多数的なもの→統一的なもの
ティツィアーノ 《ウルビーノのウェヌス》 1538年 フィレンツェ、ウフィツィ美術館 |
ベラスケス 《横たわるウェヌス》 1648年 ロンドン、ナショナル・ギャラリー |
各部分において鑑賞する裸体 |
全体の流れを鑑賞する裸体 |
ルネサンス的な美の規範は、ジョルジョーネの型を受容したティツィアーノの横たわる美女(図89)[《ウルビーノのウェヌス》]である。明瞭に限界づけられた個々の肢体ばかりで一つの和声が組み立てられ、その和声の中では個々の音そのものがまったく明瞭に響き続ける。それぞれは、それ自体でまとまりをもつように見える形である。ここでだれが解剖学的真理の進歩について語りたいと思うであろうか。一切の自然主義的な素材内容は、この把握へと導いた美の観念の前ではどうでもよいものに後退する。もしそれがどこかで使えるならば、音楽の比喩はこの美しい形の共鳴にこそふさわしい。
(ハインリヒ・ヴェルフリン 『美術史の基礎概念』、慶應義塾大学出版会 2000年、p.245)
ベラスケスの《横たわるウェヌス》(図90)における根本感情は、ティツィアーノの場合といかに異なることか。身体はなお一層優美に組み立てられているが、それがねらう効果は分離された形の並列にはなく、むしろ全体が一つにまとめられることであり、一つの主導的モティーフに従わされることであり、各肢体を独立した部分として均等に強調するのを断念することである。この事情について別の言い方をすることもできる。アクセントが数個所に集められ、形が数個の強調点に分解されている、と―どういう言い方をしても同じことである。しかし、前提は、身体の体系が最初から別様に捉えられていた、すなわち、ほとんど「体系的」に捉えられなかった、ということである。クラシック様式の美にとって、すべての部分の均等に明瞭な可視性は自明のことであるが、バロックはそれを断念することができる。
(ハインリヒ・ヴェルフリン 『美術史の基礎概念』、慶應義塾大学出版会 2000年、p.246)