北九州市立美術館 連続美術講座
講座 現代美術史


・賞獲得をめぐる政治的な駆け引きと授賞制度への反発
 

単なる政治的かけひきに堕した賞争い

p.10 "…授賞審査の方は前述の1958年に、それまでほとんど毎回受賞してきたフランスが、受賞を逸して「ヴェニスのスキャンダル」と騒がれ、60年にはその埋めあわせのように、本部特陳のフォートリエとフランス館のアルトゥングが並んで国際大賞を受賞したり、64年には過去一度も国際大賞を受賞していないアメリカが一大攻勢をかけ、アメリカ館の通常展示のほかその前に急造したプレファブの建物にネオ・ダダ、ポップ・アートの作品を各作家1点ずつ並べ、そのなかからラウシェンバーグが国際大賞を獲得したりした。つまり、大国同士の政治的かけひきに画商の思惑がからんで、中小国の出品作家は作品の質にかかわらず問題にもされない実情である。"

針生一郎「ヴェネチア・ビエンナーレ日本参加史から」、『12人の挑戦―大観から日比野まで』、茨城新聞社、2002年11月

パリの「五月革命」の余熱

p.11 "…ヴェネチア美術アカデミーの学生たちと、パリの「五月革命」の余熱をおびて集まった各国知識人たちが、ヴェネチア・ビエンナーレを「大国主義と商業主義の祭典」としてボイコットをよびかけ、それに対してビエンナーレ当局は開会前から警官隊を会場に常駐させた。"

p.11 "…その後サン・マルコ広場の騒乱でスウェーデンの出品作家の一人が警官隊になぐられた上逮捕されたため、グラナッツ[スウェーデンのコミッショナー]はスウェーデン館を閉鎖して抗議文を壁に貼り出し、 開会前に帰国してしまった。"

p.12 "…ヴェネチア・ビエンナーレは68年以後さまざまの改革案が出されたにもかかわらず、賞を廃止して中央館と主会場ジャルディーニ以外での特別展示に力をそそぐくらいの修正で、70、72年の第35、36回展が続行された。"

p.12 "その間70年には、スウェーデンが改革不十分と抗議して参加拒否、チェコスロヴァキアもワルシャワ条約軍占領後の混乱のため閉館、アメリカ館でも50人の版画をならべる計画中3分の2が、ヴェトナム戦争やカンボジア侵攻に抗議して出品しなかった。そこで74年にはビエンナーレ開催を見送り、76年からムッソリーニ時代以来の規約を改定して、視覚芸術、映画、音楽、演劇の四部門(のち建築部門を分離して5部門制、美術展は従来通り隔年、映画祭は毎年だが、他部門のイヴェントは不定期)を包括することになった。だが、美術展は従来と大差なく、78年にはビエンナーレ当局の人権抑圧批判に抗議してソ連、チェコ、ポーランド、ハンガリーが参加拒否し、68年以後入場者の減少も止まらず、ビエンナーレはしばらく停滞期に向かう。"

針生一郎「ヴェネチア・ビエンナーレ日本参加史から」、『12人の挑戦―大観から日比野まで』、茨城新聞社、2002年11月

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