芸術論特殊講義二〇〇六


<第一二講> まとめ:ハラルド・ゼーマンと「人類のプラトー」

◆ハラルド・ゼーマンについて

◆プラットフォームとプラトー

◆ドゥルーズ『千のプラトー』

◆ゼーマン「人類のプラトー」

◆ゼーマンとドゥルーズ

◆国際美術展と一九六八年パリ五月革命


ハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann、一九三三―二〇〇五)について

展覧会を作品化した表現者としてのキュレーターの先駆者

一九六九年 「態度が形になるとき」展(ベルン、クンストハレ)

数々の国際美術展を手掛けた

一九七二年 ドクメンタ5(カッセル)

一九八〇年 ヴェネツィア・ビエンナーレにアペルト部門創設(アキレ・ボニート・オリーヴァとの共同企画)

一九九七年 第四回リヨン・ビエンナーレの総合監督

第二回光州ビエンナーレ「速度―水」部門のキュレーター

一九九九年 第四八回ヴェネツィア・ビエンナーレの総合監督

二〇〇一年 第四九回ヴェネツィア・ビエンナーレの総合監督 。テーマ「人類のプラトー」

二〇〇四年 第一回セヴィーリャ・ビエンナーレの総合監督

※一般に「数々の」と形容されるが、実質的には四つの国際美術展を総指揮し、二つの国際美術展で企画チームに参画した、ということになる。このうち、二大国際美術展と言われるドクメンタとヴェネツィア・ビエンナーレの双方の総合監督を務めたのは、ゼーマンしかおらず、また、ヴェネツィアについては連続して二回担当している。この連続担当制は、ゼーマンが就任した際、「今後の方針」となっていたが、既に第五〇回と、第五一回との間で継承されなかった。さらに、リヨンと光州に携わった一九九〇年代後半から、本人が亡くなる二〇〇五年までの約一〇年間に、ほぼ隔年で国際美術展の企画に携わっていた、という事実も特筆される。

ゼーマン以外のキュレーター、および作家の「キャラバン化」の実態を跡づけることが今後の課題。


プラットフォームとプラトー

●プラットフォーム

(一)広辞苑などでは「プラットホーム」として日本語化している。駅やバス発着所で、乗客が乗り降りする場所。高台。

(二)コンピュータの普及につれて一般化し、「プラットフォーム」というカタカナ表記で使用されている。コンピュータの基盤を指すが、物理的なコンピュータの部品としての「基盤」よりは、基本ソフトウェアなどのプログラムを指して使用される場合が多い。例えば、IT用語辞典e-Wordによれば、「アプリケーションソフトを動作させる際の基盤となるOSの種類 や環境、設定などのこと。」となる。

●プラトー

(三)停滞状態を指す。プラトーとは - はてなによれば、「高原・大地を意味する言葉で、一時的な停滞状態のこと。何かを習得する際に進歩が一時的に止まって、横ばいの状態になること。停滞期。」

(四)ドゥルーズによる「プラトー」。(三)の停滞状態のプラトーから派生して、生成変化する台地を指す。


ドゥルーズ『千のプラトー』

“『意味の論理学』では、一種の系列構成をこころみました。しかし、『千のプラトー』はさらに複雑です。「プラトー」は比喩などではなく、恒久的変異の圏域、というか、それぞれがひとつの地域を監視、あるいは俯瞰して、たがいに記号を送り合う複数の塔が林立したような状態を指しているからです。インド風、ジェノヴァ風の構成になっているわけです。私たちが文体にいちばん接近したところ、つまり多重音調性にもっとも接近したところは、『千のプラトー』だったと思います。”

ジル・ドゥルーズ『記号と事件―1972-1990年の対話』、宮林寛訳(河出書房新社、一九九二年)、二三七頁。

“私は、哲学は多様体の論理であると考えています(この点にかんしては、自分はミシェル・セールに近いと感じますね)。概念を創造するとは、平面上にひとつの圏域をつくりあげること、すでに存在していた圏域にもうひとつ圏域をつけ加え、新しい圏域を探索し、欠如を埋めることなのです概念とは、線や曲線をいくつも組み合わせ、統合したものです。概念が絶えず入れ替わらなければならないのは、ほかでもない、内在性の平面が圏域ごとに構成され、すこしずつ、局所的につくられていくからなのです。だからこそ、概念は突然の疾風のように作用するのであり、『千のプラトー』ではひとつひとつの「プラトー」が、こうした疾風のようなものとして読まれるべきなのです。とはいえ、これは、概念は手直しと体系化の対象にならないという意味ではありませんよ。それどころか、概念には独自の潜在力としての反復というものがある。ひとつの圏域を別の圏域に接続するのが、この反復なのです。そして圏域の接続は恒久的かつ必要不可欠な操作であり、パッチワークのような世界を織りなすのです。ですから、内在性の平面はひとつしかないのに、すべての概念が局所的だという、あなたの印象は正しいことになります。”

ジル・ドゥルーズ『記号と事件―1972-1990年の対話』(一九九二年)、二四六頁。

“台地(ルビ:プラトー)というものは、つねに真中にある。始めでも終わりでもない。リゾームはもろもろのプラトーから成っている。グレゴリー・ ベイトソンは「プラトー」という語を、極めて特殊なものを指すのに用いている。すなわちもろもろの強度の連続する区域が、自らに対して打ち震え、それが、何か或る頂点へ、あるいは外在的目標の方へあらゆる方向づけを回避しつつ展開されるものであるペイトソンが実例として引いているのはバリ島文化であり、そこでは母子間の性的な戯れ、あるいは男同士の喧嘩はあの奇妙な強度上の静止化を経由する。「一種の連続した強度のプラトーがオルガスムに取って代わっている」、戦争にあるいは頂点に取って代わっているのだ。西欧的精神のよくない特徴なのは、もろもろの表現あるいは行為を、外在的ないし超越的諸目的に帰結=関係させることだ――それらをそれ自体として価値にのっとって一個の内在面の上で評価する代わりに。★18 例えば、一冊の本は章から成るかぎりにおいて、それなりの頂点、それなりの終結点の数々をそなえている。逆に、もろもろのプラトーから成る本、脳におけるようにいくつもの極小の割け目を通してたがいに通じ合うプラトーから成る本にとっては、どのようなことが起こるであろうか?”

★18――ベイトソン『精神のエコロジーへ向って』第一巻(ユース社)、一二五―一二六頁〔邦訳『精神の生態学』〕。「プラトー」という語が、古典的には、球根や、塊茎や、根茎(ルビ:リゾーム)の研究において用いられていることに注意しよう。パイヨンの『園藝学辞典』、「球根」の項を参照。

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『リゾーム』(エピステーメー臨時増刊号)、豊崎光一訳・編(朝日出版社、一九八七年)、九三頁。

一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれは、プラトーと呼ぶ。われわれはこの本をリゾームのようにして書いている。それをさまざまなプラトーによって構成した。それに循環的な形式を与えてきたが、それは笑うためだった。毎朝起きては、われわれはおのおの、どのプラトーを取り上げようかと自問したものだ。ここに五行、あちらに十行と書きつけながら。われわれは幻覚的な体験をした。いろいろな線が、まるで小さな蟻の隊列みたいに、一つのプラトーを離れて別のプラトーに移るのを目撃したのだ。われわれは数々の収斂する円環を描いてきた。それぞれのプラトーがどんな場所でも読まれ、どれでもいい別のプラトーと関係づけられるのである。”

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー』、宇野邦一ほか訳(河出書房新社、一九九四年)、三五頁。

芸術の、それも最も高度な芸術のあらゆる源泉を活用しなければならない。…(中略)…芸術は決して一つの目的ではなく、さまざまな生の線を引くための道具でしかない。そして生の線とは、単に芸術の中で生産されるものではなく、すべての現実的な生成変化であり、芸術の中に逃げること、避難することではなく、活動的なすべての逃走であり、芸術の上に最領土化しようとするのではなく、むしろ、非意味的なもの、非主体的なもの、顔をもたないものの地帯へと芸術をされっていく肯定的脱領土化なのだ。”

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(一九九四年)、二一三頁。

“組織の平面に対立するのは、唯一、経線と緯線によってのみ画定されるこの形成の平面である。これらはまさしく内在性の平面だ。なぜなら、この平面にはその上で起こっていることへの補足的ないかなる次元も用意されてはいないからだ。この平面の諸次元は、その平面性が乱されることがないままに、そこに生起するものと共に増大し減少する(n次元の平面)。それはもはや目的論的計画(ルビ:プラン)や企図(ルビ:デッサン)ではなく、幾何学的平面、抽象的なデッサンであり、次元がどうであれすべての形体の断面図のごときものである。〈平面体〉、〈根茎球体〉、〈超球体〉。それは固定面のようなもの、しかし「固定」とは不動を意味せず、休止同様に運動の絶対的な状態を指し、その状態との関連で相対的速度のすべての変化自体が知覚可能になるのである。

ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ『ドゥルーズの思想』、田村毅訳(大修館書店、一九八〇年)、一四二―一四三頁。

“形成の平面、内在性の平面。スピノザが秩序と法を護持する者たち、哲学者や神学者に対立して考えていた平面とは、すでに、このようなものであった。ヘルダーリン―クライスト―ニーチェの三人組が、エクリチュール、芸術、そして新たな政治を考えていたのも、すでにこのような平面であった。すなわち、ゲーテ、シラー、ヘーゲルが望んだように、形式の調和にみちた発達と主体の規律正しい形成ではもはやなく、緊張と急速、中断と全速の連続、種々の可変速的速度の共存、生成変化の塊ルビ:ブロック、空虚の上の飛躍、抽象の線上での重心の移動、内在性の平面上での種々の線の接合、粒子と情動を解放する気違いじみた速さをもった「停滞過程」がある。

ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ『ドゥルーズの思想』(一九八〇年)、一四四頁。

“ひとつのプラトーが裂け、そこからさまざまな断層や峡谷が生まれ、これらがプラトーをばらばらにし、プラトーを取るに足りない点にしてしまうかもしれない。それはいつでも起こりうることである。しかしプラトーは、つねにそのあれやこれやの線に沿って再び成長を開始するのであり、この線上でプラトーは無数の仕方で拡張し、絶えず変貌することをやめない

ジャン=クレ・マルタン『ドゥルーズ/変奏♪』、黒川修司ほか訳(松籟社、一九九七年)、二九二頁。

※プラトーは多様体としてのリゾームにおけるひとつひとつ構成要素であり、停滞であると同時に変化し続ける平面であり、芸術の根源的で肯定的な可能性に結びつけられて考えられている。


ゼーマン「人類のプラトー」

私はつねに「プラトー・デア・メンシュハイト(人類のプラトー)」はテーマではなく、次元(ディメンション)だと主張してきた。

Harald Szeemann, “The Timeless, Grand Narration of Human Existence in Its Time,” 49. Esposizione International d'Arte: La Biennale di Venezia, vol.1 (Milano: Electa, 2001): xvii.

「全解放」のあとの「プラトー」。この概念は多くの概念を内包している。それは大地であり、基礎であり、土台であり、プラットフォームである。ビエンナーレは人類の鏡であり、またプラットフォームなのだ。

Harald Szeemann, “The Timeless, Grand Narration of Human Existence in Its Time”(2001): xviii.

二〇〇一年 第四九回ヴェネツィア・ビエンナーレ


ゼーマンとドゥルーズ

ゼーマン(1933-2005)/ドゥルーズ(1925-1995)

ハンス=ウルリッヒ・オブリスト「ドゥルーズとガタリによる『アンチ・オイディプス』についてはどうですか。ドクメンタ5を企画するにあたって影響はありましたか。」

ゼーマン「ドゥルーズは「独身者の機械」展のために読んだだけです。それも後で。周りが思っているほどには本は読んでいないのです。展覧会を企画している間は、本を読む時間はほとんどありません。」

"Mind over Matter: Hans-Ulrich Obrist Talks with Harald Szeemann," Artforum 35.3 Nov. (1996): 112


国際美術展と一九六八年パリ五月革命

“フーコーにとっては、社会的領野はいくつもの戦術によって貫かれたものでしたが、私たちの観点からすると、社会的領野は、あちこちで逃走の水漏れをおこしているのです。六八年五月は歴史に闖入してくる生成変化だったし、それだからこそ、歴史学には六八年五月がよく理解できなかったし、歴史的社会は六八年五月を吸収することができなかったのです。”

ジル・ドゥルーズ『記号と事件―1972-1990年の対話』(一九九二年)、二五五―二五六頁。

“六〇年代、六八年五月革命とその後の幾年かで(この時代は完全に終わっていますが)とても重要だったのは、私が「新機能主義」と呼ぶものです。「新機能主義」は、コンセプトの創造活動としての哲学と切っても切り離せないものです。つまり、与えられた社会領域内で機能するコンセプトを創造することです。…(中略)…現在のような貧しい時代には、超越性の復権と「何かについて考察する」という意味の哲学への回帰が存在しています。それはまたアカデミスムへの回帰でもあります。ですから、今まさに取り戻さなければならないのは、創造としての哲学なのです。つまり、「何かについて考察する」のではなく、コンセプトを創造すること。超越性を探究するのではなく、内在野においてコンセプトを機能させることです。”

ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」、ディディ・エリボン(聞き手)、鈴木秀亘訳、『批評空間』第U期第九号、一〇―一一頁。

“――あなたは「自由な活動を通して所有物を置き換えること」ということについてよく話されます。このことについて説明していただけますか。
ゼーマン えぇ、これは六八年の革命からのスローガンで、自分のことを「精神の外注仕事の代行者」と呼んだときから採用しています。それから、もやは施設の中で従属的な職員としては働かない、と決めたのです。”

Beti Žerov, "Making Things Possible: A Conversation with Harald Szeemann,” Manifesta Journal 1 (2003): 30.


◆参考

『国際美術展研究イー・ヱス』創刊号(二〇〇六年六月、山口大学人文学部美学・美術史研究室)PDFファイル(829kb