瀧口修造―夢の漂流物

二月五日〜四月十日 世田谷美術館

五月二十八日〜七月三日 富山県立近代美術館


 物々控

瀧口修造

 物の遍歴。物への遍歴。

 私の一生は「持たざるもの」の物憑きとして終わったとしたらどうだろう。思うだに怖ろしいようなものだ。

 

 私は世の蒐集家ではない。ガラクタに近いものから、「芸術作品」にいたるまで、すべてが私のところでは、一種の記念品のような様相を呈していて、一見雑然として足許まで押しよせようとしている。

 それらは市場価値の有無にかかわらず、それには無関心な独自の価値体系を、頑なにまもりつづけているように見える。

 

 私はそんな「物」たちに、「本」と同じように触れたり、話しかけたりするだろう。

 本の幾冊かは、また私にとって市販されている以上の「物」になっている。

 しかし近づいてよく見ると、そこには世間公認のカテゴリーから外れたような物たちの一群があることに気づく。

 玩具の定義は? それはともかく、「芸術」であるにしろ、「商品」であるにしろ、常識や習慣の決めた品物以外の変なものがしばしば「おとなの玩具」と呼ばれているのだ。

 

 この社会には、過度の量産のために用途を失った、孤独で、惨めな物たちもある。

 一方、たとえば尖鋭に研ぎ澄まされた機械が、まったく別の天体に墜落した瞬間の、烈しい価値転換を想ってみるがよい。

 だが、私のところでは、いま緩慢に、物たちのざわめきを聴くことができる。

 

 しかし、かれら物たちのすべてが、私の認識の枠のなかで、飼い馴らされ、おとなしくしているわけではない。ある物たちは絶えず私に問いかける。いや、私に謎をかけるのである。

 私はかれらを鎮めるために、言葉を考えてやらねばならない。それがいまかれらに支払ってやれる私のせい一杯のものだ。

 

 奇妙な話だが、いつの頃からか、私に「オブジェの店」を出すという観念が醗酵し、それがばかにならない固執であることに気づきはじめた。いうまでもなく私は企業家や商人とはまったく異なったシステムで、それを考えていたのだ。

 私はまずその店名と、その看板の文字を、既知のマルセル・デュシャンに依頼すると、かれは快よく応じてくれた。こうして、その店の名は“Rrose Sélavy”(ローズ・セラヴィ)ということになった。これはデュシャンが一九二〇年頃から使いはじめた有名な偽名で、あのレディ・メードのオブジェに署名するためだったらしいが、またかれがしばしばこころみる言葉の洒落にもこの署名を使っている。

 「セラヴィはフランス語のC'est la vie(これが人生だ)をもじったもので、ローズは一九二〇年、彼女が生まれたときには女のもっとも俗な名前でした。私はそれにRを二つ重ねてもっと俗にしたのです……」とデュシャンはその名の由来を私への手紙に書いている。

 こうして、いまは架空だが、「ローズ・セラヴィ」という店の名が、デュシャン自身の命名によって誕生し、いま私は看板を試作中であり、おそらく近日中には少なくとも看板だけは私の書斎に掲げられるだろう。それがまたひとつの物であり、この看板はいったい何を私に照らしだしてくれることだろう。

 流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させるという不逞な考え、あるいはライプニッツ流に、これも「変な考え」のひとつであろうか?

 

 かつてアンドレ・ブルトンは夢のなかの物体を作製し、それを流通させようと考えた。それは一九二〇年代から三〇年代にかけての昔のことだ。しかし「物体の危機」はたえず認識の危機に通じていて、この底流は「物体」について絶えず現れている。

 物をたんにオブジェと呼びかえることによって、特殊な常套芸術や商品にすりかえられぬように警戒しよう。そこにこそ、たとえ架空で終るにしろ終らないにしろ、私の「オブジェの店」というものが考えられる理由があるのだから。

 

 さて、私のところには、まだ撮影されていないさまざまな物たちがある。

 人間を捕獲する箱、このなかには目下二人の人間が生け捕りにされている。

 埃りをたべる未確認の昆虫、いまは埃りにたべられている。

 耳の形をした耳なし耳繰り人形。

 または、

 言葉のおもちゃ、Jouets de mots,

                 そのほか。

 

『余白に書く』(みすず書房、一九六六年)より再録
(初出『美術手帖』第二五一号、一九六五年四月、増刊号)

 ※『瀧口修造―夢の漂流物』(世田谷美術館/富山県立近代美術館、二〇〇五年)、一八―二一頁。


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