第一章 侍女たち
二
言語と絵画:無限の関係にせまるための無限の努力:反映と実在
p.33 “けれどももう、鏡の奥にあらわれ、そして画家が絵の手前に凝視している、その像を名ざすべきときなのかもしれない。”
p.33 “…目に見えるものにたいしてとうぜん合致しない言語(ルビ:ランガージュ)をかぎりなく求めつづけるかわりに、こう言うだけでこと足りよう。”・ベラスケス
・マルガリータ姫
(傅育掛(ルビ:デュエーニュ)、侍女、朝臣、小人)
・ドーニャ・マリア・アグスティナ・サルミエンテ
・ニエト
・ニコラゾ・ペルトゥザト
・フェリペ四世、王妃マリアーナ
p.33 “これらの固有名詞は便利な符牒となって、どっちつかずの指示を免除してくれるだろう。”
p.33 “だが言語(ルビ:ランガージュ)と絵画との関係は無限な関係である。”
p.33 “両者はたがいに他に還元しえぬものであるということだ。”
p.34 “いってみれば固有名詞とは、このようなたわむれのなかでひとつの詭計にすぎまい。”
p.34 “けれども言語(ルビ:ランガージュ)と可視的なものとの関係を開かれたままにしておこうとするならば、…(中略)…そのときは固有名詞を抹殺し、無限の努力を重ねていかなければなるまい。”
p.34 “…その反映に反映そのものの実在とすれすれのところで問いかけなければならないわけである。”
p.34 上段 後から3行目〜
曖昧な訪問者
p.34 “反映はまず左側に表象されている大きな画布の裏側とおなじものである。”
p.34 “さらにその反映は、窓と対立しながら窓を強調している。窓とおなじくそれは、絵と絵の外部にあるものとの共通の場なのあだ。”
p.34 “反映とそれがうつしだしているものとのあいだに引かれる断乎とした点線は、光の横の流れを垂直に断ちきるのである。最後に―そしてこれこそこの鏡の第三の機能であるが―鏡は、鏡とおなじように奥の壁に開いている戸口と接している。”
p.34 “だがそこで回廊がはじまっているのである。”
p.35 “近いがどこまでもつづいていくその回廊を背景に、一人の男がその丈たかいシルエットを浮きたたせている。”
p.35 “あの鏡のように彼は、場面の裏側をじっと見つめている。鏡にたいするのとおなじように、だれも彼に注意を向けようともしない。彼がどこからきたのかはわからない。”
p.35 “あるいは彼自身、ついさっきまで、場面の前面、絵のなかのあらゆる眼が凝視している不可視の領域にいたのかもしれない。鏡の奥に認められる像とおなじように、彼も自明であるとともに隠されている、あの空間からひそかに遣わされた使者なのかもしれぬ。”
p.35 “…表象されている区域の境界に外から姿をあらわしたところだ。”
p.35 “…つまり、ありそうな反映ではなく、闖入が出来したのである。”
p.35 “片足を階段にかけ、身体を完全に横にむけているこの曖昧な訪問者は、一種不動の均衡状態のうちに、入ると同時に出ていこうとしている。”
p.35 下段 後から13行目〜
螺旋状の運動
p.35 “左手にある、ずれた中心といったものを構成する画家の視線から出発して認められるのは…”
画布の裏側/真中に鏡のある壁にかかった絵/開いた戸口/べつのいくつかの絵/光がそこから溢れでてくる窪み
p.35 “こうした渦まき状貝殻を象る一巡は、表象関係全体のサイクルを示してくれるわけだ。すなわち…”
視線/パレットと画筆/記号(ルビ:シーニュ)で汚されていない画布/いくつもの絵/反映/実在する男
p.36 “そこに見えるのはもはやいくつもの額縁とあの光にすぎない。”
p.36 “そして光は、じじつこの全体の絵のなかで、額縁のすき間から湧き出てくるように見えるのである。”
p.36 “そして片手にパレット、もう一方の手に細い画筆をもった画家の額、頬骨、眼、視線と、光はふたたびつながっていく…。このようにしてこの螺旋形は閉ざされる。というよりむしろ、この光によってそれは開かれるのだ。”
p.36 上段 後から10行目〜
マルガリータ王女をめぐって:伝統的な形象/王女と鏡:二つの形象、二つの中心
p.36 “絵の幅そのものなのである。”
p.36 “彼らのうち五人は、頭をおおかれすくなかれ傾げ、ふりむき、またかがみ、絵にたいして垂直の方向を見つめている。この一群の中心を占めるのが、灰色と薔薇色のゆったりとした衣裳をつけた小さな姫君である。”
p.36 “画面を左右二つのひとしい部分に分割する中線は、彼女の二つの眼のあいだを抜けるであろう。”
p.36 “その顔は絵全体の高さの三分の一ほどのところにある。そこには疑いもなく、コンポジションの中心となるテーマがひそんでいる。つまりこの絵の対象そのものがそこにあるのだ。”
p.36 “…作者は伝統的な形象の助けをかりる。中心人物のわきに、ひざまずき王女を見つめている、もう一人べつの人物が配されるのである。ちょうど祈りをあげてている寄進者か、<聖処女>を祝福する<天使>ででもあるかのように、ひざまずいた付きそいの女は、手を王女のほうへ差しだしている。”
p.37 “このように配置された人物の全体は、絵にたいしていかなる注意を向けるか、あるいはいかなる点を基準として選ぶかによって、二つの形象を構成することができる。ひとつは大きなX型となるだろう。”
X型
p.37 “左上部の一点に画家の視線があり、右手には朝臣のそれがくる。左下の尖端には、裏がえしに表象されている画布の端(より正確には画架の脚)があり、右側には小人(犬の背におかれた彼の靴)がある。この二本の線の交叉するところ、Xの中心に、姫君の視線があるわけだ。”
p.37 “もうひとつの形象は、むしろ大きくひろがった曲線のそれとなるだろう。”
曲線(水盤)
p.37 “その両端は、左手の画家と右手の朝臣にによって決定されよう―後方にある高い二つの極点だ。彎曲部はずっとまえに張りだして、王女の顔と傅育掛(ルビ:デュエーニュ)の女が彼女にむけている視線とに一致するだろう。このしなやかな曲線は水盤の形を描きだし、その水盤は絵の真中で、鏡の場所をとりまくと同時にそれを解き放つのである。”
p.37 “つまり、鑑賞者の注意はとまどいながらそのどちらに注がれるかにしたがって、絵を編成することのできる二つの中心がそこにはあるわけだ。”
p.37 “ところでその二つのそれぞれからまぎれもない一本の線が走っているのだ。”
pp.37-38 “画面を奥行きの方向に走るこの二本の線は、きわめてわずかな角度差をもって同一点を目指すのであるから、二本の交点は画布からとびだし、絵の手前、ほとんどわれわれが絵を見つめているその場所に定められるだろう。”
p.38 “…この主たる二つの形象によって指定され、さらに、絵から生まれたそこからはみだしていく隣りあった他の点線によっても確証されるものであるから、まぎれもなく完全に規定された点でもあるわけだ。”
p.38 “…この場所には、そもそも何があるのだろうか? この光景は何なのだろうか?”
p.38 “つまり絵全体が見つめている場面こそ、絵そのものを逆にひとつの場面としているものにほかならない。”
p.38 下段 6行目〜
至上の君主:非実在的存在、表象を秩序づける中心点
p.38 “このように絵と相対している光景が何からできているかは、絵にたいする最初の一瞥がすでに教えてくれた。至上の君主によってである。”
p.38 “注意をこらすこれらすべての顔、盛装したすべての身体の中央にあって、二人はあらゆる像のうちでもっとも生気のうせた、もっとも非現実的で、もっとも影のうすいものではある。”
p.38 “…あらゆる実在からもっとも遠ざかった形態である。”
pp.38-39 “ところが逆に、絵の外部にとどまって本質的に不可視性のうちに身を隠しているかぎり、二人はみずからのまわりであらゆる表象関係を秩序づける。”
p.39 “…こうして、王女の視線も鏡のなかの像もついにはそれにしたがう、コンポジションのまことの中心をあきらかにするのである。”
三重の機能:三つの形象
p.39 “だがとりわけそれが至上のものであるのは、絵との関係でそれが演ずる三重の機能による。つまり、描かれている瞬間のモデルの視線、場面を見つめている鑑賞者の視線、そしてその絵(表象されている絵ではなく、われわれのまえにあって、われわれがそれについて語っているところの絵)を創作している瞬間の画家の視線が正確に重なりあうにいたるのは、まさにそこにいてだからだ。”
p.39 “この「見つめる」という三つの機能は…(中略)…絵の内部に投射される―すなわち、…(中略)…三つの形象のうちに、投射され回析されるのである。”
p.39 “…左側のパレットを手にした画家(絵の作者の自画像)、足を階段にかけまさに部屋に入ろうとしている右側の訪問者(彼は裏側から場面全体をとらえながら光景そのものである国王夫妻を正面から見ている)、最後に、中心にある、辛抱強いモデルの姿勢をした着飾っている不動の国王と王妃の反映にほかならない。”
三者の場所
p.39 “だがもしかすると、鏡のこのような雅量はいつわりのものかもしれない。あるいは鏡は、それがあらわしているものとおなじくらい、いやそれ以上のものを隠しているのかもしれない。”
pp.39-40 “王が王妃とともに君臨している場所は、同時に芸術家のいた場所であり、鑑賞者のいる場所でもあって、鏡の奥には、通りすぎる者の無名の顔とともにベラスケスの顔があられることもありうるだろうし―じじつあらわれなければならないのだ。”
p.40 “とはいえ芸術家と訪問者とは絵のなかの右と左に現前しているのであるから、鏡のなかに宿ることはできないわけで、それはちょうど、王が絵のなかに姿をあらわさないかぎりにおいて、鏡の奥に姿をあらわすのとおなじことだろう。”
p.40 上段 12行目〜
古典主義時代における表象空間の定義:表象を基礎づけるものの消滅
p.40 “それはおそらく、この絵のなかでも、この絵がいわばその本質をあきらかにしているあらゆる表象関係におけると同様、見えているものの底知れぬ不可視性が―鏡や反映や模倣や肖像にもかかわらず―見る人の不可視性と固く結びあっているということであろう。"
p.40 “おそらくこのベラスケスの絵のなかには、古典主義時代における表象関係の表象のようなもの、そしてそうした表象のひらく空間の定義があると言えるだろう。”
p.40 “…自己をこの絵のなかで表象しようと企てているのだ。”
p.41 “…いたるところから厳然としてひとつの本質的な空白が指し示される。その空白こそ、表象を基礎づけるものの消滅…(中略)…この主体そのもの…(中略)…が省かれているのだ。”
p.41 “…表象は純粋な表象関係として示されることができるわけである。”