技術決定論とマクルーハン


テキスト

「ニュー・テクノロジー」(第13章)、ジョン・A・ウォーカー、サラ・チャップリン『ヴィジュアル・カルチャー入門―美術史を超えるための方法論』、岸文和、ほか訳 (晃洋書房、2001年) 、二一〇―二二九頁。


サブ・テキスト

ジョン・バージャー『見るということ』、飯沢耕太郎監修、笠原美智子訳(筑摩書房、2005年)

ジョン・バージャー『イメージ――視覚とメディア』、伊藤俊治訳(パルコ出版、1986年)

マーシャル・マクルーハン、ブルース・R.パワーズ『グローバル・ヴィレッジ―21世紀の生とメディアの転換』、浅見克彦訳(青弓社、2003年)

マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』、栗原裕、河本仲聖訳(みすず書房、1987年)

マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系――活字人間の形成』、森常治訳(みすず書房、1986年)


テクノロジー決定論

芸術がなんらかのテクノロジーを利用するとき、そのテクノロジーのもつ性質によってどの程度まで芸術の形式、内容、様式が「決定」されることになるのか、という問題

×テクノロジーこそがハンドルを握っているかのような印象

テクノロジーは倫理的、政治的に中立か?

「テクノロジーを怖れたり、祭り上げたりする必要はない。そうするくらいなら乱用した方がよい」

"「油絵」という言葉は技法以上のものを示している。それはひとつの芸術形式なのだ。絵具を油と混ぜる技法は古くからあった。しかし、芸術の一形式としての油絵が生まれたのはテンペラ画やフレスコ画では充分に描きあらわせない、特別な生活観を表現するためにこの油絵技法が完成されてからのことである。"

ジョン・バージャー『イメージ――視覚とメディア』、一〇三頁。

"最新のテクノロジー、エレクトロニクス製品が普通の芸術家の手にはいるようになったのは七〇年代が終わろうとするころだった。そのころからホログラフィーやコンピュータ・グラフィックスなどのテクノ・アートが人々に広く知られるようになる。これは、テクノロジーの進歩のおかげで量産の製品が安く売られるようになったからである。操作性もよくなった。芸術家であり、同時に技術者であることが簡単にできるようになったのだ。つまり、ハイ・テクノロジーが採算ベースにのったときテクノ・アートも一般化し開花したのである。簡単な理屈だ。ところが、この簡単な理屈こそがディスユートピアの本質らしいのだ。なぜなら、テクノロジーと結合した芸術とは、テクノロジーと経済社会が深く結合したとき開花する芸術だということになるからである。つまり、採算ベースにのるテクノロジーだけが芸術の活動範囲なのだそして、このとき芸術はテクノロジーを通じて経済社会に完全に支配されてしまうのである。"

若林直樹『新版 アートゲームス』(洋泉社、1993年)、一八九頁。


マクルーハンとマス・メディア

マス・メディア(テクノロジー)→人間の拡張

人間の労働力を肉体的にも精神的にも拡大し、芸術的能力を質的にも量的にも向上させる
  ↑
  ↓
労働の画一化、非熟練化、大量失業

「メディアはメッセージである」=メディアや配送システムが、配送される内容より重要である

ホット=映画(情報量=多、参与=不要)

クール=テレビ(情報量=少、参与=要)

ホット&クール=インターネット(情報量=多、参与=要)


デジタルアート・スプラッシュ!」(1998年、福島県立美術館)

参考リンク:ArtCom News / 美術館先端事例 Vol.20-1


YCAMイベント紹介

カルステン・ニコライ「シンクロン」


その他

デジタル・アート・フェスティバル東京2005