<第二講> 西洋美術史(二)ルネサンス
0.ルネサンスの始まり
前節で、中世の終焉とルネサンスの始まりの画期を成す出来事を、一四〇一年のフィレンツェ洗礼堂のブロンズ扉の競作とする慣例を採用した。すでに述べた通り、この慣例はパノフスキーによって画期としての正当性を疑問視されている。
それでもなお、この競作をめぐる物語を耳に入れておくことはルネサンスの息吹を感じることに少なからず貢献するだろう。
一四〇一年のフィレンツェ洗礼堂のブロンズ扉の競作とは、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の制作者を決めるためのコンクールだった。主催は同洗礼堂を管轄していたカリマーラ組合(毛織物取引商)。最優秀者一人に発注される。参加者は一年以内に「イサクの犠牲」を主題とした試作品を提出することになっていた。コンクールには、フィレンツェを中心とするトスカーナ地方から七名の応募があり、三十四人の審査員による選考に、年少のギベルティとブルネレスキが残り、最終的には最年少者ギベルティが勝者となった (森雅彦「ギベルティとドナテッロ」、『世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1』、小学館、一九九二年、七四頁)。
主題になっている「イサクの犠牲」は、旧約聖書正典の一つ『創世記』に出てくる物語である。アブラハムと妻サラは神から待望の子供を授かり、イサク(笑い)と名づける。一家は平和に暮らしていたが、ある日、神は「息子を山上で焼いて捧げよ」と命ずる。アブラハムはイサクを山へ連れて行き、祭壇の上でその喉もとに小刀を当てる。その瞬間、天使が現れてその手を止め、「汝が神を畏れる者であることがよくわかった」という神の声がした。その後、アブラハムたちは牡羊を生贄にして神に捧げた(諸川春樹監修『カラー版 西洋絵画の主題物語 T聖書編』、美術出版社、一九九七年、二三頁)。
・ギベルティ《イサクの犠牲》、(別図)、一四〇一―〇二年、ブロンズ、鍍金、45×40cm、フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館
Source: Web Gallery of Art/ GHIBERTI, Lorenzo; Wikipedia/ Image:Ghiberticompetition.jpg・ブルネレスキ《イサクの犠牲》、一四〇一―〇二年、ブロンズ、鍍金、45×40cm、フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館
Source: Web Gallery of Art/ BRUNELLESCHI, Filippo・ギベルティ《洗礼堂北側門扉》、一四〇三―二四年、ブロンズ、鍍金、457×251cm、フィレンツェ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂
Source: Web Gallery of Art/ GHIBERTI, Lorenzo本講義ではルネサンスを十五世紀および十六世紀の二百年間を指すものとする。そして一四〇〇年から一五〇〇年までの一世紀間を初期ルネサンス、一五〇〇年から一五三〇年までの三〇年間を盛期ルネサンスと呼び、一五三〇年から一六〇〇年までをマニエリスムと呼ぶ。 このマニエリスムの時代はまた「後期ルネサンス」と呼ばれる場合もある(森田義之「初期ルネサンスの美術と社会」、『世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1』、小学館、一九九二年、九頁)。
以上のように三期に分けられるルネサンスは、イタリアを中心とした時代区分である。前章で見た通り、十五世紀半ばまでは東ローマ帝国が存在しているし、イタリア以外の地域ではゴシック美術の時代として分類される。
ところでこのルネサンスが、フランス語であるという事実は記憶されてよい。同様の意味を表すイタリア語は「リナシッタ rinascita」である。ではなぜイタリアで始まった文芸復興の運動を指す言葉にフランス語が用いられるのか。それは、歴史概念としてこの言葉を先に用いたのがフランス人だったからである。フランス人の歴史家ジュール・ミシュレが一八五五年の著書『フランス史』でこれを用いたのが最初だと言われている。続いてスイス人の歴史家ヤーコプ・ブルクハルトが『イタリア・ルネサンスの文化』(Die Kultur der Renaissance in Italien, 1860)で、文化史の概念として定着させた(森田義之、前出、九頁)。
1.初期ルネサンス
前章で、古代の前に先史時代を置いた。ここで言う初期ルネサンスもそのように理解されたい。つまり、盛期ルネサンスより以前を初期ルネサンスと呼んでおり、それ以後を後期ルネサンスと呼ぶ代わりにマニエリスムと呼んでいる、という具合の理解で、さしあたってはよい。例えば、以下に紹介するフラ・アンジェリコもピエロ・デラ・フランチェスカもボッティチェリも日本では大変人気の高い画家であると言えるが、盛期ルネサンスのレオナルドやミケランジェロ、ラファエロらはこうした画家たちと一線を画す三大巨匠であるという整理がなされていることを先ずは受け入れよう。
・フラ・アンジェリコ《受胎告知》 フレスコ 一四三〇年代後半 250×321cm フィレンツェ、サン・マルコ修道院
・ピエロ・デラ・フランチェスカ《慈悲の聖母 (ミゼリコルディア祭壇画)》 一四四五―五五年 テンペラ・板 サンセポルクロ市立美術館
・ピエロ・デラ・フランチェスカ《モンテフェルトロ祭壇画(ブレラ祭壇画)》 一四七二―七四年 油彩・板 248×170cm ミラノ、ブレラ絵画館
・サンドロ・ボッティチェリ《プリマヴェーラ》 一四八二年頃 テンペラ・板 203×314cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・サンドロ・ボッティチェリ《ヴィーナスの誕生》 一四八五年頃 テンペラ・カンヴァス 172・5×278・5cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
2.盛期ルネサンス
盛期ルネサンスは時代区分としては大変に短い。一五〇〇年から一五三〇年までのわずか三〇年間でしかない。先ずはこの三〇年間がどのように確定されているかを確認しておこう。
以下に三巨匠の関連年譜を記す(参考:『世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1』巻末「歴史年表」)。
一四五二年 レオナルド、ヴィンチ村に生まれる。
一四七二年 レオナルド、フェイレンツェの聖ルカ同信会に登録される。
ヴェロッキオと《キリストの洗礼》を共作(―七三頃)。
一四七五年 ミケランジェロ、カプレーゼに生まれる。
一四八二/八三年 レオナルド、ルドヴィーコ・イル・モーロへの自薦状を携えてミラノへ。
一四八三年 ラファエロ、ウルビーノに生まれる。
一四九五年 ミラノのサンタ・マリア・グラツィエ修道院の《最後の晩餐》に着手(―九八年)。
一四九六年 ミケランジェロ、ローマに出る。《バッカス像》(―九七年)
一五〇〇年 レオナルド、フィレンツェに移る。
一五〇一年 ミケランジェロ、フィレンツェに戻る。 共和国より委嘱された《ダヴィデ像》に着手(―〇四年)。
一五〇四年 ラファエル、フィレンツェに移る。
一五〇六年 レオナルド、ミラノへ。
一五〇八年 ラファエロ、ヴァティカン宮装飾のためローマへ。 「署名の間」の壁画に着手(―一一年)。
一五一三年 レオナルド、ローマへ。
一五一六/一七年 レオナルド、フランソワ一世に招聘され、ローマを去る。
一五一九年 レオナルド、アンボワーズにて死去。
一五二〇年 ラファエロ、ローマにて死去。
一五三一年 ミケランジェロ、メディチ礼拝堂のため《夜》《夕》《昼》などの彫像完成。
一五三四年 ミケランジェロ、《最後の審判》制作のためローマへ。
一五六四年 ミケランジェロ、ローマにて死去。
一五〇〇年以前に生まれた三巨匠は、一五〇〇年のレオナルドのフィレンツェ入りを筆頭に続々と同地に集まってくる。しかし、フィレンツェでの滞在期間は意外と短く、〇六年にはレオナルドが、〇八年にはラファエロが同地を後にする。そして最後に同地を後にしたのはミケランジェロで三四年。しかし、それ以前の一九年にはレオナルドが、翌二〇年にはラファエロが既にこの世を去っていた。このように短い交差と接触を画する時間が、一五〇〇年から一五三〇年までのわずか三〇年間に割り当てられた盛期ルネサンスという時代なのである。その中心地はフィレンツェ、そしてローマのヴァティカン宮であった。
2−1.レオナルド
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《キリストの洗礼》(ヴェロッキオ作への参与) 一四七二―七三年 テンペラ、油彩・板 177×152cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》 一四七二―七三年頃 油彩・板 104×217cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《東方三博士の礼拝》 一四八一―八二年 油彩・板 246×243cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《ヴィトゥルヴィウスの人体比例》 一四九二年 ペン、インク、水彩・紙 34・3×24・5cm ヴェネツィア、アカデミア美術館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》 一四九五―九七年 油彩、テンペラ 460×880cm ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖アンナと聖母子(画稿)》 一四九八年 木炭、鉛白・紙 139×101cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》 一五〇三―〇五年頃 油彩・板 77×53cm パリ、ルーヴル美術館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖アンナと聖母子》 一五〇 八―一〇年頃 油彩・板 168×112cm パリ、ルーヴル美術館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖アンナと聖母子》 一五一二年頃 油彩・板 198×123cm パリ、ルーヴル美術館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《自画像》 一五一二年頃 赤チョーク・紙 33・3×21・3cm トリノ、王室図書館
・レオナルド・ダ・ヴィンチ《洗礼者聖ヨハネ》 一五一三―一六年頃 油彩・板 69×57cm パリ、ルーヴル美術館
2−2.ミケランジェロ
・ミケランジェロ《最後の 審判》(礼拝堂全体)、《最後の審判》 一四七五―八三、一五〇八―一二、一五三五―四一年 ヴァティカン、システィーナ礼拝堂
・ミケランジェロ《ピエタ像》 一四九九年 大理石 高さ174cm ヴァティカン、サン・ピエトロ大聖堂
・(ミケランジェロ派)《聖母子と幼児聖ヨハネ、4人の天使(マンチェスターの聖母)》 一五〇一―〇五年 テンペラ・板 102×76cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・ミケランジェロ《聖家族》 一五〇三―〇四年 テンペラ・板 直径120cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・ミケランジェロ《ダビデ像》 一五〇四年 大理石 高さ434cm フィレンツェ、アカデミア美術館
・(ミケランジェロ派)《キリストの埋葬》 一五一〇年頃 テンペラ・板 159×149cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・ミケランジェロ《モーセ像》 一五一五年頃 大理石 高さ235cm ローマ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂
・ミケランジェロ《メディチ家の墓碑(ジゥリアーノ)》 一五二〇―三四年 大理石 フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ礼拝堂
・ミケランジェロ《メディチ家の墓碑(横臥像:夜)》 一五二六―三一年頃 大理石 フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ礼拝堂
・ミケランジェロ《メディチ家の墓碑(横臥像:昼)》 一五二六―三一年頃 大理石 フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ礼拝堂
・ミケランジェロ《囚われ人(粘液質)/反抗する奴隷》 一五一三年頃 大理石 高さ215cm パリ、ルーヴル美術館
・ミケランジェロ《囚われ人(多血質)/瀕死の奴隷》 一五一三年頃 大理石 高さ229cm パリ、ルーヴル美術館
2−3.ラファエロ
・ラファエロ《モンドのキリストの磔刑》 一五〇二―〇三年頃 油彩・板 280・7×165・1cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・ラファエロ《騎士の夢》 一五〇四―〇五年 油彩・板 17×17cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・ラファエロ《自画像》 一五〇六年 油彩・板 45×33cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・ラファエロ《美しき女庭師》 一五〇七年 油彩・板 122×80cm パリ、ルーヴル美術館
・ラファエロ《鶸の聖母》 一五〇七年 油彩・板 107×77cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・ラファエロ《アテネの学園》、《アテネの学園》(署名の間) 一五〇九―一〇年 底辺814cm 高さ588cm フレスコ ヴァティカン、署名の間
・ラファエロ《教皇ユリウスII世》 一五一一―一二年 油彩・板 108×80・7cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・ラファエロ《システィーナの聖母》 一五一三―一四年 油彩・カンヴァス 265×196cm ドレスデン、国立絵画館
・ラファエロ《小椅子の聖母》 一五一四年 油彩・板 直径71cm フェイレンツェ、ピッティ美術館
・ラファエロ《カスティリオーネの肖像》 一五一四―一五年頃 油彩・板 82×67cm パリ、ルーヴル美術館
・ラファエロ《奇跡の漁獲》 一五一五年 水彩・紙 319×399cm ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館
・ラファエロ《キリストの変容》 一五一八―二〇年 油彩・板 405×278cm ヴァティカーノ絵画館
3.ヴェネツィア派
十四世紀から始まる初期ルネサンスは、イタリア各地にも波及した。例としてウルビーノ、フェッラーラ、マンドヴァ、ミラノなどの諸都市が挙げられる。そうした中でも、群を抜いて芸術文化の中心地に成長したのがヴェネツィアである。強大な海軍の力を背景にヴィザンティン世界との貿易をほぼ独占し、莫大な富を築いた(森田義之「ルネサンス期ヴェネツィアの美術と社会」、『世界美術大全集13 イタリア・ルネサンス3』、小学館、一九九四年、九頁)。以下に紹介する作家はフィレンツェ=ローマを中心に設定された盛期ルネサンス、そしてその後のマニエリスムの時代にヴェネツィアで活躍した作家たちである。
・ジョルジョーネ《眠れるヴィ−ナス》 一五一〇―一一年 油彩・カンヴァス 108・5×175cm ドレスデン、国立絵画館
・ティツィアーノ《ウルビ ーノのヴィーナス》 一五三八年 油彩・カンヴァス 119×165cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・ティントレット《キリストの哀悼》 一五五九年頃 油彩・カンヴァス 226×292cm ヴェネツィア、アカデミア美術館
・ティントレット《最後の晩餐》 一五九二―九四年 油彩・カンヴァス 365×568cm ヴェネツィア、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会
4.北方ルネサンス
イタリアを中心として考えるルネサンスも、決して同国のみで完結するものではなかった。西ヨーロッパにおける、北と南、現在のドイツやオランダ、ベルギーを中心とする北方と、イタリアの南方との間には作家の行き来や、技法や主題の伝播などの文化の交流があった。十五、十六世紀におけるドイツ、ネーデルラント(現オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、フランスのこの時代の美術を北方ルネサンスと総称する。
・アルブレヒト・デューラー《自画像》 一五〇〇年 油彩・板 六七・一×四八・七 cm ミュンヘン、アルテ・ピネコテーク
・アルブレヒト・デューラー《アダムとエヴァ》 一五〇四年 銅版 25・2×19・5cm
・アルブレヒト・デューラー《メランコリ アT》 一五一四年 銅版 24・3×18・7cm
・マティアス・グリューネヴァルト《イーゼンハイム祭壇画》 (部分図:右手 ) (部分図:足) 一五一五年頃 油彩・板 コルマール、ウンターリンデン美術館
・ルーカス・クラナハ(父)《ヴィーナスとキューピッド》 一五三〇年 油彩・板 81・3×54・6cm ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・作者不詳(フォンテーヌブロー派)《化粧するヴィーナス》 一五五〇年頃 パリ、ルーヴル美術館
・ピーテル・ブリューゲル(父)《バベルの塔》 一五六三年 油彩・板 114×155cm ウィーン、美術史美術館
5.マニエリスム(後期ルネサンス)
マニエリスムという言葉は、イタリア語で「手法」を意味するマニエラに由来している。十七世紀半ば、古典主義者ピエトロ・ベッローリが、一五二〇年のラファエロの死から一五九〇年代のアンニバーレ・カラッチ登場までの期間を、マニエラに支配され、型にはまった「絵画の暗黒時代」、すなわち「マンネリズムの時代」と非難したことから始まった。二〇世紀初頭に再評価され、ロマネスクやゴシックと同様、現在ではこうした否定的な意味合いはなくなった(若桑みどり「マニエリスムの概念とその展開」、『世界美術大全集15 マニエリスム』、小学館、一九九六年、九―一二頁)。
・ポントルモ《十字架降下》、一五二五―二八年、油彩・板、313×192cm、フィレンツェ、サンタ・フェリチタ聖堂
Source: Web Gallery of Art/ Decoration of the Cappella Capponi in Santa Felicità in Florence・パルミジャニーノ《長い首の聖母》、一五三五年、油彩・板、216×132cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
Source: Web Gallery of Art/ PARMIGIANINO・アーニョロ・ブロンズィーノ《「愛」の勝利の寓意(ヴィーナスの勝利)》、一五四〇―四五年、油彩・板、147×117cm、 ロンドン、ナショナル・ギャラリー