ケーテ・コルヴィッツ展

茨城県つくば美術館 二〇〇五年七月十六日〜八月二十一日
新潟県立近代美術館 二〇〇五年九月三日〜十月二十三日
姫路市立美術館 二〇〇五年十一月二日〜十二月二十四日
熊本県立美術館 二〇〇六年二月十日〜四月九日
町田市立国際版画美術館 二〇〇六年四月十五日〜六月十一日


展覧会の構成

第1部 ケーテの出発―社会へのまなざし

第2部 日常の中の生と死―暮らしをみつめて

第3部 戦争と飢餓―歴史の渦の中で

第4部 別れ―来るべき世代にたくすもの


略年譜

一八六七年 0歳 七月六日、ケーニヒスベルク(ドイツ旧領、現ロシアのカリニングラード)に生まれる。
一八八一―八二年 14―15歳 ケーニヒスベルクの銅版画家ルドルフ・マウアーに師事。
一八九一年 24歳 北ベルリン、ヴァイセンブルガー・シュトラーセ二十五番地(現ケーテ・コルヴィッツ・シュトラーセ)に移り住む。健康保険医となったカール・コルヴィッツと結婚。夫の患者の多くは貧しい工場労働者。ケーテの絵のモデルとなる。
一八九二年 25歳 長男ハンス誕生。
一八九六年 29歳 次男ペーター誕生。
一八九九年 32歳 ドレスデンの「ドイツ美術展」で『職工の蜂起』がメダル獲得。ベルリン分離派の会員となる。
一九〇三年 36歳 歴史芸術協会より『農民戦争』の制作依頼。
一九〇七年 40歳 マックス・クリンガーによって創設された「ヴィラ・ロマーナ賞」受賞。フェレンツェに滞在。
一九一二年 45歳 女流芸術家の地位向上を目指す「女流芸術同盟」ベルリン支部の名誉会長に就任。
一九一四年 47歳 息子ハンス、ペーター、志願兵として第一次大戦に参戦。十月二十二日、ペーター戦死。
一九一八年 51歳 社会民主党中央機関紙『前進』で、軍隊への志願を促す文章に反論。「種を粉に挽いてはならない」(ゲーテ)を引用。
一九一九年 52歳 プロイセン芸術アカデミー会員に任命。女性初。教授の称号を授与され、アトリエも供される。
一九二一年 54歳 初孫ペーター誕生。
一九二八年 61歳 プロイセン芸術アカデミー版画室長に就任。
一九三三年 66歳 反ファシスト左派の団結を呼びかける「緊急アピール」に、夫妻で署名。この署名が原因で、アカデミー脱会に追い込まれ、教職とアトリエも失う。
一九三七年 70歳 ナチスより「退廃芸術」の烙印を押される。
一九四〇年 73歳 前年より病床にあった夫の死を覚悟し、彫刻《別れ》に着手。七月十九日、夫カール死去。
一九四一年 74歳 《「種を粉に挽いてはならない」》制作。
一九四二年 75歳 孫ペーター、第二次大戦で戦死。
一九四三年 76歳 十一月、空襲によりベルリンのケーテの家も爆撃される。作品のほとんどが消失。
一九四五年   休戦協定調印を間近にひかえた四月二十二日、死去。享年77歳。

参考:山田真規子編「ケーテ・コルヴィッツ年譜」、『ケーテ・コルヴィッツ展』図録(読売新聞大阪本社、二〇〇五年)、一九六―一九九頁。


出品作品紹介


作家の言葉

“《「種を粉に挽いてはならない」》、これは《「二度と戦争はしない」》と同様、憧れをこめた希望などではない。これは要求なのだ。”

グールトン・フリッチュ「日本におけるケーテ・コルヴィッツ美術館ベルリン傑作展」、『ケーテ・コルヴィッツ展』図録(読売新聞大阪本社、二〇〇五年)、一七頁。


国内の主な所蔵館

宮城県美術館(仙台市)

新潟県立近代美術館(長岡市)

ひとミュージアム 上野誠版画館(長野市)

安曇野有明美術館(長野県)

安曇野ちひろ美術館(長野県)

フィリア美術館(山梨県)

山梨県立美術館(山梨市)

東京国立近代美術館(千代田区)

町田市立国際版画美術館(東京都)

愛知県美術館(名古屋市)

兵庫県立美術館(神戸市)

伊丹市立美術館(兵庫県)

徳島県立近代美術館(徳島市)

高知県立美術館(高知市)

福岡市立美術館(福岡市)

熊本県立美術館(熊本市)

佐喜眞美術館(沖縄県)