美術史2004


8. 知覚心理学と美術史:ゴンブリッチ

三浦篤「西洋美術史学の方法と歴史」、高階秀爾、三浦篤編『西洋美術史ハンドブック』、新書館、1997年6月、pp.210-211.

I 心理学的・精神分析学的方法

p.210 l.7-8. "ゴンブリッチは、人間の視知覚とイメージ表現の関係に新たな眼差しを注ぎ、知覚心理学を武器にヴェルフリンの様式論の大胆な読み替えを行う。"

p.210 l.9-10. "主著『芸術と幻影』(一九六〇/岩崎美術社)において、「見ること」と「知ること」との複雑な関係性を明るみに出し、西洋絵画における現実再現様式の展開を見事に跡付けたのである。"

p.210 l.12-15. "…ゴンブリッチは美術作品のみならず、写真、広告デザイン、ポスター、地図、文様、カリカチュア、漫画等々、人類のイメージ活動全体を対象として視覚像の生成、機能、歴史を科学的に解明しようとしている。方法論、研究対象ともに美術史学に革命的な転換をもたらしたと言ってよい。"

p.211 l.11-13. "…精神分析学の美術史学への寄与は、意識下に抑圧された欲望と昇華、エディプス・コンプレックスといった諸概念を与えただけではなく、イメージの中に無意識に現れる徴候を解釈する手法自体の有効性を示したことにもある。"

p.211 l.17-18. "…ユイグは、『見えるものとの対話』(一九五七/美術出版社)や『芸術と魂』(一九六〇)などの著作において、芸術家の深層心理に光を当てながら。「魂の言語」としての美術の本質について探究し続けた。"


参考図書

エルンスト・H・ゴンブリッチ(Gombrich, Ernst. H. 1909-2001)

E. H. ゴンブリッチ『棒馬考 イメージの読解』、二見史郎、谷川渥、横山勝彦訳、勁草書房、1994年(完訳版)

E. H. ゴンブリッチ『装飾芸術論』、白石和也訳、岩崎美術社、1989年

E. H. ゴンブリッチ『アビ・ヴァールブルク伝 ある知的生涯』、鈴木杜幾子訳、晶文社、1986年

E. H. ゴンブリッチ『芸術と幻影』(美術名著選書 22)、瀬戸慶久訳、岩崎美術社、1979年

E. H. ゴンブリッチ『美術の歩み 上』、友部直訳、美術出版社、1972年

E. H. ゴンブリッチ『美術の歩み 下』、友部直訳、美術出版社、1974年

エルンスト・クリス(Kris, Ernst 1900-1957)

エルンスト・クリス、オットー・クルツ『芸術家伝説』 、大西広[ほか]訳、ぺりかん社、1989年

エルンスト・クリス『芸術の精神分析的研究』(現代精神分析双書 第1期 第20巻)
、岩崎学術出版社、1976年

オットー・クルツ(Kurz, Otto 1908-1975)

マイヤー・シャピロ(Schapiro, Meyer 1904-1996)

マイヤー・シャピロ、エルンスト・H・ゴンブリッチ『様式』、細井雄介、板倉壽郎訳、中央公論美術出版、1997年

マイヤー・シャピロ『ゴッホ』(BSSギャラリー世界の巨匠)、黒江光彦訳、美術出版社、1992年

マイヤー・シャピロ『セザンヌ』(BSSギャラリー世界の巨匠) 、黒江光彦訳、美術出版社、1991年

メイヤー・シャピロ『モダン・アート 19-20世紀美術研究』 、二見史郎訳、みすず書房、1984年

ルネ・ユイグ(Huyghe, René 1906-1997)

ルネ・ユイグ『かたちと力 原子からレンブラントへ』、西野嘉章、寺田光徳訳、潮出版社、1988年

ルネ・ユイグ『ドラクロワ』(世界美術全集 座右宝刊行会編 14)、阿部良雄、高階秀爾訳、小学館、1977年

ルネ・ユイグ『モナ・リザ レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館』(巨匠の名画)、高階秀爾訳、美術出版社、1974年

ルネ・ユイグ、池田大作『闇は暁を求めて』(1-3 聖教文庫)、聖教新聞社、1985年

ルネ・ユイグ、池田大作『闇は暁を求めて 美と宗教と人間の再発見』、講談社、1981年

ルネ・ユイグ『イメージの力 芸術心理学のために』 、池上忠治訳、美術出版社、1969年

ルネ・ユイグ『見えるものとの対話』(1-3)、中山公男、高階秀爾訳、美術出版社、1965年(3版)

ルネ・ユイグ『見えるものとの対話』(2, 3)、中山公男、高階秀爾訳、美術出版社、1964年(再版)

ルネ・ユイグ『見えるものとの対話』(1-3)、中山公男、高階秀爾訳、美術出版社、1962年

ポール・ゴーギャン『タヒチ・ノート ゴーギャン手稿』(ルネ・ユイグ、東珠樹解説)、美術公論社、1987年


E. H. ゴンブリッチ『芸術と幻影』(美術名著選書 22)、瀬戸慶久訳、岩崎美術社、1979年、pp.25-33.

 (一) 様式の謎 pp. 25-27

 1-1 アランの漫画 pp.25〜26

p.25 l.6 "「様式の謎」とは何か…"

p.25 l.7-8 "それぞれの時代や民族で、なぜ視覚世界の再現方法が異なっているのか。"

 1-1 芸術的視の多様性と美術史家の研究態度への反省 pp.26〜27

p.26 l.4 "美術史に関する問題点は多々あるが、それらは歴史的な方法だけでは解決できない"

p.26 l.10-11 "なぜこうも簡単に樹木の制作者が中国画家オランダ画家かを言い当てられるのか、改めて問うまでもないことだと思っている。"

参考図版
 黄公望《天池石壁図》、1341年、絹本墨画淡彩、139.4×57.3cm、北京故宮博物院
  Source: 琴詩書画巣 / 中国絵画史ノート
 ロイスダール《雨後》、1631年、油彩・カンヴァス 、56.0×86.,5cm、ブタペスト美術館
  Source: Web Gallery of Art / Ruysdael



 (二) イリュージョン pp.27-33

 2-1 二十世紀前半の美術革新とイリュージョン問題の等閑視 pp.27〜28

p.27 l.3-4 "…なによりもまず再現の正確度評価の基準におくのが通例になっていたから…"

p.27 l.8-9 "二十世紀前半、大きな美術革新の嵐が全ヨーロッパを席巻するわけだが、この美術運動のおかげでわたしたちは前述のような美学の殻を脱ぎすてたのであり、それは永遠に記念されるべき収穫の一つでもあった。"

p.27 l.9-10 "そこで、美術鑑賞を指導する教師が通常手初[ママ]めに取除かなければならない先入主は、芸術的にすぐれているとは取りも直さず写真的な正確さをもっていることだという考え方である。"

p.27 l.16-p.28 l.1 "こうして、イリュージョンの問題は、芸術の上で見当違いの解釈が加えられているだけでなく、心理学的にもきわめて単純な問題に過ぎないという印象を一般に与えてしまった。"

 2-2 兎か家鴨か pp.28〜29

p.28 l.16-p.29.l.1 "イリュージョンを発見することはあっても、それを記述したり分析したりするのはむずかしい。ある特定の経験をした場合、あれがきっとイリュージョンに「相違ない」とあとで知的に自覚はするだろうが、厳密な意味で、イリュージョンの渦中にある自己を見つめることはできないからである。"

参考図版
 ・アヒルとウサギ
 ・老婆と娘
 ・ナポレオンの隠し絵
  Source:
第6回 我々が、見ているのはありのままの現実

 2-3 浴室の鏡 p.29 

p.29 l.11-3 "この主張は普通そのまま素直に信じてもらえそうにない。かくいう私自身も、幾何学がどうであろうと、髭を剃っているときにはほんとうの自分の顔(実物大の)を見ていると信じて疑わない..."

 2-4 ケネス・クラークの試み pp.29〜30

p.30 l.3 "ついに彼は同時に二つのヴィジョンをとらえることができなかった。"

p.30 l.7-8 "本書では、視覚効果の問題を美術作品の問題と切り離して論じた方が都合がよいと考えた。"

 2-5 略画遊び pp.30〜31

p.30 l.11-2 "再現は必ずしも芸術である必要はないのだが、それでも芸術に優るとも劣らず不可解なものである。"

p.31 l.2-3 "この過程さえまだ完全に理解することがおぼつかないような者が、一体どのようにしてベラスケスに挑もうというのか。"

 pp.31〜32 「再現方法の通俗化」についての指摘

p.31 l.11-2 "美術家でありしかも「イリュージョン作家」でもあるような過去の芸術家と取り組む場合、芸術研究とイリュージョン研究をいつも別々に考えられるはずがない"

p.31 l.17-p.32 l.13 "かつては美術家たちが誇りとも手柄ともしていた再現方法の発見やその効果も、今ではつまらないものになってしまったという。わたくしはしばらくの間、この説を否定しないでおこう。だがしかし、この再現の問題が芸術とは何らかかわりあいがなかったとする近頃流行の思想を認めるならば、わたくしたちは過去の巨匠たちとのつながりを失ってしまうという誠に由々しい結果を招くのではなかろうか。自然の再現が今では何か陳腐なものと見なされている原因の究明こそ、歴史家にとってはなによりも興味深い問題であるはずだ。今日のように、視覚イメージがあらゆる意味でこんなにも安っぽかった時代はかつで一度もなかったわたくしたちの身辺にはポスターとか広告がひしめいており、漫画や雑誌の挿絵などの矢面に立たされている。現代人はテレビのスクリーンや映画に映し出されるものとか、郵便切手や食品のパッケージに描かれているものなどを通して、再現された現実世界のいろいろの面を見ている。絵を描くことは、一種の療法として学校で教えられ、娯楽として家庭でたしなまれているし、多くの素人画家たちは、かつてジォットにとって魔術そのもののように考えられていたトリックを、いとも簡単に習得してしまっている。たとえば、ありふれた朝食用のコーンフレークの箱一つとってみても、あのけばけばしい色で描かれた絵もおそらくジォット時代の人々にしてみれば息が止まるほどの驚きであったと思われる。だからといって、ただちにこの箱の絵の方がジォットよりすぐれていると考える人がいるかどうかは知らない。少なくとも、わたくしはそうは考えない。しかしながら、再現方法の克服と通俗化が、美術史家にも美術評論家にも一つの問題を提起しているのではないかと考える"

 pp.32〜33 本書の目的

p.32 l.15-7 "わたくしが以下の各章で解明せんとする主たる目的は、形、線、影、色などを駆使して、いわゆる「絵画」という視覚的現実の不思議なまぼろしをつくり出してしまう人間の能力に対して、もう一度驚異の眼を向けさせることにある。"

p.32 l.18 "「…つまり目覚めている人びとのための一種の人工的な夢の家をつくるのだと言えないだろうか」"

p.33 l.7 "すでにわたくしたちはイコノロジーの全貌を知っている。"

p.33 l.15-17 "アランのデッサン教室で会合し、あの少年たちのかかえている諸問題について、わたくしたちだけでなく、できることなら知覚の問題を科学的に研究している研究者にも意味のとれる共通の言葉で討論してみたいものだと。"


参考リンク

第6回 我々が、見ているのはありのままの現実か

psycho lab. / 視覚−形態・立体視

北岡明佳の錯視のページ

(6/23/04)