美術史2004


11. ポストコロニアル研究と美術史

ポストコロニアリズムについて

エドワード・W・サイードの著作『オリエンタリズム』(1978年)を嚆矢として、「文化による帝国主義支配」の現状を告発し、克服しようとする思潮=ポストコロニアリズムが興隆した。

『オリエンタリズム』でサイードは、これまで西洋における異国趣味、あるいは西洋の学者たちによる東洋研究として理解されてきた「オリエンタリズム」が、実は、西洋が東洋を異文化として自己から切り離すことによって、自己の文化の同一性を強固にする役割を担う一方で、そうして「異文化」化された地域と人々を、西洋によって支配・管理されるべき対象としてイメージ化させるテキストの生産活動であると告発した

こうした文化帝国主義に対抗する思想のひとつが「文化多元主義」である。あらゆる文化が混成的であることに注意を喚起することによって、単一民族による単一な言語を基盤とする近代国家モデルの虚構性を明らかにし、中心=優位と周縁=劣位の二項対立的な上下関係を無効化する。

さらに、ガヤトリ・C・スピヴァックは、欧米の知識人層を「語る主体」として展開しているポストコロニアル研究において、「語られる対象」である文化的、経済的、政治的に劣位におかれている人々=サバルタンが、相変わらず「自らを語る」機会を奪われている事態を告発し、高収益で知的な生産が第一世界に、低収益な労働、あるいは分析され語られる対象が第三世界へと振り分けられている、世界規模での分業=文化的・経済的搾取の激化に警鐘を鳴らしている。

(文責:藤川)

参考:「ポストコロニアリズム」、『Microsoft エンカルタ総合大百科2004』


ホミ・K・バーバ「ポストモダニズム/ポスト・コロニアリズム」、ロバート・S.ネルソン、リチャード・シフ編『美術史を語る言葉 22の理論と実践』、加藤哲弘、鈴木広之、秋庭 史典訳、ブリュッケ、2002年 、pp.536-563

ホミ・K・バーバについて

ホミ・K・バーバ(Bhabha, Homi K. 1949- )

Source: Harvard Univ. / Department of English (7/14/04)

ボンベイに生まれる。ボンベイ大学にてBA取得ののち、オックスフォード大学クライスト・チャーチにてM.A.、M.Phil、D.Philを取得。現在、ハーバード大学教授。 ポスト・コロニアル研究の代表的研究者のひとり。ジャック・ラカンの精神分析論やフランス現代思想を援用し、「異種混交性」や「擬態」、「間性」等をキーワードとした論を展開している。

主要論文等

ホミ・K・バーバ「文化の中間者」(林完枝訳2001)、ホール / ドゥ・ゲイ編『カルチュラル・アイデンティティの諸問題』所収
――「差異・差別・植民地主義の言説」(上岡訳1992 / 1986)、『現代思想』vol20-10
――「他者の問題」(富山太佳夫編 (1996) 『現代批評のプラクティス−4 文学の境界線』)(研究社出版)
――「ポストコロニアルとポストモダン」(谷真澄訳1995 / 1994)『現代思想』23-3
――「国民の散種―時間、語り、そして近代国家の周縁」(大野真訳1993 / 1990)、『批評空間』/’Dissemi/Nation: Time, narrative and the margins of the modern nation’, In Bhabha “Nation and Narration”
ホミ・K・バーバ/ビク・パレク「アイデンティティのオン・パレード」(森田良治訳1995 / 1989)、『現代思想』vol23-3
Homi K. Bhabha,  The Location of Culture (1994), Routledge
――, Nation and Narration (1991), Routledge

Source: で・ふぉるましおん / 主要引用・参考文献リスト (7/14/04)


I〜IVに仮表題をつける

I    モダニズムとポストモダニズム―主体の二重性=分裂

II    アドリエンヌ・リッチの詩の分析―限界を暴露する芸術の力

III    文化の歴史の不公正性

IV    社会的行為性をめぐる美学的で倫理的な試練


I    モダニズムとポストモダニズム―主体の二重性=分裂

p.537 "ジャン=フランソワ・リオタールは、その先駆的な著作『ポストモダンの条件』の中で、慎重にも、モダニズムとポストモダニズムとの関係は、調停的でアポリア的なものであること[を]指摘している―「ポストモダンとは、モダンの中で、提示不可能なものを提示そのものにおいて提出するものである」(Lyotard 1992, 1014)にもかかわらず、このような定義が持つ微妙な決擬論は、その大部分が失われてしまっている。"

p.542 "芸術の価値は、超越的領域にあるのではなく、翻訳能力にある。つまり常に差異の境界線をはっきりと示しつつ、それを改変しながら、メディアや素材、ジャンルの間を移動できる可能性にある。"

p.546 "主体の死と、その回帰ないし修正との間の埋葬の瞬間に、フォスターはポストモダンのメディア的世界における主体性の深遠な分裂(disconnection)を経験しているが…"

II    アドリエンヌ・リッチの詩の分析―限界を暴露する芸術の力

p.549 "…グローバルなコスモポリタニズムの本質は、「空間と時間の変換…、距離を置いた行動 action at distance」(Giddens 1994, 4)の中にある。自らの遺産の権利を主張し、人間の倫理的意志を行使し、また空虚な記憶を詳述しようとする同化されていない行為者(ルビ:エージェント)は、「公的生活」の倫理哲学者たち…(中略)…が「同心円絵 concentric-circle picture」(Shue 1988, 693)と呼んだものの中では、もはや生き残ることができない。"

p.551 "グローバル性のレトリックが、より自己誇示的かつ包括的になるにつれて、その対位点(ルビ:カウンター・ポイント)として、決定不能で不確定な共同体の言説が生まれてくる。"

p.551 "私を惹きつけるのは、この境界線―人間の地平よりも狭い―である。つまり、なぜか超越的人間普遍の手前で止まってしまい(だがそこに到達しないわけではない)、そしてまさにそのために、倫理的実践と美的観念としての共同体の感覚に、倫理的な権利を付与し制定する社会空間である。それは、アウラとアゴラが重なり合う、ほとんど不可能で弱められた限界を暴露する芸術の能力である。"

アウラ:微風,香り,光輝などを意味するラテン語。

アゴラ:古代ギリシア都市の中心広場。本来は市民集会を意味する語だが,集会の場所そのものを指すようになる。

Source: 山口大学図書館/「ネットで百科」 (7/14/04)

III   美術館の平行主義の虚構性― 諸文化の提示における「視差」の提案

p.559 "植民地化された世界あるはポスト・コロニアルの世界からの美術を展示すること、周縁化された人々あるいは少数民族の作品を陳列すること、忘れられ、見捨てられた「過去」を発掘すること―このようなキュレーター的プロジェクトは、結局は西洋の美術館の中心性を支持することで終わってしまう。平行主義は、諸文化の間には等距離的契機があることを指摘するが、その最良の舞台となるのは、西洋の偉大なる中心都市のほかにどこがあるのだろうか一体ほかの誰に、舞台を提供する余裕があるのか?―ということも示唆している。"

p.560 "現代(ルビ:モダン)の美術館の平行主義は、その国際的様式において、「平等の距離/平等の差異」という美学的な軸の口火となる。しかし、文化の歴史は、そのように公正であったことも、世界的であったことも決してないのである。ポスト・コロニアルなパースペクティヴは、むしろ、西洋のものであれ非-西洋のものであれ諸文化の提示においては「視差 parallax」(これは一五九四年頃、一つの単語となっている)のパースペクティヴを採用することを提案している。視差とは、「観察地点を実際に変えること(あるいは観察地点の差)によって引き起こされる、物体(対象)の見かけ上の置換、あるいは見かけ上の位置における差異」(Oxford English Dictionary)のことである。"

p.561 "そのような区別をせずにいることは、(大文字の)歴史の死における共犯者となることと引き替えに、(大文字の)美術の延命を図る鑑識家となることでしかない。"

IV    社会的行為性をめぐる美学的で倫理的な試練

p.561 "「経験」やアイディンティティはアプリオリな直感ではなく、イメージやイデオロギーあるいは物語や言説として構築されている。そのように主張する自己-反省的(self-reflective)議論は、存在論的ないし認識論的問題を乗り越え、倫理的問題に直面することが可能な時にのみ、意義あるものとなる。いかにして我々は、歴史的偶発性や文化的決定不能性の規則や戦略を使用して、歴史の不公正で不法な必需品(neccessities)を変換することができるのかという問題に、である。"

p.561 "私がここで示したいと願っていたことは、偶発性の力―歴史的なものであれ、語り手的なものであれ―が、生命や歴史の中心であるように見えるものに対して人間主体を斜めに置くことがあっても、それによって人間の行為に備わる社会的働きかけ(ルビ:エージェンシー)が枯渇してしまうことはないということである。"

p.562 "ポストモダニズムの、永遠の政治的教訓は、作者という主人や支配者とはならない社会的行為性(ルビ:エージェンシー)とは何か考えるように我々に強く迫ってくることである。行動者(ルビ:アクター)と作者の間の曖昧な関係の中にある我々は、分断的な時間風景に生きるよう美学的倫理的試練を受けている。"