『「エジンバラ・山口2004」平成15年度総合科目授業報告書』 

編集:貞方昇・赤嶺まどか


III. 学生レポート


V.学生レポート(24日現在)Student reports for the course

 

『芸術文化振興活動の今−「エジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi)2004」』

平成15年度後期授業学生レポート(提出者:31名)

 

1.芸術活動の中身に触れて

 私は山口(Yamaguchi)でこんなに芸術活動が行われているなんて知りもしなかったので、この授業を通して新たな発見をたくさんすることができてよかったです。そして、現代芸術に対する視野を広げることもできました。現代芸術は、誰でも手軽にアクセスできることをモットーとした方向に向かっているのでしょうか。山口(Yamaguchi)においては、秋吉台国際芸術村や山口(Yamaguchi)芸術情報センターの活動を見てそう感じました。山口(Yamaguchi)芸術情報センターは、今後山口(Yamaguchi)の芸術活動の拠点になっていくと思います。図書館と合体したことで芸術センターの方にも足を運びやすくなるし、人足も途切れないと思います。ただ、光通信に関しては市民の人から苦情が出たということを聞いたことがあります。市民の人が一部でも不快になることは避けなければいけないと思います。そうしないと、芸術センターから人が遠ざかるばかりか芸術からも遠ざかっていくことになるかもしれません。となると、芸術センターの本来の目的を果たしていないことになるのではないでしょうか。そして、最後にエジンバラ(Edinburgh)からわざわざAlan Johnstonさんにお越しいただき、「エジンバラ(Edinburgh)の現代芸術活動とPatrick Geddes」の講演を聞けることができて、とても勉強になりました。異文化に直にふれたような気がしました。しかもこんな体験はめったにできるものではないので、本当に貴重な体験をさせていただきました。そこで、あの小さな教室で、出席しているのはほとんどこの授業の受講者だけだったのがとてももったいないということを強く感じました。この授業の受講者で協力して、この講演のことをもっと大々的に宣伝して大学会館の大きなホールで講演をすればもっと成功して大きな反響を得たのでは・・と後になって思いました。まだまだ山口(Yamaguchi)とエジンバラ(Edinburgh)の芸術活動について知らない人は山ほどいるはずです。私もこの授業を受けるまではその一人でした。山口(Yamaguchi)とエジンバラ(Edinburgh)の芸術活動を比較することで、山口(Yamaguchi)の文化を相関的に見ることもできるし、他国との比較ということで異文化理解にもつながるという利点が考えられます。これからもこの授業の延長線として、エジンバラ(Edinburgh)の他にもイギリス各地の芸術や、いろんな国の芸術活動を見ていこうと考えています。Patrick Geddesの「生の図式」に関しては、奥が深すぎて理解できるまでには至りませんでしたが、この考えと芸術を頭の中で結びつけることができたらどんなに素晴らしいだろうと思うし、芸術にもっとのめりこむことができるだろうなと思いました。

イベント準備参加可能(というか、是非参加したいです!)

 

2.NPOについて

 「市民が行う自由な社会貢献活動としての特定非営利活動の健全な発展を促進」(法第1条)することを目的として、平成10年12月に特定非営利活動促進法(NPO法)施行された。NPO法は、定非営利活動法人(NPO法人)の自主性、自律性を尊重する観点から、様々な形で行政の関与を極力抑制しており、設立手続において認証主義を採用するとともに、NPO法人は自らに関する情報をできるだけ公開することによって市民の信頼を得て、市民によって育てられるべきであるとの考えがとられている点が大きな特徴となっているが、今回の授業ではあまり法学的な部分では触れてこなかったので良く分からないが、Geddesの視点から街を大学を芸術を融合してよりよい生活を皆で作るというGeddesの精神は良く理解できたし、Patrick Geddesの授業は奥がとても深くて今回だけの授業だけではすべてを理解できなかった部分が多々ある。特に「生の図式」では殆ど何を言っているのか分からないことが多かった。しかしGeddesの育った街や環境、歴史を知ることはGeddesを理解することにとても役に立ったし面白い話であった。そして多くの・・(文字化け)・・。

 

3.エジンバラ(Edinburgh)という街

 私が今回この講義を受講したのは、共通教育の総合科目の単位が必要であるという事の他には、人文学部や他の学部の先生方何人かで構成されたものである、という事で先ず興味をひかれ、第一回目のオリエンテーションに参加した所、全体を通して多岐に亘る職業分野の方々を実際に授業に招聘し、お話を聞くチャンスがあるという事、又どうやらこの講義全体を通してキー・ワードになりそうなPatrick Geddesという人物とエジンバラ(Edinburgh)という街についてもっと知りたいと思ったからです。実際に講義を受けていく中で感じたのは、どうやらこの講義を行われている先生方はみんな、Patrick Geddesという人物に魅せられた人々なのではないかな、といった事でした。以前に講義の中で、Geddesの理論は随所にまだ未完の部分がある、と仰ってましたが、先生方のPatrick Geddesやエジンバラ(Edinburgh)についての知識や興味、関心もまだ勉強を始めたばかりで、自身が楽しみながら学生にも知って欲しくて話をされている、といった印象を受けました。私自身、その知的な好奇心からくる興奮の様なものに触発された感じで、講義を受けていく事になりました。Geddesの「生の図式」はやっぱり未だによく分からないのですが、Patrick Geddesが「恋に落ちた」(と前回のシンポジウムで素敵な表現をされてましたが、)エジンバラ(Edinburgh)という街に実際に行ってみれば、彼の言いたかった事もよく理解できるのではないかな?と感じました。 この講義全体を通して良かったと感じた事が2つあります。1つ目は、今や私の中で、エジンバラ(Edinburgh)という街は地図上の記号としてでは無く、いつか行ってみたい街として、そして興味深く、素敵な歴史を秘めた都市として記憶に留まるだろうという事です。もう一つは、この様な機会でも無ければ触れる事の無かっただろう地元・山口(Yamaguchi)のアーチスト達の生活ぶりを知ったり、行く事の無かっただろう施設に足を伸ばす機会を得る事が出来た点です。そう言えばこのレポートを作成している今日、(1月31日)は秋吉台国際芸術村でコンサートが行われているとか。「音」を映像として視覚化するという試みを、この講義を一緒に受けている友人と面白そうだね、試験期間中で無ければ行けたのにね、と話していました。

そんな風に講義の外に拡がりを持てるという点で、この講義はとても貴重なものだった様に感じます。ただやはり昨年から始まった授業という事もあってか、準備不足な点は否めなかった様に思います。講義回数を多少増やしても、その分身になるお話を聞ければ学生にとっても有意義だと思うので、例えば山口(Yamaguchi)のアーチスト達との対話の時間を少し大目にとる、等しても良いのではないかと思いました。今後はそういった点を踏まえた、更に良い講義にしていって欲しいと思います。

 

4. 無題

 今回のこの芸術・文化振興NPO活動の今「エジンバラ(Edinburgh)山口(Yamaguchi)2004」という授業は僕にとってとても価値のあるものだった。その理由はまず、現代芸術とは、都会だけのものであって、山口(Yamaguchi)の様な田舎では現代芸術についてはあまりふれる機会はないと思っていた。しかし嶋田さんの話や、秋吉台国際芸術村の活動についての話を聞いて、様々な海外からのアーティストがここ山口(Yamaguchi)に来て創作活動を行うことで国際的な交流があり、山口(Yamaguchi)も現代芸術と結びついていて、芸術が身近にあるものなんだと感じることができたこと。そして、現代芸術に対して何となく抽象的でとっつきにくいイメージがあったが、直接アーティスト達の話を聞いてその様な先入観を捨てることができて興味を抱くようになったからである。

 ところで、現代芸術がもっと発展していくために一番必要なことは僕たちのような受け取る側の意識の向上だと思う。しかし現代芸術といったものは、それを通して人生をより豊かなものにできるが生きていく上で決して必要不可欠のものではない。必要であるならあるでそれはよいことだが、必要がないと思う人には無くてもよいので、受け取る側の人次第であるから全ての人の意識を変化させることは不可能に近いことである。しかし僕が持っていた様なイメージや先入観を抱いてる人には、その様な誤解をなくせるような機会がもっと与えられれば現代芸術に対して興味を抱く人が増えるはずである。

 そのために国は芸術文化振興法1章5条で国民の文化芸術に対する関心及び理解を深めるように努めなければならないいとしているが、実際にははそのようなことは積極的にはなされてないように思われるし、例え国が努力をしたところで現代芸術に関心の無い人は当然に、また多少関心のある人であっても、要はその人の積極性みたいなものが必要なので、市民レベルでの意識の変化は難しいように思われる。 その点では今回のような授業では、言葉は悪いが授業という形で多少の強制力があって、僕のような何となく興味があるがわざわざ足を運んでまで現代芸術に触れてみようと思わないような人間にとっては、良い機会であった。今後もこの授 業を通じて沢山の人が現代芸術に興味を持つようになると思う。

 

5.芸術文化基本法と山口(Yamaguchi)の芸術文化活動について

  芸術文化振興基本法には、文化芸術の振興における国の役割や文化芸術に関する教育、基本理念など、文化芸術に関する様々な方針が書かれてある。特に私が注目したのは、文化芸術の振興における国の役割である。国は、自ら諸条件の整備を図るとともに、地方公共団体の取り組みを促進し、また、個人や団体の活動としての限りがあるところに必要な手を差し伸べることにより、全体として文化の芸術振興が図られるよう所要の措置を講じていく必要がある。と書いてある。こうしてみると、日本は、国や地方公共団体の援助によって、十分な芸術文化活動が行われているように見える。しかし、授業でも習ったように、日本の文化予算は、イギリスやフランスに比べるとだいぶ少ない。ドイツやアメリカにおいては、国の予算は、日本と同じくらいかそれより低いかだが、ドイツは文化関係費を州や市町村に多額の金を援助してもらっている。アメリカも民間からの寄附等を奨励するための税制優遇措置等があり、芸術文化活動を十分やっていける環境ができている。日本の場合は、文化庁が主に文化関係の予算を援助しており、地方自治体は、もともと国からの交付金に頼っているので、文化活動に支出の大半をおくことはできない。よって、日本は、もともと予算措置がないわけである。しかし、現在の日本は、人々の生活は豊かになり、ほしいものはどこにでも手に入るような時代である。豊かになったせいか、昔では考えられなかった残酷な事件なども発生している。これからの日本は、物の開発や、経済成長ばかりにこだわるのではなく、人々の心を癒してくれるような芸術活動が重要になってくるのではないかと考える。そのためにも、国は、形だけの方針を作らずに、もっと具体化した制度を細かく作るべきだと考える。山口(Yamaguchi)でも、芸術文化活動をしている方々は、大勢いらっしゃる。この授業でも、山口(Yamaguchi)で活躍されているアーティストの方々の話が聴けてとても勉強になったと思う。芸術とは、一つの作品が、人々の心を動かしたり、考えさせたりするとても不思議で魅力的なものだと思う。山口(Yamaguchi)でも芸術文化に触れる機会はたくさんあるので、いろんなところへ出かけていろんな作品を鑑賞したいと思う。そして、アーティストの方々や、NPO活動されている方々が、もっと芸術文化活動をできるように、国や地方公共団体は、そういった環境作りに努力してほしいと思う。

 

6.山口(Yamaguchi)の現代芸術について

 今回「芸術・文化振興NPO活動の今−エジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi2004」の講義やシンポジウムで様々な方の芸術活動や、Patrick Geddesに関する話を聞き、普段話さないようなことがいろいろ学べました。私は今まであまり現代芸術とかNP

O活動とかよく知らなかったし、いい機会になったと思う。 私は第8・9回の山口(Yamaguchi)のアーティストの方々の話がとても溝化に感じられておもしろかった。現代芸術というと何だかいまいち理解しにくくてさけてしまいがちだったけど、山口(Yamaguchi)のアーティストの方々の活動を聞くと、山口(Yamaguchi)という土地ならではの萩焼の茶碗とか瑠璃光寺を舞台にした参加型プロジェクトなど地域の特色を生かした芸術活動をされていてとてもわかりやすく山口(Yamaguchi)県らしさが出ていて良いと思いました。特に原井さんの「茶碗の会」の話では、周辺の人との交流を芸術活動の一部なのだと思ったし、アーティストはただ作品を作って展覧会に出すだけじゃないのだと感じました。このときの講義で、活動のための収入に関する質問があって、芸術活動を行っていくには、もっと国とか地方自治体からの支援が必要だし、芸術文化振興法はまだまだこういったアーティストの方々の生活に根ざしたものになっていないと分かりました。私はこの講義で初めて芸術文化振興法について知りましたが、この法律ができて何か変わったことは?という質問で、アーティストの方々は特に変化はなく、これからに期待したいとおっしゃら

れました。この時、この法律は名ばかりで実がないと感じました。藤川先生が講義の時にも振興法は不完全であるとおっしゃられましたが、実際に活動されているアーティストの方々の生の声が聞けて興味深いものでした。

 このたびは今まで知らなかったことを知る機会がもてたし、普段話ができないような方とも交流できて良い経験になりました。Patrick Geddes150年ということでしたが、Geddesの思想は難しすぎて結局理解しきれなかったから、来年度の講義ではもう少し授業構成を整理した方が良いと思いました。実際に学外の方を呼んで話を聞くのは現在の芸術活動にたずさわる人の声や活動内容、これからの課題を知る上でもよい経験になるので、どんどんいろんな方がいらっしゃると楽しいと思いました。この講義を機会に芸術活動に参加してみようと思いました。

 

7.文化法と芸術復興(授業感想・意見)

 この授業の一番最後のシンポジウムで、私は文化法に対して「対象としている範囲が分からない。大衆を対象としているならば、芸術は現代文化の中にどのように入り込めるのか。」という質問をまとめた。しかし、主観的な意見が少し混ざるが、一般的な大衆、定義するならばランダムで住民票のなかから選ばれた100人のうち約半数以上とでもいうべきか、それだけの人に芸術が普段の生活している文化空間に入り込めるかといえば、答えはNOであると思う。最近のTVなどでもわかるように、現代の文化は「わかりやすさ」というものが非常に重要なことである。大学受験中に読んだ論文(題名は思い出せないが)の中に「漫画を読むこと」について危険視した論文があった。その内容を要約すると、「人間は情報の約7割ほどを視覚によりとらえている。よって漫画は分かりやすいものである。しかし小説や文学を読むことにより起こる想像、創造的なものが欠落しているのではないか。」というものである。後半部分は少し論点が外れているが、前半部分の「分かり易さ」、これは漫画に限らずに最近の文化の特徴ではないだろうか。この授業で教わったゲティスなどの論理がこの分かりやすい文化に入り込めるとは到底思えないのである。

 先ほど大衆のいうものを適当に定義したが、少し不適切であったようにも感じる。100人いれば当然ながら100通りの価値観がある。その共通している部分を取り上げて細分化して大衆と定義づけたが、同時にそこに芸術復興の鍵があるようにも感じる。同じように「芸術にはある程度興味はあるけど触りが・・・」といった具合に考えている人も100人いれば少なくとも10人ほどはいると思う。そういう人達に興味を持たすことができれば芸術は一層一般に浸透すると思う。

 そもそも私はこの質問を出した時に、前提から間違っていたように思える。現代文化といえども当然日本全国民が持っているわけではない。たまたま受け入れる人数が多かったためにそのように錯角したものとも思える。結局私は何が言いたいかというと、興味を持ってもらえる人たちに、より芸術というものを知ってもらう、ということが大切である、ということである。色々と難しいことを考えてみたりしたが結局私は一番単純で当たり前の考え方に落ち着いたように思う。

 最後にこの授業の感想を述べさせてもらいますと、いろいろ難しい理論などもありましたが、実際に作品をみたりなど非常に興味深いものが数多くありまして、楽しく受講させていただきました。ありがとうございました。

 

8.授業全体を振り返って

 私はこの授業を受けて、山口(Yamaguchi)でこんなにも盛んに芸術に関する活動が行われていることを知り驚きました。まず、最初の授業で、YICAによる山口(Yamaguchi)でのNPO活動についてや、「山口(Yamaguchi)・まち・大学」をテーマにした活動、この授業のテーマでもある「山口(Yamaguchi)〜エジンバラ(Edinburgh)」の活動などが行われていることを知り、また、国内外を問わず多くのアーティストが山口(Yamaguchi)を好んで山口(Yamaguchi)で活動をしていることを聞いて驚きました。また、あと何回かの授業でもっと具体的な、秋吉台国際芸術村の活動の話や、実際に山口(Yamaguchi)で活動しているアーティストの話を聞いて、自分が考えていた「芸術」とは違った活動をしていたアーティストなどもいておもしろいと思いました。

 Patrick Geddesについては、奥津先生が話された「生の図式」は、私にとっては少し難しすぎてあまり理解することができませんでした。最後のシンポジウムのときに聞きたいなと思ったのですが欠席されたので残念でした。安藤先生の講義では、Patrick Geddesの「都市の発展」について話され、教育とまちづくりをテーマに、学校の中に公園をつくるという発想が芸術家らしいなと思いました。

 エジンバラ(Edinburgh)の町については、貞方先生の講義のスライドで初めて見たのですが、芸術的な建物が多く残されており、とてもきれいな町だなと思いました。私のイメージするヨーロッパの町並みと重なる部分などもあり、そこがまたおもしろいと感じました。最後にこの授業を受けて考えたことは、普段私たちがこのような授業を受けずに、普通に生活していたら、なかなか芸術というものに触れることも少なく、山口(Yamaguchi)でさまざまな芸術活動が行われていることを知らずに山口(Yamaguchi)に暮らしていたのかなと思いました。ですので、この授業を受講して、芸術に触れられてよかったし、芸術に関して少し興味が持てました。これからも同じような授業を開講して、芸術に関心を持つ人が増えればいいと思うし、また、こんなにも盛んに山口(Yamaguchi)で芸術活動が行われていることを、何らかのかたちで一般の人に知らせることができれば、少しでも興味のある人にとっては芸術に触れられるいいチャンスになると思いました。とにかく、あまり触れることのない芸術の授業は、私にとって新鮮な感じがして、おもしろく授業を聞くことができました。

 

9.エジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi)そして都市のあり方について

 私はこの講義のガイダンスに参加したとき、とてもわくわくしました。というのも、芸術に関連した出し物を、毎回違った形で紹介されるという風に受け取ったからです。実際、「山口(Yamaguchi)・エジンバラ(Edinburgh)」に関連したアーティストや先生方が次々と自分のテーマに応じて講義を演出するのですから、講義というよりある種のショーでした。しかしPatrick Geddesを始め、納得するのに根気のいるテーマが多く、ほとんど睡魔とのバトルでした。それでもこれらの過程を経て私の頭に残った結論をいくつか書こうと思います。まずはじめにもっとも難解だったPatrick Geddesについてですが、講義序盤にあった奥津先生の話は全く理解できませんでした。しかし12月に行われた安藤聡彦先生の講義を聞いて何となくイメージが描けるようになりました。つまり、Geddesは機械化・近代化により失われつつある人間のあるべき姿を取り戻すために追求した結果、都市や環境を改善することに行き着いたのです。都市の中でも教会・公園・学校・物やサービスの流れにこだわり、それらに沿うことで豊か生き方ができるというサイクルを思考し、「生の図式」と命名したのです。しかし問題点もあり、頭だけの空論に陥りやすく、当時の英国植民地に対する狭視的見解も指摘されています。確かに「都市計画」は国家や地方自治体の力を借りなければ成立しません。けれどもその「都市」を構成するする人々の自発的参加もなければ成立しないのです。ヨーロッパの都市を見ると、整然と区画された景観にいつも驚かされます。山口(Yamaguchi)とエジンバラ(Edinburgh)を比較しても、どうしてかエジンバラ(Edinburgh)の方がすごいと思ってしまうのです。Geddesの思想が特異だったとは私は思いません。「都市作り」に精力的だった行政と構成員の連結 ,@w$_$D$$$?IwEZ$NCf$+$i$4$/<+A3$K8=$l た結果なのだと思います。そうかといって山口(Yamaguchi)もエジンバラ(Edinburgh)を見習ってまねするべきだとも思いません。ただ、地方自治体都市民の関係についてGeddesに挙げられた問題点は、ここ山口(Yamaguchi)にも当てはまる気がします。人々は自分のたちの生活空間を自分たちの手で変えられるとはほとんど思っていません。私も現在の日本は直接民主制でないので不可能だと思います。しかし伝統建築の取り壊しに反対する市民団体や、萩・津和野のように伝統的の町並みを地域ぐるみで守っていこうとする動きが日本各地で見られます。しかしそれらは総じて観光客集めの一計にすぎない気がします。そうではなく、私たちが日常暮らしている空間をどうするのかということが大切だと思います。私は市民が集まって民主主義的に決めるよりも、誰か強力なリーダーに一貫した計画でもって強引に推し進めさせ

る方がいいと思います。リーダーはもちろん民間人で芸術家がいいと思います。様々な人が集まってどの要求も満たそうと努めたら、できあがっても中途半端で現状と大して変わらない上に、税金の無駄遣いと非難されるのが落ちです。

以上で山口(Yamaguchi)・エジンバラ(Edinburgh)を中心とした「都市」について私の考えたことを述べてきたわけですが、講義自体についてはもっとエンターテイメントの要素を増やすべきだと思います。グループ討論とかゲストとの交流方法も、もっと工夫した方がいいと思いました。またみんなで創作活動をするとかしたら新たな講義の方向が開けるかもしれません。

 

10.無題

 まず、この講義のはじめにイギリスにエジンバラ(Edinburgh)という町並みが美しく、文化が優れているまちがあるのだということを知った。講義を聴いていくうちに、Patrick Geddesという人に興味をもったのと同時に、エジンバラ(Edinburgh)にも興味をもった。日本には、エジンバラ(Edinburgh)のような文化の発祥の地はあるのだろうか。なんとなくのイメージとして京都を思い起こす、外国からのイメージでは、日本の伝統的な町並みや寺など珍しい文化があるだろう。しかし、これは私の目だけかもしれないが、どうもエジンバラ(Edinburgh)のそれとは違う気がする。伝統的な町並みや、伝統芸能は確かにあるが、文化の足跡であって功績ではないと思う。うまく伝えることができないが、エジンバラ(Edinburgh)には文化・学術の功績のようなものがあるように、講義のなかで私はイメージした。ぜひエジンバラ(Edinburgh)に足を運んで、この目でみて感じたいと思う。先程、京都でイメージできないといったが、もしかして身近にあると、興味をもっていないと、近くにあってもそれの凄さに気がつかないのではないのどろうか。Geddesの生誕の地・住んでいた所というのも看板はあるが、そこの住人は大して気にしていなかったという話を思い出して、思ったところである。遠い日本という国の大学の講義で取り扱われていることも、その現地の人はあまり気にもしていないとなんとも不思議である。確かに先生方もGeddesを取り上げて講義にするというのは、珍しいとおっしゃっていたが、他の国では日本の私たちが知らない人物が調査され話題になっているかもしれないし、その人物が私たちの身近に存在しているかもしれない。この講義では、そんな芸術の不思議さ、ひいては視野の大切さといった人生の考え方も学べたきがする。これからは、さまざまな芸術特に現代芸術には関心をよせてみていきたい。

 この講義で一番おもしろかったのは、「山口(Yamaguchi)のアーティストたちU」で行われた、堀家先生のozu styleである。映画をあのような視角や表現でとらえることによって、見えてくるもの、感じるものがこうまで違うのかと驚愕した。新しい芸術とはあのようにして産まれてくるものなのかもしれない。また、映画の映像だけでなく、音なども使っていくとおもしろいのではないだろうか。素人が勝手に言っているだけだが、しかし私のなかでこんなふうにも考えたことも今までなかったのである。それだけで、芸術の楽しさ、自由な発想の仕方を学べた証拠になっていると思う。またこのような講義が開講されるのであれば、ぜひ受講したいと思います。面白い講義をありがとうございました。最後に、シンポジウに就職活動のため参加できなかったことを残念におもうのと同時に申し訳ありませんでした。

 

11.無題 

 Patrick Geddesは、生物学者、地理学者、社会学者、都市計画学者として知られており、またGeddesは、従来の伝記的研究の中とはひとあじ違う「環境教育の父」としての顔も持っている。その一面として、都市学の古典的な著作とされる『進化する都市』(1915)にいたるまでの研究歴をこの観点で整理すると、Geddesの在来の伝記的研究とは異なる人物像がえがきだされ、エジンバラ(Edinburgh)を一つの源流とする地域研究の中に環境教育の始原がみられるのである。また、『都市の文化』(1938)の著者、マンフォードが、Geddesを唯一の師としたことへも強い関心がある。マンフォードの都市計画論はひろく知られていおり、その特徴である都市の発展の歴史的解明と、都市形成の主体たる市民の自己確立という視点は、マンフォードによれば、師であるGeddesの教えに導かれた結果であった。Geddesはそこに成人教育の可能性をみた。なぜ諸科学に通じたGeddesが、成人の学習に注目し、大きな期待を寄せ、自らたずさわったのかと、非情に興味をもった。このような環境教育への関心は、国際的にも国内的にも1960年代半ばに発するのであるが、そのほぼ60年前に、Geddesは諸科学の総合としての<都市学>や<郷土教育>の中に、環境教育への志向をみいだしていた。本授業では、このように非常に優秀であるGeddesと関わりの深いエジンバラ(Edinburgh)と山口(Yamaguchi)を研究していたが、さらにより詳しく比較をし・・(文字化け)・・。

 

12.芸術とは。そして現代芸術へと

  最初にこの授業をなぜ受けるように決めたきっかけは、芸術についてすごく気になっている時期であり、またエジンバラ(Edinburgh)って何だろというところが気になり、ちょうど英語(外国)に興味をかなり持っていたので、そこから何か得られるものがあればいいなあという気持ちであった。受けてみてエジンバラ(Edinburgh)という名自体はすぐにわかったけれど、そこから連携してでてきたPatrick Geddesの考えや生の図式は未だにわからないもののままである。英語圏にはかなり興味があるので、エジンバラ(Edinburgh)にいって生でエジンバラ(Edinburgh)の芸術家にGeddesのことを聞いたり、世間の人などにGeddesについてどう思っているかを聞いてみたいと思った。実際私が逆の立場になったとしたら、近隣の芸術家について聞かれても知らないというのが率直な意見である。(Geddesはその程度じゃないと思うが一応。)受けるうちにそういうことからどんどん気になってきたのが現代芸術についてである。身近でわかりやすく山口(Yamaguchi)の現代芸術のアーティストとかもでてきて興味を持った。こんな近くにもこういうことをしている人がいるのだなあとちょっと不思議に思ったし、何でこんなことをはじめたのだろうという疑問も大きいものであった。芸術と聞いて思出すものは美術のピカソやミケランジェロのような有名なよいと言われる画家たちである。そのほかいろいろな芸術があるが、いろいろなものを考えていると何が芸術で何が芸術でないのかというところも考えてしまう。その中でも現代芸術は特にそういう感を思わせるような作品が多い。これを作品にしたら何でも作品じゃんと思うようなものが多い。例えば、堀家さんのOZUstyleは実際私も好きだし斬新な感じに見えるかもしれないが、あれは私が高校のころ違う映画で同様のことをしたことがある。そんな感じに芸術なんて適当に思いつくことが全部芸術なのかと疑ってしまう。それを考えていくうえで重要だと思うことは、芸術に携わっている人がなぜ芸術と一緒に人生を生きていくことにしたのか、それぞれ理由は違うものだろうけど、このことを総合的に解明することが芸術の意義につながるような気がする。この授業で後悔していることがここである。山口(Yamaguchi)の現代芸術家がきたときにこれを聞いておけばよかったなと思う。今までは芸術施設を知らないからふれあいこともないという感じであったが、今では授業で様々な芸術施設を知っていったので、知りたいと思ったときに自分の足でいき、知ることができる。この授業を受けて、近隣にそういう施設があることが幸福なことだと思ったので、YCAMはよくいくのだが、ほかの施設は使っていないので、ほかの施設も使っていって芸術について少しでも知識を増やし、何か得ていこうと思った。

 

13.無題     

 私がこの授業を受けてもっとも印象に残っているのが、この「エジンバラ(Edinburgh)と山口(Yamaguchi)の環境比較」の講義でした。正直な話、私はこの授業を受けるまでは「エジンバラ(Edinburgh)」という場所がどのようなところかわかりませんでした。イメージすら曖昧な感じでした。しかし、この講義で「エジンバラ(Edinburgh)」という場所が英国の北にあり、とても美しく、神秘的な場所であることを知りました。あこがれというものを感じさせるような場所であるなと思いました。その美しくて神秘的な「エジンバラ(Edinburgh)」と「山口(Yamaguchi)」を比較しあうことで、新たな「山口(Yamaguchi)」を発見できたと私は確信しています。お互いが共通している点ではこの「山口(Yamaguchi)」にも美しくて神秘的な場所があるんだなと、また異なる点について言えば「山口(Yamaguchi)」独自の良さみたいなものに気づけました。「山口(Yamaguchi)」には自然がたくさんあって、こころが癒され和むような場所が数多くあります。また、歴史的な建造物もたくさんあり、古きよき時代を象徴するものとなっています。「エジンバラ(Edinburgh)」にお互いを比較させあうことにとても興味を持ちました。そして、おもしろいと感じました。この講義では、お互いを環境という面からしか比較しあわなかったので、もしこの講義を再びやるのであれば様々な面から、この「エジンバラ(Edinburgh)」と「山口(Yamaguchi)」を比較してもらいたいと思います。地理的な面や歴史的背景、また芸術の面など比較しあうところはたくさんあると思います。違った面でこの「エジンバラ(Edinburgh)」と「山口(Yamaguchi)」を比較することで、また新たな一面を発見できると思います。そうすれば、ますます魅力を感じていくと思います。いつかはお互いの人同士で交流を深めて、異文化を知り触れることもおもしろい企画ではないかと思います。一番相手を知るには互いに触れ合うことが一番だと私は思います。そして、「エジンバラ(Edinburgh)」の人たちにもこの「山口(Yamaguchi)」の良さというものをたくさん知ってもらいたいです。理解して欲しいです。この講義をきっかけに互いの文化を知り、相手を理解することができれば・・(文字化け)・・。

 

14.無題

 僕は大学に入って演劇という分野に足を踏み入れました。それまで僕は芸術らしい芸術には何の関心もなく中学、高校とスポーツばっかりやっていました。人間とは都合がいいもので、僕は演劇に興味があったからこの授業を受講しました。エジンバラ(Edinburgh)、パドリック・Geddesと聞きなれない言葉や意味の分からない文字の配列に最初は戸惑いはあったものの次第に授業に意味と内容に理解し納得したのはほとんど後半に入ってからでした。

 最後の授業を受けて、今山口(Yamaguchi)にはYCAMという身近に芸術や文化に触れる機会があるにもかかわらず実際はたいしてそこまで関心が高いわけではないんだなと感じたのはバイトの人たちの言葉からでした。演劇をやっている仲間や先輩とはだいたい毎日に近い頻度でYCAMの話題が挙がり、公演の話をしたりします。しかしバイト先では演劇をやっている人はもとより、芸術関係に触れている人さえもほとんどいなく、YCAMがオープンしたときに山口(Yamaguchi)の夜空を輝かせていたあの光の芸術でさえ、友人からすればどっかのパチンコからでてきた光かなんかだ、といわれました。確かにバイト先には大学生もいればフリーターもいます。いま生きるのが精一杯の人には確かに芸術なんてどうでもいいものなのかもしれないと思います。生きていくうえで別に必ずしも必要なものではないとも思います。でも、こんな不景気だからこそ心の中を豊かにすることが必要なきがします。だから、もっともっとYCAMが山口(Yamaguchi)県民にとって身近になるように現代芸術と県民の交流が必要なんだと思います。

 あともう一点思ったことはいまの時代、何かで成功したいとかやりたいとかですぐに上京する人が増え、地方では過疎化が起こっています。正直自分も役者としてもっといろんなことをやってみたいと思い、上京する道も考えていました。しかし、Geddesがどこかの大きな都市ではなくてエジンバラ(Edinburgh)でその芸術をやり、後に世界にまでこうして伝わっている現状をまじまじと感じ、場所なんて本当はどこでも関係なんてまったくなくて肝心なのは自分がやりたいことが十分に自分自身でわかっているかなんだなと、それさえ分かっていれば場所なんてたとえ地方の小さな所だってみんなには受け入れられるときは来るんだ。と思いました。この授業を受講して、演劇だけにとどまらずもっと多方面の文化、芸術にふれてみたいと思いました。

 

15.Geddesの考えによるエジンバラ(Edinburgh)と山口(Yamaguchi

私はこの授業でPatrick Geddesが考えたことの一部分しかわかりませんでしたが、このPatrick Geddesを理解する上でまずエジンバラ(Edinburgh)という都市がどのような場所であり家はどんな構造であるなどを正しく理解することが重要だと考えました。エジンバラ(Edinburgh)がどのような地形になっていてそしてPatrick Geddesはどんなことを考えながらアウトルックタワーを建てたのかを考えると、アウトルックタワーというのはエジンバラ(Edinburgh)の市民の方々に上からエジンバラ(Edinburgh)の町の姿をみてもらいこのような問題があるなどと説明したり都市計画をたてたり教育の場として活用していました。また当時は古くなった建物をすぐにくずして建て直してしまおうという発想が一般的でしたが、Geddesのは取り壊すということに疑問を抱いていて、その疑問とはその都市の歴史や文化が失われていくということでした。ラムゼイ・ガーデンという住宅は、Patrick Geddesが自ら買い取って、取り壊さずに改修した代表的な建物として今でも使われています。Patrick Geddesの思想は、その後の都市計画の研究者に大きな影響を与えています。特に微視的な視点で街をみるのではなく、環境や生物といった幅広い「地域」の視点で都市を考えるということは、イギリスのみならず世界中の都市計画の思想に今でもつかわれていると思われます。

Patrick Geddesは最初は世の中の人々にまったく認められていないと聞きました。また専門は地理学などではなくて生物であると聞きました。私は専門が生物であるのに都市計画を行ったり周りから非難をあびながらも自分の考えを最期まで通したPatrick Geddesにすごみを感じました。Patrick Geddesの考えは古い建物でも修復するということでしたが、山口(Yamaguchi)でもそれを取り入れていって歴史を大事にしていくことがよいのではないかと考えました。山口(Yamaguchi)にもさまざまなアーティストや芸術家の方々がいらっしゃいますが、芸術もやがては歴史になりうるとわたしは考えます。最近では近代化がするみコンピュータをつかったものがほとんどですが、陶芸などの芸術も大切にすべきだと思いました。

 

16.本授業に対する改善案と批判

 まず受講する前に授業名に「芸術」という文字を見て 何かの作品などを見たりするものだと思っていました。 でも、いざ授業が始まってみると、ものすごく専門的な話でした。 この授業に対して、まずやめたほうがいいと思ったことが、 いきなりはじめから専門的な話ばかりすることです。 何の知識もないヒトに専門的な話を活字プリントと会話だけで行っても、 理解するのはまず難しいし、かつすごく眠くなると思います。

  私はこの授業を通して山口(Yamaguchi)の芸術に少しでも関心を持ってく れるヒトが増えたり、何かの芸術活動に参加への意欲を促すきっかけだと 思っています。 なのに難しい授業をはじめから行って関心をなくすような授業方法はどうかと思います。

  せっかく芸術にはどんな生徒でもほとんど興味をわかせる 「写真、絵画、創作品」などといった武器があるのに 前半の授業ではほとんど使われていませんでした。 難しい話でも視覚的な要素をちりばめながら行えば、 授業への関心も全然違うと思います。 次にいけないと思った点は最初から難しい授業をするという点です。 これは共通教育の授業なので、生徒も興味がある授業を選択しているのに、 冒頭から難しいと、「この授業は難しいなあ」とか「かったるい授業だなあ」 というイメージがついてしまうと思います。中盤からは視覚的要素とかを取り入れた授業を展開していましたが、 結構寝ている生徒が多く見られました。 これは私も感じたことなのですが、たぶん寝ている多くの生徒が最初の授業のイメージからこの授業を「かったるい授業」と認識してしまっていると思います。人間関係もそうだと思うのですが、 はじめのイメージを覆すのはなかなか難しいことです。 また気持ちの持ちようによってやる気や授業への真剣さは 必ず比例されると思います。だから今度行うときは、 最初は芸術ならではの武器を使って生徒の心をつかむほうがい いと思います。 最後に悪いというより説明不足だったと思う点があります。 NPOについてあまりに説明がなかったように思われます。 私は半年ほどNPO法人のある起業のもとでボランティアをしていました。 だからNPOについてはある程度知っていましたが、 私の友達はまったく知ってないヒトしかいませんでした。 でもほとんどGeddesや作品のことばかりで少しがっかりしました。 授業名にも大々的に載せている以上、 ある程度NPO中心の授業もあってもいいと思いました。 もしできないなら「現代山口(Yamaguchi)芸術活動とPatrick Geddes 関係」とか 言う授業名に変えたほうがいいと思いました。

 

17:eutopia

 私はPatrick Geddesの夢見た「地域共同に基づく洗練された環境に優しいテクノロジーを使用する社会」、すなわちeutopiaと、町あるいは都市自体を大学にするという学園都市の構想を重ね合わせてイメージしている。あるいはGeddeseutopiaへの一つの解答であると。おそらく「無原則の競争に基づく野蛮な機械化された資本主義社会(旧=機械的世界)」からeutopia(新=機械的世界)へと移行するには、地域共同という言葉が一つの大きな鍵になるだろうと考えられる。我々を構成し、規定している国家というユニットはあまりに巨大過ぎるのではないだろうか。あまりに一般化され過ぎ、本来認められるべき優しい(あえてこの言葉を使うが)多様性が軽んじられ過ぎているのではないだろうか。つまり実益が多様性に先行し、有り得べき価値観を資本主義的な原理に従って淘汰しているのではないだろうか。

 学園都市というものが一つの基本的なユニットとなり、さらに各学園都市がネットワーク(電子的なものと、さらに人間同士の有機的なつながりを併せたもの)でつながっていく、これが私の持つ、学園都市=eutopiaのイメージである。電子的な意味でのネットワークによって、各都市が空間的距離を超えて、たとえばエジンバラ(Edinburgh)と山口(Yamaguchi)のように、結びついていくのではないだろうか。ただ、現状のままでは、たとえ都市を学園化したとしても、それが実利実益ばかりを求めるのではないだろうかという懸念がある。いくらeutopiaに本来的な意義があったとしても、たとえば単なる巨大な英会話教室のようなものになってしまっては、あまりにも味気ないと思う。学園都市というものに参加(不参加)し、学ぶものを取捨選択していく機会を増やすことに無条件に賛成するとしても、学ぶこと自体を他者が選び、決めつけてしまうことは気持ちの悪いことではなかろうか。そこには今現在認められないような「優しい多様性」が含まれているべきである。

 つまりこのeutopiaはやはり実益を、資本主義的な競争を超えたものとして実現されなければならず、またその本来の意義に反するものであると私は考える。

 

18.山口(Yamaguchi)の芸術活動について

 山口(Yamaguchi)情報芸術センター、通称YCAMが出来て、およそ三か月が経過した。今後の山口(Yamaguchi)の現代芸術活動の拠点のひとつとして、私たちはこの施設とどうつき合っていくべきなのだろうか。また、山口(Yamaguchi)のこれからの芸術活動について、どう取り組んでゆけばよいのか。これまでの授業の中で私は、山口(Yamaguchi)のたくさんの芸術活動について話を聞いた。その中で特に興味深かったことは、ひとつは秋吉台国際芸術村の「アーティスト・イン・レジデンス」である。これは「作家と地域」「作家同士」「作家と施設」等のコラボレーションの中で、アーティストが作品を制作するという活動である。秋吉台が、世界でも有名な山口(Yamaguchi)有数の観光地であることや、多くの自然が残った静かな土地であることは、作品を制作するアーティストにとっても、山口(Yamaguchi)という土地にとっても、有益なことだと思った。他に、山口(Yamaguchi)を活動拠点としているアーティストのお話も非常に興味深かった。そのひとつは松尾宋慶さんの、瑠璃光寺五重塔を青く(瑠璃色に)光らせる、という「青い殿様プロジェクト」である。国の重要文化財である五重塔もまた、秋吉台と同じように、山口(Yamaguchi)の大切な文化遺産であり、地域の人にとって大切な宝である。そんな五重塔を使って芸術活動を行う中で、アーティストと地域の人々の間で交流が生まれるのはとてもよいことだ。また、YCAMに展示された堀家先生のOzu Styleもおもしろいと思った。先生の作品は、小津安二郎の作品をショットに分解し、つなぎ合わせた映像作品であったが、私が特におもしろいと思ったのはその展示方法である。YCAMの展示スペースの廊下に沿ってスクリーンを設置することによって、廊下の先にスクリーンの中の部屋があるように見せたり、隣で展示中の作品と、Ozu Styleとのコラボレーションによって新しい芸術空間が形成されたりという、情報芸術センターならではの展示がなされていた。以上のように、アーティストが山口(Yamaguchi)という土地や、そこにある建物から得たイメージを元に芸術活動を行うことは、山口(Yamaguchi)市民冥利に尽き、とても嬉しいことである。しかし私は、これからの芸術活動は、アーティストから鑑賞者へと一方的に行われるだけでなく、普段は鑑賞者側に立つ山口(Yamaguchi)市民が、芸術活動を行う側に立つ機会を増やす方向で進めるべきだ思う。そのきっかけのひとつとして、YCAMを利用していくべきなのではないだろうか。この活動は実際

行われていて、市民参加型のダンス発表会や、山口(Yamaguchi)出身の舞台芸術家を招待してのワークショップなどである。今後とも、こういった活動をどんどん増やし、芸術活動をより身近にしていく活動を続けていってほしいと思う。

 

19.『時代を映し出す芸術』

 私は、芸術について様々な講義を受けて現代に様々なモノがあり、興味あるモノが多くなったからこそ今までになかった芸術があるのだと思いました。それは、第八回授業の「山口(Yamaguchi)のアーティストたち」の中で「茶碗の会」や「青い殿様プロジェクト」等をされる人が居られました。私は、この芸術は現代だからこそおもしろいと思う人がいるのであって昔であったら意味をなさなかったと思います。堀家先生の小津監督の作品をショットごとに分けそれを組み合わせることに芸術を見出すという考えは、映画というものが出来たからこそできる芸術であって映画、ビデオのない時代には、この芸術も生まれないはずです。私が考えることは、芸術とは進化するというより時代によって違う芸術が生まれるのだと思います。単に、昔の芸術は、今と違った時代の中で生まれたため時が経ち価値があるように感じるのだと思います。芸術とは、時代を映し出す鏡のような存在であり、その時その時に価値があるため昔の芸術を見習うべき必要はないように感じます。

 ただ、昔の芸術をなくさないように保護することは必要です。前にも述べたように芸術は、時代を映し出すものと捉えた場合、過去の時代を知るためにも第七回授業、貞方先生が講義されたエジンバラ(Edinburgh)の環境のように保護していく必要があるのです。それと、なぜ現代に様々なアーティストがいるのに失敗している人と成功している人がいるのか考えた時、やはり

時代に合っていなかった人は失敗し合っている人は成功すると思います。大体、芸術とは何が良くて何が悪いのか本当に決めることが出来るのでしょうか。色使いが良いから・綺麗だから・うまく描写しているからといって成功するとは限らないのです。ただ、その時代の多くの人々がイイと感じたから成功するのであってどんなに、少数の人がイイと感じても多くの人によくないと思われてしまえば失敗してしまうのです。しかし、芸術は時代を映し出すものです。多くの人に理解されたことによって成功した・理解されなかったから失敗したとしても、その時代に生きて興味があると思って取り組んだ芸術はその時代でしか生まれない芸術ではないでしょうか。

 最後に、この講義をうけて様々なアーティストがいることを知りました。やはり、皆さんこの時代でしか生まれない芸術活動をされているように感じました。私には、あまり理解できない芸術もありましたが、その良し悪しは区別することは出来ないのです。それと、エジンバラ(Edinburgh)の講義を受けて、エジンバラ(Edinburgh)の町並みのように街そのものが芸術というようなところに行って過去の時代に触れてみるのもすばらしいと思いました。

 

20.この授業を受けて

 自分は、この授業で大きく取り上げられた「Patrick Geddes」について、あまり良く理解することができていません。それどころか、何週か前の授業まではまだGeddesは生きていると思ってたほどです。これは自分が授業の大事な部分を聞き逃していたから悪いのですが、それにしてもGeddesの行ったことがわかりにくいと思いました。はじめのほうでGeddesの生の図式と言うのを説明されましたがそれだけではなく、そのGeddesの生の図式がどういう風に現代芸術と係わっているのかも説明されたほうがよりわかりやすくなると思うし、生の図式自体がわからない人でもGeddesについて少しわかるようになるのではないかと思いました。山口(Yamaguchi)で活動されてるアーティストの方がきて話をしていただいたとき、多くの方がGeddesの名前を出していたのでやはり多くのアーティストに影響しているのだと実感しました。なのでGeddesのどんな部分が現代の芸術家に影響してるのかをわかればまたGeddesについて理解できるとも思います。

 自分にとって山口(Yamaguchi)で活動されてるアーティストの方の話が一番この授業の中で魅力的で、自分なりに面白い人を見つけて楽しんでいました。この話から山口(Yamaguchi)内で行われている芸術活動について興味が出てそれを知りたいと思うようになりました。山口(Yamaguchi)にも総合芸術センターというのができ、やろうと思えば芸術活動にふれやすくなったと思います。この授業で山口(Yamaguchi)市内での芸術活動について紹介してもらえば、自分が面白いと思ったものなら参加したいと考えてうごくとおもいます。また自分は山口(Yamaguchi)で活動されてるアーティストの方で、原井さんの茶碗を使った作品にたいへん関心があります。また機会があれば原井さんの作品を見たいと考えています。もちろん原井さん以外の方の作品も機会があれば見たいです。自分はこの授業で今まで考えたこともなかった山口(Yamaguchi)内の芸術活動に関心を持つようになり、このことはこの授業を受けて一番良かったことだと思います。

 

21.無題

 山口(Yamaguchi)県におけるNPO活動について思ったことで、山口(Yamaguchi)に自分が思った以上の多くのアーティストが存在していて驚いています。そして、嶋田さんによるYCAMの活動の一部を紹介してもらい、また、その活動を山口(Yamaguchi)情報芸術センターなど山口(Yamaguchi)市などが積極的に協力していて、町をあげて芸術に力を入れている町は、そう多くはないので山口(Yamaguchi)は芸術の町であると思った。また、秋吉台国際芸術村で国内外から様々なアーティストが2ヶ月間滞在して制作する「アーティスト・イン・レジデンス」の活動は、分野の異なるアーティスト同士のコラボレーションなど一つの地域に集まらないと制作・発表できない

ことが実現されていることに驚きました。そこで「アーティスト・イン・レジデンス」の活動がアーティストにアイディアの交換や共感、思想などに、一緒にならないと感じることのない、どれほどの変化をもたらしたのか、もっと多く講義

の中で紹介してほしかった。

 興味が一番にもてたのはエジンバラ(Edinburgh)で、エジンバラ(Edinburgh)は旧市街地・新市街地が世界文化遺産に登録され、そしてスコットランドの文化・芸術の中心で、多くの由緒ある建築物が存在していて興味が湧いてきました。3月からウィーンに行くので機会があったら観光してみたいです。Patrick Geddesの活動した時代のエジンバラ(Edinburgh)の様子や、Patrick Geddesの設計した建築物など紹介され、そして、Patrick Geddesの人物像を講義中や埼玉大の安藤さんに紹介してもらい、Patrick Geddesの様々な活動や視点を変えることによる人物像の変化などが面白いと感じた。最初のころはPatrick Geddesがどんな人物なのか全然思い浮かばなかったが、最後くらいになると少しは思い浮かぶようになった。

 講義全体を通して文化・芸術活動について考えたことは、現代では昔のように一人のアーティストが活動を広めていくことは分野の多さなどで困難になったので、地域規模で支援し活動していくようにならないといけなくなったのではと思った。もちろん一人のアーティストが活動を広めることは不可能ではないと思う。

 

22.文化芸術振興基本法と地方自治体による芸術文化振興政策

平成13年12月、文化芸術振興基本法が公布・施行された。その前文には、文化や芸術が今後のわが国にとって重要な役割を担うということ、現状では文化芸術がその役割を果たすことができるような基盤の整備ができていないということ、そしてこのような事態に対して国は文化芸術の振興を図るために包括的な施策を推進していくことを明示している。その上で国は5つの政策目標を立てている。文化基盤の整備、芸術活動の奨励・援助、国民の文化への参加と享受の機会の拡充、文化財の保存と活用、文化の国際交流の推進である。これらの目標の中で、「文化の頂点の伸長」を目指す、芸術活動の奨励・援助という政策目標に関する政策の不備が指摘される。このような背景には、戦時中、国家が芸術家たちを弾圧・統制してきたという苦い歴史観が、行政側にも、国民の間にも、強く根付いていることがわかる。しかしながら、過去の過ちに縛られ、国家権力を極力排除しようとするシステムは時代遅れであり、また行政の怠慢である。芸術文化振興という政策に関しても福祉国家として何かしらの行動を起こすべきなのである。かといって、戦時中の文化統制を復活させてはならないことは明白である。では、福祉国家としての積極的なアプローチを採りつつも、文化統制を復活させない政策を行なうにはどうしたらよいか。日本と同様、文化統制という苦い歴史を持つドイツの文化政策に興味を持ち、ドイツの公共劇場の運営状況から、わが国の文化政策のあり方を摸索してみる。

ドイツ国憲法にあたる基本法では、連邦政府が文化に直接介入することを禁じているが、これはナチス政権下において国家が文化統制政策を強行したことへの反省にもとづいている。代わって基本法では、文化に関する規定と権限が、州および市町村に属していることを明かにしている。これを「文化高権(Kulturhoheit)」と呼び、この権利規定のもとで、国家権力による文化の一元的統制が回避され、各地域社会に固有の、多様な文化活動が保証・促進されてきたのである。そして現在のドイツ人は、国家のステータス劇場ではなく、それぞれの地方劇場にこそ「誇り」をもっている。彼らは、州立劇場や市立劇場の活動をとおして、「文化高権」が地域社会に真に根付いていること、芸術文化活動が国家権力から自由であることを、日々実 6$7$F$$(文字化け)$k$h$&$K8+<U$1$I$L$K!#私はドイツの文化政策の実態を踏まえ、わが国の「地方自治体における文化芸術振興」の有効性を見出すに至った。たしかにわが国でもまちづくりの一環として文化振興政策を積極的に行なっている自治体は数多く存在する。しかしながら、現状では多くの問題が残されているということは否めない。地方自治体が文化政策を行っていく上で、問題として挙げられる点は、自治体の規模・特性という観点から、二重行政の弊害を起こさないための市町村と県の連携の必要性があげられる。法制度の観点から、自治体によっては文化振興に関する条例を定めていない場合があり、その場合には自治体の裁量によって文化行政が行なわれているという状態に対する懸念がある。また、文化評議会のような、文化に関して専門的な見地から文化行政に関して提言をするシステムを作る必要性、そして公務員の人事制度の改善が挙げられる。政策目標としての「文化の頂点の伸長」の達成は、文化芸術をいかにして身近なものにしていくかということと直結した問題であるということがわかる。文化芸術を身近なものにしていくには相当な時間がかかると思われるが、行政は、長期的な視野の下でこれら文化政策に取り組まなければならない。同時に、文化振興に価値を見出そうとしない市民にも、文化振興の意義を訴え続け、理解を得る努力も怠ってはならない。

 

23.無題

 芸術文化振興基本法に関する授業の中、振興法は「肥満体で分裂症的な要素をも つ」まだまだ不完全なものであり今後、生活実感をともなうような具体的な措置 をもとめる必要があるとの事でしたが、求めるのは誰に対してなのでしょうか? 法律というものは、民法でも刑法でも普通に生活していくなかでは、法律を意識する事は一般の人は少ないと思います。例え、国がもの凄くできのいい芸術文化振興基本法を作ったとしても国民がそれを気にしなければ何の意味ももってこないと思う。芸術家の人にすれば援助金がでて良いのかも知れないが・・・芸術とか文化は他人に強制されて考える物であってはいけない種類のものであると思うから、生活実感がともなうことを求める事にたいして意味があるとは思えません。 それよりも「ブギ・ウギ・ワンダーランド」や「青の殿様プロジェクト」のように、市民が参加しやすいイベントなんかを開催していいって、市民の理解を徐々に深めていくべきだと思います。次に、この授業の中で面白いと思った事は、エジンバラ(Edinburgh)の町の風景で、日本とは全く違った建築様式、煙突からの煤煙で黒くなってしまった壁、ニュータウンとオールドタウンという町のつくりです。そのほかにも、19世紀の給水システムや水売りの話、窓から汚水を捨てていた当時の様子を絵画や現在の写真とともに紹介してもらったのはおもしろかった。日本でも800年くらいの平安時代では、人々のトイレは道ばただった、という話を聞いた事がある。現在の京都の錦通りと呼ばれる通りが平安京のトイレであったらしい。現在の日本人の感覚から行くと、どちらの行動も異常な行動にしかみえません。そんなところを見ていると、人間の生活というもの進歩は同じような道を歩いてきて現在の姿になっているのだと実感しました。そのほかにも医者の衣装の違いにはびっくりさせられました。それは私たちのイメージする白衣姿ではなく、まるで死神のようにみえました。 このような点を見ると文化の違いというものを感じます。最後にPatrick Geddesについてだが、実際のところやっぱりよくわかりません。いろいろな学問に通じていて、この授業の核となる人物であるということ。わたしの考えでは哲学者のような気がしました。ただその考えの表現の仕方が文字をつかうよりも、生の図式のような視覚的な表現を好んだ人だと思いました。

 

24.無題

 これまで私たちはPatrick Geddesや現代芸術、芸術文化振興法、NPO活動等についてこれまでの講義やシンポジウムで学んできた。シンポジウムでは遠方のエジンバラ(Edinburgh)からわざわざAlan Johnstonさんを招き貴重なお話を聞くこともでき、講義は実りあるものだったように思う。では、これまで学んできたこともふまえ『芸術とは何か?』について少し考えてみたい。この問いについては「シンポジウムに関する受講者の希望・意見」でも同様の問いがいくつかあったように思う。かの有名なパブロ・ピカソはこの問いについてこう述べている。「Art is a lie that makes us realize the truth.」和訳する

と「芸術とは私たちに真実を認識させる嘘である。」とでも訳すのであろうか。私たち凡人にはピカソのこの言葉における本意はわからないが、単に引用したかったので引用してみた。まぁ芸術をつきつめるとそれは現実を映し出すものであるということなのであろう。そもそも芸術や宗教といった類は存在しなくても生理的に人間が死ぬことはない。けれどもそれははるか昔から存在している。そこには何らかの価値とか意義といったものがあるはずだ。しかしだいたい人間の存在だってもともと意味も根拠もないものだ。それは自分自身で意味づけするしかないものではないか。そぅ考えると芸術も自分自身がおのおのに意味づけをおこなえばそれはそれで正しい意味や価値を持つように思われる。芸術とは他者に対して必ずしも価値を持つ必要はないのではないだろうか。芸術家とデザイナーは似ているようにも思われるが異なる。後者は他者に対して評価されることを目的としているが、前者はそうではない。ということは、芸術とは各々のものであって他者が意味づけをするものではないのではないか、他者にとって何の意味を持たなくともそれはそれで芸術足り得るという結論に達してしまった。

  しかしもぅ少し芸術について考えてみたい。「芸術は人生を豊かにするものだ。」という人もいる。「芸術に価値を感じることは人間と動物の違いだ。」という人もいる。動物は意味や根拠を持たなくても日々を生活している。しかし人間は生きていく中で、人はなぜ存在するのかといったことをはじめ様々な疑問を抱え生活している。こうした問いは科学的に答えを見つけることは出来ないだろう。よって文化によってこれらの疑問は補完せざるを得ないのであろう。こうした中で芸術は意味を持ち、そして存在するのではないだろうか。これまで芸術について考えてみたが、少し講義の内容とズレてしまった。しかし、普段私達は生活する上で『芸術とは何か?』について考える機会は無いように思う。そう考えると、この機会をつくるきっかけになっただけでも今回の講義は私にとって有意義なものだった。

 私たちが芸術に触れたときの感情を表す言葉は「感動」である。では芸術活動とは、感動を伝える活動と言い換えることが出来る。秋吉台国際芸術村や県立美術館、YCAMは山口(Yamaguchi)県における芸術活動の担い手である。ということはつまり、感動を伝えることがこれら施設の目的である。今後もこれらの施設にはより一層の感動を伝えて欲しい。そして少しでも多くの人が、これらの施設を訪れてその感動にふれて欲しいと思う。最後に、山口(Yamaguchi)県には「新山口(Yamaguchi)県文化振興ビジョン」(仮称)という文化振興の計画が策定されようとしている。この計画の今後についても少し注目していきたいと思う。

 

25.「山口(Yamaguchi)・エジンバラ(Edinburgh2003」を聞いて

 この授業をきて一番印象に残ったのはPatrick Geddesという人物の名前だ。Patrick Geddesは、山口(Yamaguchi)とエジンバラ(Edinburgh)をNPO活動を通してつなげるためになくてはならないキーワードであると感じた。死後100年もたつというのにPatrick Geddesの魅力が色あせず、様々な人に影響をあたえ、今も尚研究されているというのはどういうことだろうと感じる。Patrick Geddesが現代芸術に与えた影響とは何だったのかを考えてみたいと思う。Patrick Geddesはもともと生物学者であったという。その自分の生物学の集大成をもとに生の図式を考えだした。あらゆる生物の中でGeddesが興味を示したものが人間であった。Geddesはこの生の図式によって、人間が起こす複雑な現象を一つに統合できることを提唱したという。わたしは勢の図式によって、Geddesが生の図式で重要なキーワードは現代芸術(アート)が、人間をの心を豊かにさせ、人間の心の豊かさでもって、地域活動や日ごろの暮らしといった基本の部分をより楽しいものにさせるよう働きかけたのではないかと考える。

 この考えを基にすると、Geddesが考えた生の図式は、現在の人間社会でも大きく当てはまるところが有るように思える。山口(Yamaguchi)やエジンバラ(Edinburgh)のように地域と呼ばれる場所では、このことが強く当てはまるのではないだろうか?こういっては山口(Yamaguchi)に失礼かも知れないが、山口(Yamaguchi)は完全な地方であり、様々な情報から乗り遅れやすいため、人と人との情報交換が必要となり、人間関係は密になる傾向にあると考える。そのため、その情報が、芸術にかんすることであり、かつ地域性のあるもので、途切れることなく発信し続けるものであるのならば、生の図式において、山口(Yamaguchi)は豊かな街になるのではないかと淡い希望も持ったりもするのはわたしだけだろうか?山口(Yamaguchi)には、意外と多くの美術館がある、これらをどのように山口(Yamaguchi)市民が活用できるかで、豊かさは変わってくると思う。夢のような話だが、いつか山口(Yamaguchi)がエジンバラ(Edinburgh)のような豊かな街になれば、うれしい。わたしも芸術に触れる機会を今までより少しふやしていこうと思う。

 残念なことに、今回の授業だけでは、Geddesについて深く理解することができなかったように思う。おそらく、Geddesについては別の授業を開講するべきではないかと思う。多くの情報がありすぎてうまく整理がつかなかった感じがする。いろんな芸術家や運営者の話が聞ける、珍しく面白い授業だったので、そこは今までと同じどおりやって欲しい。

 

26.わたしにとっての現代芸術

 これまでの授業と今回のシンポジウムに参加して私の中の芸術という概念が大きく変わりました。これまでは芸術というものを別世界のもののように感じていましたが、今はあらゆるものが芸術となりうる可能性を秘めているように思え、芸術が身近な存在となりました。わたしはこの授業でPatrick Geddesという人物をはじめて知りました。彼は、壊れつつあるエジンバラ(Edinburgh)のオールドタウンを新しいものを織り交ぜつつ維持しようとした、と聞きます。「変えて守る」という発想はどこか不思議で、大変興味を惹かれます。この、「変えて守る」という思想こそ現代芸術家が彼を支持する理由なのだと思います。この授業で山口(Yamaguchi)在住のアーティストの方々からお話を聞くことができました。彼らの発想は私にとって大変斬新で驚くことばかりでした。なかでも、ショット単位で映画を見る「OZUstyle」に感銘を受けました。一人の人間の多くの作品

から、別の人間がひとつの作品を作る・・・現代芸術の世界にするりと入り込むことができた瞬間でした。

さて、昨年、山口(Yamaguchi)情報芸術センターがオープンしました。わたしはすでに、このYCAMの常連となっています。YCAMにある3つのスタジオにはいつも演劇やダンスの公演や美術の展示などがなされており、気軽に芸術に触れることができるのでうれしく思っています。秋吉台国際芸術村とともにこれから山口(Yamaguchi)の芸術文化の拠点となり、もっともっと芸術、情報をわたしたちに伝えてほしいと考えています。戦争、環境問題、情報化社会・・・激動の時代を迎えた現代、私たち人間はつながり続けることができるのでしょうか。同じ地球にいながらも、当然ですが、言葉も、文化も違います。ですが芸術ならば、みんなが理解できるといいたいわけではありません。わたしは芸術とは共感できてもできなくてもよいものだと考えています。極端にパーソナルなものでもあるし、もしかしたら共有可能なものかもしれません。共有できるのか、できないのか、どきどきしながら鑑賞するのが今のわたしの現代芸術にふれる楽しみです。 最後に、この授業を通してこれまでかかわる機会がなかった現代芸術に出会うことができてたいへんうれしく思っていますこれを機に現代芸術の世界を楽しみ、広げていこうと考えています。

 

27. Geddes、エジンバラ(Edinburgh)、山口(Yamaguchi
 わたしは、本講義を受けることにより「現代芸術」というものに対して知識が深まったと同時に大変興味をひかれました。それまで私は芸術というものにほとんど興味がなく、全くと言っていいほど知識がありませんでした。そんな私が興味を引かれたポイントを次に挙げます。第一に、Patrick Geddesという人物に興味を引かれました。このGeddesという人物はあまりにも謎が多く、またどこか神がかっているような印象をうけました。芸術家なのか生物学者なのか建築家なのかまたは哲学者なのか・・・。それらすらも疑わしく思えてきます。Patrick Geddesを、よくわかっていなくても私はこの人をすきになりました。わたしにはGeddesが生涯で何を作り上げたのか、なし得ることができたのかということは問題ではないように思います。Geddesの残したものをそのまま見るのではなく、残した意志や、そのやり方、考え方や、Geddesの哲学を残した建築物などから読みとった方がGeddesをより深く知ることが出来るのではないかとかんがえています。
次に、エジンバラ(Edinburgh)という土地にも興味を引かれました。わたしは小さな頃から日本で育ち、外国の街は写真の中でしかふれる機会さえなかったようにおもいます。しかし先生方のご紹介でこの街を知り、日本とは全く違う世界が広がっていました。それは今まで見たどの街よりも興味をそそられたものでした。「古さ」と「新しさ」が入り交じったその街は、新しいばかりの日本の街とは違いどことなく、本当にただ何となく、好きになりました。

 そこで私が一つ疑問に思ったのは、何故、Geddesはエジンバラ(Edinburgh)という街を改造しようとしたのでしょうか?私にはやはり詳しいことはわからないので推測の域を出ませんが、おそらく自分の育ったエジンバラ(Edinburgh)という街を舞台に、この授業のキーワードである「まち」「大学」「芸術」を一つにしようとしたのではないでしょうか?そしてその集大成として「生の図式」があるのではないでしょうか?
 また、このPatrick Geddesやエジンバラ(Edinburgh)ははるばるこの山口(Yamaguchi)という地域にまで時間や距離を超えて今、影響を与えています。それは大学であったり、山口(Yamaguchi)の街作りであったり、山口(Yamaguchi)の現代芸術であったりしますが、150年も前の記録や論文、考え方が今の世界に影響を与えることはすごいことだと思います。これから、山口(Yamaguchi)という街が後世に影響を与えることが出来るようなすばらしい街になることを心から願っています。

 

 

28.無題   

 Patrick Geddesは、エジンバラ(Edinburgh)大学の教授であり、100年前のエジンバラ(Edinburgh)(イギリス)において都市計画の環境教育を実践した人で、「都市計画の父」と言われている人です。エジンバラ(Edinburgh)には、Patrick Geddesが使用した展望塔(アウトルック・タワー)が残っています。当時は、安全・衛生上からみて問題のある建物は取り壊して、建て直していましたが、Geddesは取り壊すことに対する疑問をもっていました。その都市の歴史や文化が失われていくからです。ラムゼイ・ガーデンという住宅は、Patrick Geddesが自ら買い取って、取り壊さずに改修した代表的な建物として今でも使われています。(現在では高級マンションとなっています) Patrick Geddesの思想は、その後の都市計画の研究者に大きな影響を与えています。特に微視的な視点で街をみるのではなく、環境や生物といった幅広い「地域」の視点で都市を考えるということは、イギリスのみならず世界中の都市計画の思想に今でも息づいています。

 授業でも、プロジェクターでエジンバラ(Edinburgh)の写真を見ながら、地形や気候、都市計画の特徴、歴史などについて触れ、より具体的にPatrick Geddesについて知ることができました。また、山口(Yamaguchi)ではYCAMを事例としたNPOの活動の経緯を学び、「Patrick Geddes」という言葉を聞いて、最初なんのことだかわからなかった私もPatrick Geddesがいかに重要な人物であるのかということを理解することができました。今後、機会があれば自分の目でエジンバラ(Edinburgh)のすばらしい都市計画の跡を見てみたいものです。

 

29.Patrick Geddesとエジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi  

 今回私がこの、芸術・文化振興NPO活動の今―「エジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi)2004」という講義に出席して初めはGeddesとは誰だろう、どのような人だろうという疑問だらけでした。講義が終わった今はこのような疑問は解けました。ただ、彼の視覚的思索の最終的な到達点である生の図式などがどのようなものなのかという疑問が残されたままになりました。しかし、一つだけはっきりしたことがあります。Geddesとはひとりひとりの見る目によってその人物像がかわるというユニークな人だったのであろうということです。  Geddesがどのような活動をエジンバラ(Edinburgh)で行ってきたかをこの講義では学びました。Geddesはオールドエジンバラ(Edinburgh)での長い経験に基づきエジンバラ(Edinburgh)の地理的かつ歴史的研究、植物生態の研究までしています。また、彼は地質学、植物学、生理学、製図、絵画などにも学んでました。しかし、講義では実際にGeddesが直接、都市の発展に貢献したかというとそうでもないことがわかりました。Geddesは弟子たちに様々なことをさせて自分の知識を生かしていたこともわかりました。今回の講義で山口(Yamaguchi)で活動している色々なひとの話や活動の内容を聞くことが出来て、とてもよかったと思っています。一番印象に残っているのは光をテーマに様々なところでご活躍の松尾さんの講義での青い殿様プロジェクトです。また、その一環で瑠璃光寺五重塔を瑠璃色にライトアップするというものがありましたが、とてもすばらしく感動しました。今後、様々な表現媒体を用いて我々を感動させるような作品をつくられたらなぁとおもい、また、応援していきたいです。

 まとめになりますが、今回の芸術・文化振興NPO活動の今―「エジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi)2004」の講義を受けて様々な事がわかりました。普段何もせずに家にいるだけの私にとってはまさに未知の世界でした。松尾さん以外にも様々なひとが講義に参加されてそれぞれの人が活動していることを話されてすごく面白く授業を聞けました。Geddesについてはまだいろんな疑問があるし山口(Yamaguchi)も色々なところを変えていく余地があると思います。YCAMみたいなところがもっと増えていくことでこの講義を受ける前の私のような「芸術」等のようなものに興味がないひとが少しでも減って、もっと山口(Yamaguchi)をよくしようと思う ?M$,A}$($l$P$(文字化け)H;W$$$^$7$?!今回、この講義をとる際に正直最初はタイトルを目にしても、どんな内容の講義かいまいち想像できなく、たんに芸術NPO法人の活動についてだけの講義だと思っていた。所属が理系であるので、こういう分野に関してはまったく無知であり、エジンバラ(Edinburgh)という地のもつ意味、どのような団体等がこの授業で取り扱うNPOなのかわからなかった。当然Patrick Geddesという人物の存在自体もしらなかった。

 この講義を聞いてたくさんのことを考えさせられた。講義を聞いて考えたことを以下に書いていく。最初にエジンバラ(Edinburgh)という地について考えさせられたことを書く。ヨーロッパの都市は日本の都市とはかなり異なることは以前から知っていたのだが、エジンバラ(Edinburgh)という都市は中でも特別な雰囲気や文化、市民らによる古き良きモノを残していくということをうまくやっていることを感じた。山口(Yamaguchi)でもそうであると思うのだが、日本の都市は昔からのモノも残っていることは残っているが、なにかうまく現在の都市と調和していない感じがする。日本は一部の人々が努力して芸術・文化活動を盛りあげようとしているだけで、一般の市民はほとんど関わってなく、なにをやっているのか、わからないために市民は支持をせずに批判的に見ている気がする。昨年できた山口(Yamaguchi)のYCAMも最初の光のイベントの趣旨を知らなかったので僕はどうも税金の無駄使いにしか思えない感じがした。こうした批判的な意見を持ったのはなにも僕だけではないと思う。こういう批判的な意見はもったが、芸術・文化の活動全体を批判、否定しているわけではない。もっとこういった活動の内容などが一般の人にとっつきやすければ、市民も参加の意欲が出て、市民も参加してもっといいものをつくっていけるのではないだろうか。

 あともうひとつ考えたことは、藤川先生が講義でおっしゃっていた、芸術の関する日本の法律のあまりのおそまつさはどうかと思う。あのような法ではヨーロッパのようまでは至らないにしても、日本では絶対豊かな文化は成長しないし、今のような「よくわらない、とっつきにくい芸術」はかわらないと思う。

 

30.エジンバラ(Edinburgh)と山口(Yamaguchi)について

 私がこの授業で最も印象に残ったのは、第7回の授業で貞方先生が講義された「エジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi)の環境比較とPatrick Geddes」の授業でした。それまで地名としてと捉えていた「エジンバラ(Edinburgh)」を写真などを使うことでより理解を深める事ができました。シラバスで見ていたとおり「まるで絵に描いたような都市景観が広がっている」都市だと感じた。特に、山口(Yamaguchi)と比較したとき歴史を大切にしていることは非常に共通していると思った。ただ山口(Yamaguchi)を考えた時、市民が中心というよりは行政(県、市町村)が中心というような気がした。私をはじめ市民には歴史に根ざした街づくりという意識は低く街づくりは行政の仕事だと決め付けているような気がする。第7回の授業を通して市民自ら街づくりに対する意識をもつべきだと感じた。この授業に関して改善すべき点に関して、この授業は山口(Yamaguchi)の町について全員が知っているということを前提とされているが、私のようにずっと山口(Yamaguchi)で育った人間は別として、大学に入学してはじめて山口(Yamaguchi)にきた人間にとってはエジンバラ(Edinburgh)の街の話をしただけでは山口(Yamaguchi)とエジンバラ(Edinburgh)を比較する目的の半分しか達成できないような気がした。また、エジンバラ(Edinburgh)が城下町であることに注目すると、萩市との方が歴史を大切にしている点において共通点が多いような気がした。さらに、私を初め芸術を専門としていない生徒にとって写真を使った授業は最も取っ付きやすい授業だったので、できれば第2回もしくは第3回ぐらいにまわしたほうが良いと思った。そうすることで、エジンバラ(Edinburgh)という町やPatrick Geddesという人物に対する漠然としたイメージが湧き、その後の授業の理解が深まるような気がする。あと全体的に、もし時間の都合がつけば、例えば、Patrick Geddes、エジンバラ(Edinburgh)についての講義と山口(Yamaguchi)の芸術活動の講義を分けて、前半7、8回の講義

で前者を、残りで後者をといった感じで授業を進めていただくとより理解が深まるような気がした。

 この講義では様々な芸術家の人をゲストに呼び、その方々が芸術活動を紹介され、私にとってとても新鮮なものであった。また、その他ではPatrick Geddesの思想について講義され、正直分かったような、分からないような感じではあるがとても深いなと感じた。さらに芸術文化振興基本法の講義では、法として制定されたが、その効果はあまり無く、形式的な法であると言わざるを得ないという問題について改善すべきだと感じた。

 全体として、山口(Yamaguchi)でも芸術活動はより盛んになるべきだと感じ、それには私達市民がそういう意識をもつことが大切だと感じた。

 

31.Geddesと現代芸術に見られる、芸術の意義

 私たちは本講義で、Patrick Geddesの思想を学ぶと共に、現代において山口(Yamaguchi)で行われている様々な現代芸術の取り組みを見てきた。Geddesの思想については最後まで深い理解に至ることが出来なかったが、生の図式に見られる「図式から問題を表出させる思考法」など、得るところは多かったように思う。またGeddesのエジンバラ(Edinburgh)での活動が、古い町並みを単に保護・維持するに留まらず、それに新たな活用法を見出すという形をとっていた点は大変面白い。新市街と旧市街の両立するエジンバラ(Edinburgh)の映像は、非常に味わい深いものであった。私がGeddesから学んだものは主に「古いものの重要性の認識と、それへの新たな意味付け」、そして「視覚(図式)を通じた思考の展開」の2点である。

 山口(Yamaguchi)で行われている現代芸術の様々なイベントや施設の構築においては、このようなGeddesの思考を更に一歩も二歩も進展させたような向きが見てとれる。中でも特に、場に拘ったものから場を越えたものへの発展という一つのテーマが、強く印象に残った。山口(Yamaguchi)総合芸術センター内では芸術作品と観客の関係において、ステージと客席を一体化させることによって施設内全てが一平面上にあるような状況を作り出すという設計上の狙いがある。そしてこの流れを情報通信という新たなインフラと絡めた時、場を越えるという傾向はより一層強くなるように思われる。山口(Yamaguchi)総合芸術センターの例だと、全ての展示物をデータ化してオリジナルと等価であるかのように取り扱い、スタジオ間の情報交換を可能とする、開かれた空間を目指しているのだという。また先日行われた「メッセージのやり取りを夜空に向けたライトの光で表現し、視覚化する」というイベントは、世界中のアートセンターにその様子が送信され、リアルタイムに展示された。この例が示すように、芸術作品の展示された場所ではなくそれが展示される時間こそが重要という、場を離れた芸術の特殊性が生み出されようとしているのは間違い無いと言えるだろう。このような「場を越える」という明確な主題の元に作られた作品群や施設は、私たちに新たな視点を提供してくれるものと言えるだろう。

 Geddesの思考の独自性、現代芸術の思考の先進性いずれもが極めて異質な体験に繋がり、物の見方や意識を少なからず揺さぶった。今までの私にとって芸術といえば美的なものの追求や個々人の内心の吐露など、芸術家側にとっての意義こそが中心だった。しかし鑑賞する側も、単にその美しさに酔い芸術家に思いを馳せるだけでなく、その内側にある様々なテーマや思想を知り、自らの考え方や視野を一段広げることが出来るのである。そういった点において、Geddesや現代芸術のはっきりした主題設定は大変意義深いものであり、今後も私たちの生活になくてはならない重要な一部分を占めるに違いない。

 

32.山口(Yamaguchi)における現代芸術のあり方について  

 私は、この授業「芸術・文化振興NPO活動の今ーエジンバラ(Edinburgh)・山口(Yamaguchi)2004」を受ける前まで、芸術に対してそれほど興味を持っていなかった。その理由として、山口(Yamaguchi)における芸術活動の案内、その活動内容などの紹介をあまり目にする機

会もなく、またあったとしてもそれを見て興味深く思えなかったからである。それらのことから、私の中で現代芸術の重要性がどんどん薄れていった。しかし、この授業を受講し、受けていくことで芸術の奥深さ、面白さ少しずつだがふれていけたように思う。

 この授業で主に興味を引かれたのは、山口(Yamaguchi)で活動し、活躍するアーティストの皆さんの紹介がされたときでした。自分の中で山口(Yamaguchi)ではあまり、芸術活動がさかんではなく、ましては、山口(Yamaguchi)で活動するアーティストは皆無にちかいのではないかと思いこんでいた。だから、白川さん、松尾さん、原井さんの活動を見たときは、今までの自分の考えがくつがえされる思いであった。特に、松尾さんの青い殿様プロジェクトは、瑠璃光寺五重の塔をライトアップするといった単純明快ではあるが、山口(Yamaguchi)の地域にしていて、なおかつ山口(Yamaguchi)の住人にとっては一度は見てみたいと思える用なもので、誰しもが興味を持ちやすいものであるように思われた。

  だが、このような活動もこの授業を受講しなければ、知ることはなかったかもしれない。このことを考えると、国は、芸術文化振興基本法第一章五条に示されている、「国民の文化芸術に対する関心および理解を深めるように努めなければならない」という所は十分になされていないのではないだろうか?国および地方公共団体は、まだまだ住民に対して芸術活動の紹介が必要なのではないだろうか。例えば、住民に対しての活動広告に配布、公共の電波による紹介の強化、定期的にアーティストと住民がふれあえる機会を増やすなど、今以上に対策が必要であろう。

 今回の授業を通して私が思ったことは、私のようにきっかけがあれば芸術に興味がわき、好きになるといった人は沢山いるかもしれない。自分も含めてだが、そのような人々は、芸術にふれる機会をことごとく逃しているのではないだろうか。現在では、山口(Yamaguchi)情報芸術センターが出来て、以前に比べて簡単に現代芸術にふれることが出来る。必要なのは、足を運ぶという動作のみである。自分の考えではあるが、人は、芸術にふれることで、心が豊かになり、人生において物の見方も広くなる。それ故、この山口(Yamaguchi)芸術センターが、山口(Yamaguchi)県民の心を豊かにし、人々の生活スタイルの革新的なものになることを期待している。