<平面的なもの→深奥的なもの 2>
ラファエロ・サンツィオ 《奇跡の漁獲》 1515年 ロンドン、ヴィクトリア&アルバート美術館 |
ディエゴ・ベラスケス 《槍(ブレダの開城)》 1634-35年 マドリード、プラド美術館 |
人物も水鳥も「平面」的に配置 「浮き彫り」のような表現 |
群集は左=手前、右=奥 馬の体の表現も「奥行き」感を強調 |
次に、さらにすすんでラファエッロの《奇跡の漁獲》(図38)を考えると、人物が一つのまとまりのある「浮彫的」な層に置かれる様子は、その時代でさえ、全体的に新しい印象である。ジョルジョーネやティツィアーノ(図89)が横たわるウェヌスを表現する時のように、ただ一つの人物が問題になる時でも、この事情は同じである。どれを見ても、形は画中に明確に表れた主要平面に据えられるのである。
(ハインリヒ・ヴェルフリン 『美術史の基礎概念』、慶應義塾大学出版会 2000年、p.112)
このやり方のさらにすすんだ実例として、ベラスケスの《槍》をあげよう。ここでもまた主要人物たちの配置において、古い平面的図式が放棄されていないようでありながら、手前のものと奥のものをつなげ、という絶えず反復される指示によって、とにかく絵画にとって本質的に新しい現象が得られたのである。 城塞の鍵の譲り渡しでは、主要人物たちの出会いが横向きに表現される。根本的には、「教会の鍵の授与」や、「わたしの羊を飼いなさい」のキリストとペテロに見られた構図と変わりがない。しかし、 タピスリー連作のラファエッロの構図やさらにシスティーナ礼拝堂におけるペルジーノのフレスコ画を引き合いに出せば、ベラスケスではあの横向きの出会いが図像の総体的外見に対して意味するものが、もはやいかに少ないか、人はただちに気づくであろう。 人物は平面に整列せず、いたるところで深奥とのつながりを語る。二人の指揮官のモティーフのように平面への固定が起こりかねないところでは、まさにこの個所で、奥に明るく描かれた軍隊への眺望が開けるという仕方で、この危険が排除されるのである。
(ハインリヒ・ヴェルフリン 『美術史の基礎概念』、慶應義塾大学出版会 2000年、pp.122-23)