<第一講> 西洋美術史(一)古代・中世


0.美学と美術史

どちらの学問についても、「美学とは何か」、「美術史とは何か」という問いは広がりと深みのある思索を要求する深遠な問いになる。皮相な答えに満足すべきではない。しかし、これから美学と美術史を学ぼうとしている学生にとって、出発点における助けとなるようにあえて簡略化し、両者を対比的に整理して述べるならば、以下のようになる。

美学―美や芸術、絵画、彫刻、建築などそれぞれの概念について精緻に究明する。その成果は『美学辞典』のようなかたちに結実する。例えばカントは美を限定的、崇高を無限定的なものと位置づけた。 美に対立する概念は、醜か。またそれぞれは、快、不快の感情と関連づけてよいか。それぞれの概念の位置づけをより厳密に豊かに確定していく。

美術史―それぞれの個別具体的な作例に関する情報を豊かにする。その成果は『美術全集』のようなかたちに結実する。一人の作家の生涯について、あるいは特定の地域を活動の場とした作家集団の全容について、事情を詳しく知るためには正しく検証された史料の集成が必要である。美術史の研究はこうした基礎的な事実を確定する。


1.古代

本講義では、ローマ帝国の首都がローマからコンスタンティノポリスへ遷都される四世紀より以前を古代とする。この遷都を画期とする考え方は、『カラー版西洋美術史』(高階秀爾監修、一九九〇年)に倣ったものである。同書の「第U章ギリシア美術とローマ美術」(青柳正規)では、「ローマ美術の終焉を意味するものではない」と断った上で政治史上の出来事を目安として採用したことが述べられている(二二頁)。

ローマとはイタリアのローマで、現在も都市名として使用されているが、コンスタンティノポリスの名前は残っていない。その都市は現在、イスタンブールと呼ばれている。ローマ帝国の遷都は、イタリアのローマから、現在のトルコのイスタンブールへと大胆に行なわれた。その距離約一、三八六キロメートル(地図から算出)。

ウィキペディアによれば、コンスタンティノポリスはラテン語。英語名のコンスタンティノープルの方が良く用いられているとのことである。本節でコンスタンティノポリスを使用するのは、ローマ帝国の首都であるから 同帝国で使用されていたラテン語名に倣うという理由である。意味は「コンスタンティヌスの町」。遷都を行なったのはコンスタンティヌス一世である。また、この遷都の日付について、その開都式が三三〇年五月十一日に行なわれたことが同じウィキペディアの「コンスタンティノポリス」の項で紹介されている。

私たちはこの三三〇年五月十一日以前を古代として整理する。これは先に「四世紀より以前」と述べたが、より理解しやすく言い換えれば「大体三世紀くらいまで」となる。

この約三世紀までの古代という時代区分の前に先史時代という時代区分を加える。そうすることによって得られる美術史上でいう古代の輪郭は、西洋美術においてキリスト教的な性格が支配的になる以前の、文明と呼ぶことのできる諸活動が観察される時代の全体である。

ここには、メソポタミア文明やエジプト文明を含みこむことができ、ローマ美術が開花する以前のイタリアに認められるエトルリアの美術をも話題にすることができるが、概論としての本講義では、 ギリシャ美術とローマ美術の二つのみをその具体例として紹介することとする。

1−1.ギリシャ美術

ギリシャ美術については、 壷絵、彫刻、浮彫り、建築といったものとして代表的な作例が残っている。次回以降に見ていくルネサンス以後の西洋美術史の紹介は絵画が中心になる。だが、今回取り上げた古代ギリシャについて、絵画の作例は少ないと言わなければならない。壁画と異なって、移動可能な、通例額縁によって飾られた絵画を西洋美術史ではタブロー(仏Tableau)と呼んでいる。このタブローは、より具体的には、テンペラかまたは油絵具で、板、あるいはカンヴァスの上に描かれたものを指している。そして私たちが西洋美術史において「絵画」と呼んでいるものは、このタブローとフレスコ画を合わせた作品群に相当 する。フレスコ画は壁画 の一種だが、タブローの制作が支配的になる直前まで広く行なわれていており、ルネサンスの画家においては、タブローとフレスコ画の双方に作例があるため、研究対象として同列に扱われるのである。もとより、この古代ギリシャの時代にも、イタリアのポンペイから出土した《アレクサンダーモザイク》(ナポリ国立考古博物館)のようなモザイク壁画の作例などがあるが、その数は非常に限られている。それに対し、数多くの作例が発見されている壷絵は、出土地も広範で、制作された時期も長く、形態も画題も多様である。ギリシャにおける絵画に類する作例を見るのに、壷絵が中心となってくること自体が、この時代の特徴であると言える。言い換えれば、壷絵は、広義における絵画のギリシャ美術 を代表する作例なのである。

ギリシャ美術は四つの時期に分類される(五期に分ける説もある)。第一期は幾何学様式時代(前一〇〇〇年〜前七〇〇年)、第二期はアルカイック時代(前七〇〇年〜前四八〇年)、第三期はクラシック時代(前四八〇年〜前三二三年)、第四期はヘレニズム時代(前三二三年〜前三〇年)である(水田徹「序論 ギリシア美術の世界」、『世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム』、小学館、一九九五年、一四頁)。このうち、アルカイックは「最初、第一」を意味するギリシア語のアルヒェーからの造語で、幾何学様式時代についての詳細が解明される以前の段階において、ギリシャ美術の始まりの時期と考えられていた(水田、一五頁)。つまり、かつてはアルカイック、クラシック、ヘレニズムと推移するものとして理解されていたギリシャ美術に、現在ではアルカイック以前の幾何学様式時代が追加されて理解されているということである。そして、この幾何学様式時代の開始の時期、そして終わりの時期については、若干の異同がある。水田氏が開始を前一〇〇〇年としているところで、『カラー版西洋美術史』の青柳氏は紀元前十一世紀中頃という書き方をしているし、幾何学様式時代の終わりの時期はアルカイック時代の開始の時期と重なるが、水田氏が前七〇〇年としているところで、青柳氏は紀元前七世紀中頃としている。本講義では、便宜的に区切りのよい水田氏の年代設定をとるが、作例の美術史的な分析に即した年代設定を行う道もあるだろう、ということを付言しておく。

さて、幾何学様式時代の開始の年代と終わりの年代、そしてアルカイック時代の開始の年代は概略的なものであることは上に述べた。残りのアルカイック時代の終わりの年代以後については、どのようなものであるか。アルカイック時代とクラシック時代を区分している前四八〇年は、ペルシア戦争終結の年(前四七九年)が指標になっている。そしてクラシック時代とヘレニズム時代を区分している前三二三年は、アレクサンドロス大王の没年、最後のヘレニズム時代の終わり、すなわちギリシャ美術全体の終結を記す前三〇年は、アクティウムの海戦でローマに敗れ、クレオパトラが自殺して、プトレマイオス朝が滅んだ年である。なお、プトレマイオス朝は、エジプトを支配し、現在も同じ名前で港町として栄えているアレクサンドリアを首都としたが、ギリシャ人によって創られた王朝である。また、クレオパトラは一般にエジプト人の姿で知られているが、ギリシャ人で、クレオパトラがエジプト人であるという認識は誤りである(ウィキペディア「クレオパトラ7世」の項を参照)。

以上の流れをまとめると、

前一〇〇〇年〜

 〈幾何学様式時代〉

前七〇〇年〜

 〈アルカイック時代〉

前四八〇年(ペルシア戦争終結)〜

 〈クラシック時代〉

前三二三年(アレクサンドロス大王没)〜

 〈ヘレニズム時代〉

〜前三〇年(プトレマイオス朝滅亡)

1−1−1.幾何学式から黒像式、そして赤像式へ

本節では、上記の時代区分にしたがって、幾何学様式時代、アルカイック時代、クラシック時代のそれぞれにおける壷絵の代表的な作例を紹介する。美術史では様式の変遷が研究の主要な課題になるが、幾何学様式時代、アルカイック時代、クラシック時代のそれぞれの時代に、幾何学式、黒像式、赤像式が ほぼ対応することを基本事項として記憶して欲しい。

幾何学様式時代=幾何学式

アッティカ後期幾何学式アンフォラ:哭礼図 前七六〇年頃 アテネ出土 高さ155cm アテネ国立考古博物館
Source: Pottery and Minor art Collection

アルカイック時代=黒像式

・エクセキアス《ペンテシレイアを殺害するアキレウス》(アッティカ黒像式頚部アンフォラ) 前五三〇年頃 ヴルチ出土 高さ41・3cm 大英博物館

クラシック時代=赤像式

メイディアスのサインのある赤像式ヒュドリア 前四二〇―四〇〇年頃 アテネ出土 52・5cm 大英博物館

先に、美術史的な分析に即した年代設定を行なう道もあることを述べた。ここでは、壷絵における黒像式と赤像式との交代時期が、あたかもアルカイック時代とクラシック時代に対応しているかのように解説しているが、事実はそうではない。より実態に即するならば、先行する作例である黒像式の壷絵はクラシック時代にも行なわれるし、赤像式の壷絵は、アルカイック時代の末期には既に登場するのである。実制作の現実は、二つの時代を区分しているペルシア戦争の終結を画期とはしないのである。こうした事情は、私たちが現代史を振り返るとき、第二次大戦を画期として、戦前、戦後という語り方を広く行なっているが、文化史的な連続性と切断がそれとは必ずしも一致しない事実を想像してみれば、類推しやすいだろう。赤像式の壷絵はアテネにおいて、前五三〇年頃に発明されたと言われている(John Boardman, "Greek Art" London: Thames and Hudson, 2nd ed. 1985: 92.)。

1−1−2.大理石の女神像

ヘレニズムの語源は、ギリシャ語のヘレネス(ヘレンの子孫の意で、ギリシャ人を指す)である。このヘレンは、父デウカリオンと母ピュラを両親とするが、ピュラの両親をさらに遡ると、プロメテウスの弟エピメテウスと、「パンドラの箱」で知られるパンドラ(人類最初の女性)である (プロメテウスは禁を犯して人類に火を与えたことで知られる)というように、ヘレンの子孫を名乗ることはギリシャ人を神話世界へと結びつける。ヘレネスはギリシャ人が自称するときの呼び名であった。転じて、ヘレニズムは「ギリシャ風の」という意味で使用され、アレクサンドロス大王の東方遠征によって東方に伝播したギリシャ文化が、同地のオリエント文化と融合することによって誕生した新しい文化を指す。

ヘレニズム時代は、先に紹介した通り、アレクサンドロス大王の没後からギリシア最後の王朝が滅亡するまでの、イエス・キリスト誕生前夜の約三世紀間に相当する。ルーヴル美術館を代表し、またギリシャ美術をも代表する《サモトラケのニケ》と《ミロのヴィーナス》はこの時代の作例である。彫像については、アルカイック時代、クラシック時代にもそれぞれ作例がある。また、ギリシャ美術の彫像は大理石以外に、ブロンズ製のものも現存する。その代表的なものは、アテネ国立考古博物館が所蔵する《アルテミシオンのゼウス》である。 同像はクラシック時代の作例である。

《サモトラケのニ ケ》、前一九〇年頃、ギリシャ、サモトラケ島出土、大理石、高さ245cm、ルーヴル美術館

《ミロのヴィーナ ス》、前一〇〇年頃、ギリシャ、メロス島出土、大理石、高さ204cm、ルーヴル美術館

《アルテミシオンのゼウス》、前四六〇年頃、ギリシャ、エウボイア島、アルテミシオン岬沖出土、ブロンズ、高さ209cm、アテネ国立考古博物館
Source: National Museum of Athens
 

なお、ウィキペディアには「ギリシア美術」の項があり、内容も充実している。 アルカイック時代とクラシック時代の間に厳格様式時代を挿入して五期に分類しているほか、ここに触れなかった建築についての記述があるので、特に参照を薦める。

1−2.ローマ美術

西洋史が整理するところでは、二八六年、ローマ帝国はディオクレティアヌス帝によって東西に分割され、その後西ローマ帝国は四七六年まで存続し、東ローマ帝国は一四五三年まで存続する。例えば、ウィキペディア「西ローマ帝国」の項を見れば、中世は四七六年、西ローマ帝国が滅亡したのち、西ヨーロッパが迎えた新しい時代を指すことになっている。しかし、美術史の都合では、冒頭に述べた通り、ローマ帝国の首都がコンスタンティノポリス、すなわち、現在でもEUへの加盟が問題視されているトルコへと移った時点 (三三〇年)から、ビザンティン美術が勃興するというかたちで整理し、しかもビザンティン美術はキリスト教美術という新たな括りで考えるので、ギリシャ美術との関連において把握されるローマ美術としては、ローマ帝国自体の衰亡よりも 一足早い段階で区切りを入れられる。しかしながら、先にも断りを入れられた通り、この区切りはローマ美術そのものの終焉を意味しない。

ではこの三三〇年という年を私たちのローマ美術の「開かれた」終息地点として採用するとして、それでは開始点はどこに求められるか。ローマ帝国は、前二七年に帝政を開始した時点に始まる。では帝政の前は何だったか。共和政である。ローマで共和政が開始されるのが、前五〇九年。そして、ローマが都市化するのは、前七世紀頃、タルクィニウス王朝がローマを支配するようになってからだと言われる(青柳正規「概論」、『世界美術大全集5 古代地中海とローマ』、小学館、一九九七年、一三頁)。都市化と共和政を経て帝国の首都にまで成長したローマ。その首都の地位をコンスタンティノポリスに奪われるまでのローマを中心とした美術がローマ美術と言ってよいのだろうか。すなわち、開始点は前七世紀頃か。結論から言えば、前段でギリシャ美術に見たような時代区分を前七世紀から四世紀までに設定して様式の推移を観察するのは、困難であるようだ。青柳氏によれば、ローマ美術の特色が認められるようになるのは、前二世紀末、《ドミティウス・アエノバルブスの祭壇》まで待たねばならない。それ以前については、例証するのに十分な史料がなく、美術の推移を跡づけることが困難であるという。さらに、ローマ美術をめぐる困難は、その急速度の成長からももたらされる。一地方都市から、西地中海、最終的には地中海世界の全域を支配する帝国に成長したローマの美術は、その急速な成長のうちに、さまざまな地域の文化を包摂したが、それらが一元化されることは決してなかったのである。青柳氏は同書で「ギリシア美術と比較するなら不可能でさえある」と述べている(一六頁)。しかし続けて、政治的に統一された国家であり、三世紀間を超えて存続したこともまた事実である、とも述べられている通り、私たちは、ギリシャ美術に見たような整理が成立しない事情を理解した上で、政治史上の分類を採用してみる。

前七五三年〜

 〈王政ローマ時代〉:美術史的史料の不足

前五〇九〜

 〈共和政時代〉:美術史的史料の不足(前一〇〇年頃まで)

前二七年〜

 〈帝政ローマ時代〉

〜三三〇年

ギリシャ美術が、ペルシア戦争の終結やアレクサンドロス大王の没年など政治史的契機によって区分されつつも、「幾何学様式」、「アルカイック」、「クラシック」、「ヘレニズム」と美術史的な観点を反映させた時代区分を持っていたのに対し、ローマ美術については、政治体制の違いのみが前面に出ることとなった。なお、帝政期については、初代皇帝アウグストゥス以下、各皇帝の治世として整理することも行なわれる。

1−2−1.皇帝像

先に引いた『世界美術大全集5 古代地中海とローマ』では章を変えてアウグストゥス時代の美術についても語られている。そこではアウグストゥス様式なる言葉も登場する。それは、個々の造形的な語彙においてはギリシャ美術を利用し、それらをまとめあげる全体構想においてローマ美術の特質が認められる、統治理念の表出としての美術様式であるという(青柳正規「共和政末期から帝政の確立へ」、二五〇頁)。

他方、ローマ美術が担ったプロパガンダとしての役割は、その重要な特質と考えられる。さまざまな文化風土や言語を混在させる広大な帝国であったローマは、その皇帝の姿を視覚的に表象し、共通理解を醸成する必要があった。皇帝像はそうした理由から多数制作された。

アウグストゥス立像 後一四―二九年頃 イタリア、プリマ・ポルタ、リウィアの別荘出土 大理石 高さ204cm ヴァティカン美術館
Source: Augustus and the Early Roman Empire

アウグストゥス立像 ※別の角度からのイメージ
Source: AUGUSTUS: IMAGES OF POWER

トガ姿のアウグストゥス像 コピー 原作は紀元前後 ローマ、ラビカナ街道出土 大理石 高さ207cm ローマ国立博物館 ※イメージは胸部のみ
Source: Portaet, roemisch, kaiserzeitlich, benannt

それぞれ、ヘレニズム美術の影響が顕著である一方で、例えばプリマ・ポルタ出土のアウグストゥス像の胸部の浮彫りは、アウグストゥス自身の戦勝を絵解きしたものであり、プロパガンダとしてのローマ美術の特色が認められる。


2.中世

西洋史における中世の始まりは、先にも述べた通り、西ローマ帝国が滅ぶ四七六年を区切りとしている。もともとこの中世という時代区分は、古代、中世、近代という三区分として十五世紀のイタリアで人文主義者たちが使い始めたとされる(Encyclopedia Britanica, 15th ed. Chicago, 1980: VI 869.)。当時のイタリアは、西洋社会におけるギリシャ=ローマ的な文化の伝統を再興させる運動、すなわちルネサンスの渦中にあった。人文主義者たちは、古代と近代を結びつけ、その間の時代を中世と呼び、古代からの伝統が休止していた時代と見做した。

したがって必然的に中世の終焉は、ルネサンスの開始時期と一致する。しかしまたこのルネサンスの開始時期については、定説を見ないようである。一般には十五世紀とされるが、美術史家パノフスキーは、一四〇一年のフィレンツェ洗礼堂のブロンズ扉の競作を画期とする慣例に挑戦して、カロリング朝ルネサンス(八―九世紀)やオットー朝ルネサンス(十―十一世紀)の存在を証明した(E. Panofsky, "Renaissance and Renaissances in Western Art")。私たちが古代の画期を考える際に底本とした『カラー版西洋美術史』では、画家ジォットについて「ルネサンスの礎を築いた」としながらも、中世のゴシック美術に含めている(六四頁)。他方、パノフスキーの研究を引いてルネサンスの年代の幅広さを紹介しているポール・デューロらの『美術史の辞典』(邦訳:東信堂、一九九二年)では、ルネサンス絵画をジォット(一二六七頃―一三三七)から始めるべきだと主張する(三八三頁)。また、古代の節より話題にしてきた東ローマ帝国の滅亡した一四五三年を中世の終焉と捉えるとなると、以上に紹介してきた美術史上の観察との異同が遅れとなって立ち現れるので、混迷は増すばかりと言ってもよいかも知れない。

そこで、以上の錯綜した背景を理解した上で、ここでも便宜的な年代設定を採用し、以下の通りにそれぞれの用語を充当する。

◆大区分

三三〇年(コンスタンティノポリスへの遷都)〜 ※西洋史では四七六年(西ローマ帝国滅亡)

 〈中世〉

一四〇一年(フィレンツェ洗礼堂ブロンズ扉の競作)

◆小区分1

七〇年(第一次ユダヤ戦争終結)〜

 〈初期キリスト教美術〉

四七六年(西ローマ帝国滅亡)

◆小区分2

三三〇年(コンスタンティノポリスへの遷都)〜

 〈ビザンティン美術〉

一四五三年(東ローマ帝国滅亡)

◆小区分3

九五〇年〜

〈ロマネスク美術〉

一二七〇年

◆小区分4

一一三〇年〜

〈ゴシック美術〉

一五〇〇年

大区分の中世は、あくまでも本講義における特殊な時代設定であり、学生の理解の便宜のためのものであることはあらためて強調しておく。社会の常識では、中世は四七六年からであることも合わせて覚えておくと良い。「中世」をルネサンス以前のキリスト教美術とほぼ同義のものとして整理する都合上、開始時期を遡らせているのである。

三三〇年を境にそれ以前を「古代」、以後を「中世」として整理してみるとき、その両方にまたがって存在するのが初期キリスト教美術(七〇年〜四七六年)である。

また、三三〇年から始まるビザンティン美術は、大区分の中世の終期である一四〇一年を越えて一四五三年まで続く。

さらに、この中世の全体を包摂するビザンティン美術の時代の後半には、小区分3のロマネスク美術が誕生し、終焉する(九五〇年〜一二七〇年)。

また、このロマネスク美術の終焉に先立って小区分4のゴシック美術が誕生し、中世よりもビザンティン美術よりも長く、一五〇〇年というルネサンスの半ばまで続く。

こうした不整合がなぜ起こるのか。一つの理由としては、先にも古代ギリシャの壷絵について見たとおり、文化史的な実践がそれぞれの時代に相重なるものであることを想起すべきである。ここでは音楽について類例を考えてみよう。一九八〇年代後半、東京では「マハラジャ」や「キング&クイーン」などのディスコを震源としてユーロビートの全盛期があった。このディスコはバブル崩壊とともに衰退していくが(六本木のディスコはカラオケ店やモツ鍋屋へと改装されていった)、こうした若者文化自体はその後、ハウス・ミュージックや、クラブ・シーンへと移行していく。そこでは担い手である若者自体の推移があるし、震源となった店そのものの盛衰もある。

同様に(?)、中世の西洋美術史が対象としている地域はギリシャ時代と比べて大変広範になっている。また、ローマ時代とも異なって、政治や文化の中心地の多極化が顕著である。パリやフランスの各地でゴシック美術がまだ行なわれている頃、イタリアのフィレンツェでは既にルネサンスが開始されているし、現トルコのコンスタンティノポリスを中心としたビザンティン美術が息長く継続している一方で、西ヨーロッパでは歴史上初めて西欧で生まれ、育ち、完成した「ヨーロッパ美術そのもの」と目されるロマネスク美術が誕生する。しかしこれらの全体が、例えばルネサンス絵画の中でもよく知られている作例ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》や《春》のように、キリスト教から見た場合、「異教の神々」であるヴィーナス(ギリシャ神話の美の女神)が主題となる時代とは異なって、これらの初期キリスト教美術からゴシック美術までが、一貫してキリストと聖母子を描き続けてきた点では一まとめにできる時代なのである。

2−1.初期キリスト教美術

初期キリスト教美術にもさらに区分がある。三一三年のミラノ寛容令によってキリスト教が公認される前と後の時代である。前者は「カタコンベ」の時代、後者は「勝利の教会」の時代、と呼ばれている。

カタコンベは、キリスト教徒が死者を埋葬するために作った地下墓所のことである。ローマを中心に地中海沿岸の全域に分布し、二世紀末から四世紀後半まで作られ、地中の迷路のように掘り巡らされている。この「カタコンベ」の時代の美術は、カタコンベの壁画や、石棺に施された彫刻、墓碑、聖油壜、燭台などの副葬品が中心である。

「勝利の教会」の時代は、キリスト教公認を受けて大規模な教会堂が各地に建てられるようになった時代である。その美術は、大理石による壁面装飾、色ガラスや金を使ったモザイクによる天井画、壁画などである。

《「よき羊飼い」の石棺》、四世紀後半、ヴァティカン、ピオ・クリスティアーノ美術館
Source: EARLY CHRISTIAN/"Good Shepherd" Sarcophagus

《サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂アプシス》、ローマ
Source:Basilica di Santa Maria Maggiore - Chiese di Roma

2−2.ビザンティン美術

先述の通り、三三〇年にローマ帝国はその首都をコンスタンティノポリスへ遷都。その後、二八六年に東西に分割された後は、首都をコンスタンティノポリスとする一帯は東ローマ帝国として一四五三年まで存続する。この東ローマ帝国の別称としてビザンティン帝国という呼び名があり、ビザンティン美術とは、このビザンティン帝国の美術である、と整理できる。ビザンティンという呼び名は、帝都の旧名ビュザーンティオンに由来する。

およそ一一〇〇年間に渡る長期間の時代と広範な地域を対象とするため、その整理分類は困難を極めるかと思われるが、全体としては、「変化が少なく、後代まで様式や図像の一貫性を保ち続けた」と紹介される。

《デイシス》、アギア・ソフィア大聖堂 南階上廊モザイク、十三世紀後半
Source:ArtLex on Byzantine Art

《聖母子》、一二三〇年頃、テンペラ・板、金地、メトロポリタン美術館
Source: The Glory of Byzantium | The Metropolitan Museum of Art

《マクシミアヌス司教座》、五四五―五三年頃、 象牙、150×60.5cm、ラヴェンナ、大司教館付属美術館
Source:Early Christian and Byzantine Art

デイシスは、ギリシャ語で、「祈り、嘆願」の意。キリストを中央に、左に聖母、右に洗礼者ヨハネが描かれている。

2−3.ロマネスク美術

ロマネスクとは「ローマ風の」を意味する。当初、「ローマ美術に及ばないもの」という否定的な意味で用いられていたが、その後ロマネスク美術の独創性に対する理解が進み、現在では否定的な含意はなくなった。初出は十九世紀初頭(長塚安司「ロマネスク美術の形成」、『世界美術大全集8 ロマネスク』、小学館、一九九六年、二九頁)。

長塚氏によれば、ロマネスク美術は三期に分けられる。九五〇年頃から一〇六〇年頃までが初期ロマネスク、一〇六〇年頃から一一五〇年頃までが盛期ロマネスク、一一五〇年頃から一二七〇年頃までが後期ロマネスクである(前出、二九―三〇頁)。

《聖女フォアの聖遺物箱》、九八五年頃、木に鍍金、エマーユ、高さ85cm、コンク、サント・フォア修道院聖堂
Source: CONQUES : visite du trésor d'orfèvrerie

《ヴェズレー、サント・マドレーヌ修道院聖堂 西正面中央扉口》、一一二五年頃、フランス
Source: Romanes.com: Basilique de Vézelay par emmanuel PIERRE

2−4.ゴシック美術

ゴシックもまた、当初は否定的な意味で用いられていた。「ゴート人の」を意味するこの言葉は、ルネサンス時代の人々によって、暗黒時代の野蛮な遺物を指す蔑称として、ゲルマン系部族による地方建築をローマ人による建築から区別するために用いられ、十九世紀に入って中世美術が再評価されるまで長く用いられていた。現在では、十二世紀後半から十五世紀までの美術全般を指す用語として、かつての否定的含意や特定民族の制作物を指すものではなくなった(『カラー版西洋美術史』、六一頁)。

・ジォット《マギの礼拝》、「キリスト伝」より、一三〇四〜〇五年、フレスコ、200×185cm、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂
Source: Web Gallery of Art/ Scenes from the Life of Christ: No. 1-5

・ジォット《エジプトへの逃避》、同上
Source: Web Gallery of Art/ Scenes from the Life of Christ: No. 1-5

・ジォット《キリストの磔刑》、同上
Source: Web Gallery of Art/ Scenes from the Life of Christ: No. 18-23

・ジォット《キリストの死への哀悼》、同上
Source: Web Gallery of Art/ Scenes from the Life of Christ: No. 18-23

・シモーネ・マルティーニ《受胎告知》、一三三三年、テンペラ・板、265×305cm、ウフィツィ美術館
Source: Web Gallery of Art/ The Annunciations

・ランブール兄弟《10月》、「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」より、1416年以前、写本装飾、29×21cm、、シャンティイ、コンデ美術館
Source: Web Gallery of Art/ LIMBOURG brothers (Herman, Jean, Paul)

・ランブール兄弟《十二宮》、同上
Source: Web Gallery of Art/ LIMBOURG brothers (Herman, Jean, Paul)

《視覚》、「一角獣を連れた貴婦人」 より、15世紀末、タピスリー、312×330cm、パリ、国立中世美術館
Source: Web Gallery of Art/ MASTERS, unknown French weavers

《わがただ一つの望みに》、「一角獣を連れた貴婦人」 より、15世紀末、タピスリー、376×473cm、パリ、国立中世美術館
Source: Web Gallery of Art/ MASTERS, unknown French weavers


この講義で使用された美術史の用語

タブロー

テンペラ

カンヴァス

フレスコ画

モザイク壁画

幾何学様式

アルカイック

クラシック

ヘレニズム

様式

初期キリスト教美術

カタコンベ

アプシス

ビザンティン

デイシス

ロマネスク

聖遺物

ゴシック

写本

タピスリー

この講義で紹介した作家

エクセキアス

ジォット

シモーネ・マルティーニ

ランブール兄弟