版:《聖ヒエロニムスと聖クリストフォロスのいる磔刑図》 1471年頃 ローマ、ボルゲーゼ美術館図9 ピエロ・デッラ・フランチェスカ《慈悲の聖母》
p.46 l.9-12 "この絵には良質の金による金箔を貼り、良質の絵具、特にウルトラマリンを用いて彩色しなければならない。さらに上記の画家ピエロは、板絵が材料もしくはピエロ本人の過失によって、時間がたつにつれ欠陥を呈した場合には、十年を限度としてこれを修復しなければならないものとする。"
p.46 l.17 "またこの絵については<ピエロ本人以外いかなる画家も絵筆をとってはならない>"図10 ルカ・シニョレッリ《教会博士》
p.47 l.9-12 "(一)上記のヴォールトに描かれる予定の人物像全部を描くこと。(二)特に<各人物の顔と上半身すべて>を描くこと。(三)どんな絵もルカ自身が立ち会っているときにのみ描かれるべきこと。そして(四)絵具の調合はすべて親方ルカ本人が行うこと。…"
5 技術の認知 p.50-55
p.50 l.1-2 "これまで史料を使って論じてきたことは、絵画に費やす金を材料から技術へと振り替える方法にさまざまなやり方があったということである。"p.50 l.4-5 "さらにこの絵画を印象深いものにするためには、高い手間賃をかけた技術が、見る者にはっきりと示される必要があった。"
p.50 l.7 "むろん語らねばならない理由もなかった。"
p.50 l.9-10 "問題なのは、絵画が与えようとしている複雑で非言語的な刺激に対する反応を、言葉で書面に書きつけることはつねに特殊であるという点である。"
p.51 l.2-4 "彼らのほとんどが絵が「良い」とか「上手である」とか述べていないため、その著述はたいへん明確ではあるものの、われわれの観点から見ると役には立たない。"
チョルトーザ・ディ・パヴィアによる記述:
<ボッティチェッリ>
・板絵においても[フレスコ]壁画においても卓越せる画家。
・<雄勁な画風>【aria virile】
・最高の<理法>【ragione】
・完璧な<比例>【proportione】<フィリッピーノ>
・非凡な画家フラ・フィリッポ・リッピの息子
・ボッティチェッリの最良の弟子
・その時代の最も独自な画家の息子
・ボッティチェッリよりも<甘美な感じ>【aria piu dolce】
・それほどの<技倆>【arte】があるとは思われない<ペルジーノ>
・とりわけ壁画に長じた非凡な画家
・作品は<天使のような感じ>【aria angelica】
・非常に甘美【dolce】<ギルランダイヨ>
・板絵に巧みだが壁画によりすぐれた画家
・作品は<良い感じ>【bona aria】
・手早い人、多くの仕事を行う"勝利の棕櫚が誰のものかは決しかねます。"
p.54 l.9-12 "この報告書からいくつかのことがらがはっきりする。つまり、フレスコ画と板絵の区別が明確であること。画家たちが互いに競い合う個人として見られていること。さらに、微妙なことであるが、ある画家がほかの画家と比べて単に<より良い>という点ばかりでなく、その画家の特質がほかの画家とは<異なっている>という点からも、画家間の区別がなされているということである。"
p.54 l.13-15 "…奇妙にも期待を裏切るものがある。これを書いた人物は、画家の<理法>についていったいどれほど、また何を知っているのだろうか。ボッティチェッリの絵画について評した<雄勁な>画風とは何を意味するのか。"
p.55 l.5-9 "もちろんこれらの画家たちの絵をわれわれが見るなら、ミラノ公代理人の使っている言葉にわれわれは、ひとつの意味を、つまりわれわれの意味を与えることはできる。しかしこの意味が彼の意図した意味であるとは思われない。言葉上の困難な問題がまず存在し、<virile>とか<dolce>とか<aria>という言葉が、彼とわれわれとでは異なったニュアンスをもってしまうのである。しかしさらに、彼がわれわれとは違ったふうに絵画を見ていたという問題もあるのである。"
p.55 l.10-12 "そしてこれが次に直面する問題なのである。画家も公衆も、ボッティチェッリもミラノ公代理人も、彼らはわれわれとはまったく異なる文化に属していた。そして彼らの視覚の機能のある面は、当時の文化によって非常に左右されていた。この事実はこれまでずっと考察してきたことがらとはかなり異なっている。"
p.55 l.15-17 "次章では、クアトロチェントの画家と公衆がどのようにしてクアトロチェント特有のやり方で、視覚体験に関心を向けたか、またこの関心の特徴がどのようにして当時の絵画様式の一部となったかについて、もっと深く立ち入らねばならないだろう。"
図11 フィリッピーノ・リッピ《聖ベルナルドゥスの幻想》図12 ペルジーノ《聖ベルナルドゥスの幻想》
聖ベルナルドゥス<クレルヴォーの>
◎物語―ブルゴーニュ地方の貴族の出身。シトー会に入った後、北フランスの谷間に修道院を開き、この地をクレルヴォー(明朗な谷)と名付けた。清貧の修道生活とともに優れた神学者として知られ、信仰が理性に優越すること(まず信じてそののちに知るという態度)を説いた。絵画では彼の神秘主義的な一面がよく採り上げられる。またその雄弁ぶりは「甘き蜜の博士」とうたわれ、したがって持物として蜜蜂の巣がそばに描かれることがある。
◎解説―フィリッポ・リッピの息子フィリッピーノの描く物語は、本を書いているベルナルドゥスのもとに聖母マリアが現れ、彼の執筆を助けてくれたという奇跡。
諸川春樹監修『カラー版 西洋絵画の主題物語 I 聖書編』 美術出版社 1997年3月 p.244