1. 列伝史:ヴァザーリ
三浦篤「西洋美術史学の方法と歴史」、高階秀爾、三浦篤編『西洋美術史ハンドブック』、新書館、1997年6月、pp.194-197.
A 西洋美術史学の流れ
p.194 l.2-3. "…特に絵画、彫刻、建築、工芸などの分野を「美術」と総称し、具体的な「美術作品」を歴史的な観点から調査、研究する学問を「美術史学」と呼んでいる。"
p.194 l.3-5. "…この学問の年齢はまだ若い。美術史学の始祖を十六世紀のヴァザーリに見れば約四世紀半ということになるが、近代美術史学の生みの親ヴィンケルマンから数えれば二百五十年に満たず、現在の美術史学の基礎を作ったリーグルやヴェルフリンからは未だ百年を経たに過ぎない。"
p.194 l.9-13. "美術史学は先ず最初に制作者の生涯と作品をまとめる形で萌芽すると共に、様式の大きな流れに対する関心が生まれた。近代になって、作品自体の詳しい調査と様式の変化や造形性に関する進んだ関心が見られる一方で、作品の主題や意味内容を探る方法も誕生した。そして、制作者の知覚や心理、作品と社会状況との関連性も次第に視野に入り、その後は隣接する学問の刺激を取り込みながら、新しい問題意識で方法や視点を多様化し、研究の範囲を広げつつある。"
p.195 l.11-12. "…美術史学も学問的枠組みの再編成を迫られているのである。"
B 列伝史:プリーニウスからヴァザーリへ
p.196 l.6-7. "…列伝史の起源となったプリーニウス(大、二三〜七九)の『博物誌』(全三十七巻/雄山閣出版)であろう。"
p.196 l.9. "この列伝体形式が、美術に関する叙述のモデルとして後世に与えた影響は極めて大きい。"
p.196 l.12-14. "…列伝史の記述形式を完成させた栄誉は、何といっても十六世紀イタリアのジョルジョ・ヴァザーリ(一五一一〜七四)の手に帰せられよう。"
p.196 l.20-p.197 l.2. "…その背後では、古代以来の美術を「青年、壮年、老年」あるいは「生成、完成、衰退」といったサイクルの繰り返しと見る、生物論的な循環史観が意識されているのである。"
p.197 l.7-9. "ところで、ギベルティ以下ここまでの執筆者は全員美術家でもあったが、十七世紀になると美術の研究を専門とする文筆家が、美学的な考察を付加した列伝史を発表するようになる。"
p.197 l.20-21. "美術作品に関する情報を作者の生涯に沿って整理すると同時に、美術の大きな流れを見極めていくという手法は、作品の作り手が個体発生を繰り返す人間である以上、ある意味で当然とも言えよう。"
◆参考図書:ヴァザーリ
ロラン・ル・モレ『ジョルジョ・ヴァザーリ―メディチ家の演出者』、平川祐弘、平川恵子訳、白水社、2003年
ヴァザーリ『続ルネサンス画人伝』、平川祐弘、仙北谷茅戸、小谷年司訳、白水社、1995年
ヴァザーリ『ルネサンス彫刻家建築家列伝』、森田義之監訳、白水社、1989年
ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』、平川祐弘、小谷年司、田中英道訳、白水社、1982年
ヴァザーリ研究会編『ヴァザーリの芸術論 『芸術家列伝』における技法論と美学』、平凡社、1980年
T. S. R. Boase, Giorgio Vasari: The Man and the Book, Princeton University Press, 1979.
Giorgio Vasari, Lives of the most eminent painters, sculptors & architects, newly tr. by Gaston du C. de Vere, repr. of 1915 ed., New York : AMS, 1976.
ヴァザーリの歴史観と芸術観
ヴァザーリ研究会編『ヴァザーリの芸術論 『芸術家列伝』における技法論と美学』、平凡社、1980年、pp.1-7.
「刊行にあたって」
pp.2-3 "このように、ある芸術家たちのグループが他の芸術家たちのグループとは違った意味を持っているというのは、実は彼がそのように歴史を見ていたということであり、彼が個々の芸術家の生涯に関心を寄せる「伝記作者」であったばかりではなく、個人を越えた大きな流れを捉える「歴史家」でもあったということである。"
pp.3-4 "彼は、第二部「序論」のなかで「歴史の真髄」について語り、「歴史」とは、「一人の君主とか一共和国に起こった事件の数々を無味乾燥に述べ伝える」ものではなく、「人間の判断、意見、解決、処理、さらには幸福なまた不幸な行為に導く理由を知らせる」ものであり、しかるが故に、『列伝』は、「芸術家たちが成し遂げた業績について述べるばかりでなく」、さらに「良きものから良きものを、より良きものから最良のものを選び出し、画家と彫刻家の流儀、風格、様式、特徴、想像力をいささか綿密に観察し」、また「諸様式の原因や根源、またさまざまの時代にさまざまの人々に起こった芸術の進歩と頽落の原因や根源を」明らかにしようとした、と述べている。"
p.5 "ここでわれわれは、ヴァザーリが自ら画家、建築家として多くの業績を残し、さらに当時の芸術家たちと親しく交際していて、アトリエの事情に精通していたという事実を思い起こすべきであろう。"
p.6 "今日われわれが使っているような意味での「芸術」、すなわち、単に職人的技能、ないしはものを扱う技術としてのみならず、人間の創造行為の表現としての「芸術」という観念は、まさしくヴァザーリによって確立させられたからである。"
画家ヴァザーリ
《ペルセウスとアンドロメダ》、1570年、油彩・板、117×100cm、フィレンツェ、パラッツォ・ヴェッキオ
source: Museo Ragazzi, Firenze / scrigno d'arte「ヴァザーリの肖像」(『芸術家列伝』より)
source: The University of British Columbia Library / UBC Fine Arts Library Display
ジョットの「円」についてのエピソード
ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』、平川祐弘、小谷年司、田中英道訳、白水社、1982年、pp.24-26
法王ベネディクトゥス九世(27)は、ジョットの人物と作品について知りたいと思い、自分の家臣を一人トレヴィーゾからトスカーナ地方へ送ってよこした。法王は誰か画家を選んでヴァティカンのサン・ピエートロ寺に絵を描かせるつもりだったのである。その選定をまかされた家臣はジョットに会いに来たが、途中シエーナでも大勢の画家たちと会って話をし、フィレンツェではジョット以外に誰が秀れているのか、モザイクが得意なのは誰か、あらかじめ探りをいれておいた。そしてシエーナの画家たちからもデッサンをもらっておいた。フィレンツェに着くと、ある朝ジョットを仕事場へ訪ね、法王の意向を伝え、法王がジョットにどのような仕事を期待しているかを説明し、最後に法王へ参考として送るために少しデッサンを描いてくれまいかと頼んだ。ジョットは気持よくそれに応じ、紙を一枚取り出すと、右腕を右脇にしっかりと固定して、それをコンパスの軸とし、赤に染まった筆を手先でぐるっとまわして円を描いた。それは一点非の打ちどころのない完全な円であった。そして描き終えたジョットは微笑して法王の家臣に向かい、
「これがお求めのデッサンです」
と答えた。
家臣は愚弄されたと思い、
「ほかにもなにかデッサンをいただけないでしょうか」
というと、ジョットは、
「これで十分です。もう十分すぎるくらいです」
と答えた。そしてジョットは、
「ほかの人のデッサンと一緒に送ってごらんなさい。そうすれば私のデッサンが認められるかどうかわかるでしょう」
とつけたした。法王の家臣はこれ以上デッサンをもらえないことを知り、不満気な表情でジョットの仕事場を立ち去った。彼は自分が馬鹿にされたのではないか、と疑っていたのである。しかしともかくほかのデッサンとその作者名を送るとき、ジョットのデッサンも法王宛に送り、あわせてジョットが腕を動かさずコンパスも使わずに円を描いたときの模様も報告しておいた。すると美術について見識のあった法王その他の廷臣たちは、たちどころにジョットが同時代の画家のなかで抜群の才能の持主であることを了解したのである。そしてこのことがひとたび世間に伝わると、それから諺が一つ生まれたが、それはいまでも鈍感な人に向かって発せられる諺となっている。
「君はジョットの円(まる)よりもまるいね。」Tu sei più tondo che l'O di Giotto.
この諺は、単に諺ができたいわれが面白いというだけではなく、「まるい(トンド)」という言葉がトスカーナ語では完全な円形という意味とともに鈍感でにぶい、という意味をあわせ持っているために味のある諺となっている。
さて法王はジョットをローマへ呼ぶと、彼の能力に敬意を表して、サン・ピエートロ寺の特別席(トリブーナ)にキリストの生涯の五つの情景を描くことと、聖器安置室にその中心となる板絵を描くことをジョットに依嘱した。その絵はみな見事な出来ばえで、ジョットの手になる作品としてもこれほど磨きのかかったテンペラ画はまだなかったほどである。法王はその仕事が立派であることを認め、六百ドゥカートの金貨、その他の褒美を授けたが、そのことは全イタリアで話題にのぼったほどである(28)。
(27)ボニファティウス8世の誤り。
(28)作品は現存しない。
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