第四講 フィリッポ・リッピ/ベルリーニ
1.はじめに
2.フィリッポ・リッピ
「カルメル会士のフラ・フィリッポ・ディ・トンマーゾ・リッピは、フィレンツェのアルディリオーネという界隈で生まれた。ククーリア地区の下手で、カルメル会僧院の裏手にあたる。父親のトンマーゾが死んだので、彼は齢2歳の時に、誰も親身に世話を焼いてくれる人のいない孤児となってしまった。というのは、母親は彼を産んだ直後に亡くなったからである。それでこの子は父親トンマーゾの姉で彼の伯母にあたるラパッチャ婆さんの手もとにあずけられた。伯母は非常な生活難にたえながらこの子を育てたが、8つになるともう世話を焼き切れなくなって、この子を先にふれた僧院に入れて坊さんにすることにした。その僧院では、手先の方はすこぶる器用で達者だったが、本を読む方はおよそ不得手で好学心もなく、自分の才能を学問に向けるとか、学問を友とするとかいった態度はまったく見られなかった。この子は世俗の名のフィリッポで呼ばれていたが、ほかの見習いの小坊主と一緒に文法教師のもとに置かれ、その知力を試されたが、勉強する代わりにいつも自分の本や他人の本に悪戯書きばかりしていた。それで僧院長はこの子に絵を習わせるよう、あらゆる便宜を取計らってくれたのである。」(p.93.)
・ローマ、国立古典絵画館、バルベリーニ宮殿
画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Bernini_PalazzoBarberini.jpg1. フィリッポ・リッピ《タルクィニアの聖母》、1437年、テンペラ・板、114×65cm、ローマ、国立古典絵画館、バルベリーニ宮殿
・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html2. フィリッポ・リッピ《聖母戴冠》、1441-47年、テンペラ・板、200×287cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
◆画人伝より(1)
「そのころカルミネ寺にはマザッチョが描き上げたばかりの礼拝堂があった。その礼拝堂の絵がすばらしく美しいのでフラ・フィリッポは非常に気に入り、毎日のようにそこへ気晴らしに通った。そしてそこでいつでも絵を描いている大勢の若者と一緒に絶えず絵の練習を積んだので、やがてほかの人々を器用さという点でも知識という点でもはるかに凌駕した。…(中略)…こうして日ましに技倆も進み、マザッチョの手法を体得したものだから、フィリッポの仕事はマザッチョの仕事に出来具合も似てき、世間ではマザッチョの霊がフラ・フィリッポの体内にのりうつったのだという噂が立ったほどであった。」(pp.93-94.)
・プラート大聖堂
画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Sansepolcro%2C_museo_civico%2C_esterno_02.JPG3. フィリッポ・リッピ《ヨハネの召命、両親との別れ、説教(洗礼者聖ヨハネ伝)》、1452-64年、フレスコ、プラート大聖堂
4. フィリッポ・リッピ《ヘロデの宴(洗礼者聖ヨハネ伝)》、1452-64年、フレスコ、プラート大聖堂
◆画人伝より(2)
「その反対側の壁面にはキリスト生誕、説教、洗礼、ヘロデの宴会、洗礼者ヨハネの斬首などの図を描いた。その説教してるヨハネの顔には、神々しい霊が宿っている様がはっきりと見て取れる。男たちや女たちは聖ヨハネの見事な説教に惹きつけられ、聞きほれている。洗礼の図も美しくすばらしい。ヘロデの宴会の図には宴会の壮麗、ヘロデヤの巧みさ、盆の上に斬った首を載せて差しだすという光景に招かれた客人たちが驚き、ひどく悲しんでいる様などが見て取れる。宴会の席には非常に美しい態度をした人々が多数描かれており、服装といい顔の表情といい、見事な出来ばえである。」(p.99)
・フィレンツェ、ピッティ美術館
画像ソース: http://www.pabaac.beniculturali.it/arteinmostra/index.php?act=m&id=653&opt=55. フィリッポ・リッピ《聖母子》、1452年頃、テンペラ・板、直径135cm、フィレンツェ、ピッティ美術館
◆画人伝より(3)
「彼は色欲に溺れることのはなはだしい男で、そうした情にとらわれた時は、自分が手がけた作品にたいしてもほとんど、あるいは全然注意を払わない始末であった。それでついにある時、コージモ・デ・メディチは自分の邸で彼に仕事をやらせようと思い、外へ遊びに出て時間をつぶすことのないよう、彼を室内に閉じこめた。しかしフィリッポは2日間もそこにいると、もう恋情、というか獣的な激情に駆られて我慢がならず、一夕、鋏でもってシーツを細く切り裂くと、窓からそれにつたって下へ降り、何日もの間放蕩に耽った。フィリッポの姿が見えないというので、コージモは彼を探させた挙句、連れ戻すことができた。そして彼の狂おしい性癖や彼の身の上に生じかねない危険を考えて、前に彼を閉じこめたことを後悔し、その後は自分の好き勝手に外出してもよいという自由を与えた。というわけで、それ以後コージモはフィリッポを愛情のきずなによって自分の手もとに引きとめるよう気をつかった。するとまたフィリッポも打てば響くように彼に仕えた。彼がいつも口癖のように言っていた言葉に、たぐい稀な傑出した天才というのは天上のものであって車曳き用の驢馬とは違う、という句があった。」(pp.95-96.)
※参考作品 ヤコポ・ダ・ポントルモ(1494-1556/57)《祖国の父コジモの肖像》、1519年頃、油彩・板、86×65cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html6. フィリッポ・リッピ《聖幼児への礼拝》、1453年頃、テンペラ・板、134×137cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
7. フィリッポ・リッピ《聖母子と二天使》、1457年頃、テンペラ・板、95×62cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
◆画人伝より(4)
「サンタ・マルゲリータ寺の尼たちから同寺の主祭壇画の板絵を製作するよう依頼されたが、その仕事をしている最中に、ある日フィレンツェ市民フランチェスコ・ブーティの娘を見かけた。女は修業のためか修道女としてか、その寺にいたのだった。フラ・フィリッポはいかにも優雅で美しいルクレーツィア――というのがその女の名前だったが――に目をかけると、修道尼たちにいろいろと工作して、ルクレーツィアの肖像を描いてそれを聖母の像とし、それをお寺の作品とするという許しを得た。そしてその機会にますます深く女に恋するようになり、いろいろの手段を講じて働きかけたので、ついにそのルクレーツィアは正道を踏みはずして修道尼たちのもとを離れる気を起こした。そしてその町の聖遺物として大切にされている聖母の帯が展示されたのを見に彼女が外出したその日に、彼は彼女と手に手を取って駆落ちしてしまった。尼さんたちはこの事件で面目丸つぶれとなり、父親のフランチェスコはそれ以来心が晴れたことがなく、娘を取り戻すためにあらゆる努力を惜しまなかった。しかし娘は危惧の念からか、それともほかに理由があってからか、けっして父親のもとへ戻ろうとせず、むしろフィリッポと一緒にいることを望んだ。その2人の間に男子が生まれ、その子もまたフィリッポと呼ばれたが、のちには父親と同じようにたいへん秀れた有名な画描きとなった。」(pp.97-98.)
3.ベルリーニ
「人間のまことの才能に根ざした事柄は、最初には低級でつまらなく見えるが、代を経るごとに高みへと登って行き、栄光の頂きに登りつめるまで、止ったり休息したりはしない。その例は、ベルリーニの一族が、ひよわな取るに足らぬ出自から、絵画によって上昇して行く段階にはっきりと認められる。
さて、ヴェネツィアの画家ヤーコポ・ベルリーニはジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの弟子で、競争相手に、アンドレーア・デル・カスターニョに油彩の技法を伝授したドメーニコを持っていた。…(中略)… 天は、絵画における名声がベルリーニ一族ならびに子孫によって、いつまでも現状維持ではなく、さらに増大するように望み給うたのか、二人の子供がヤーコポに授かった。二人とも絵を大いに好み、かつまた輝かしい天才に恵まれていた。名を片やジョヴァンニ、片やジェンティーレという。」(p.105.)・ロンドン、ナショナル・ギャラリー
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Nationalgallery.jpg8. ベルリーニ《オリーヴ山での祈り》、1459年頃、テンペラ・板、81×127cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・ミラノ、ブレラ絵画館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Milano_Pinacoteca_di_Brera1.JPG9. ベルリーニ《ピエタ(悲しみのキリスト)》、1460年、テンペラ・板、86×107cm、ミラノ、ブレラ絵画館
・ヴェネツィア、クェリーニ・スタンパリア絵画館 2009/6/10 17:22撮影
10. ベルリーニ《キリストの神殿奉献》、1460-64年、テンペラ・板、80×105cm、ヴェネツィア、クェリーニ・スタンパリア絵画館
・パリ、ルーブル美術館
※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg11. ベルリーニ《キリストの磔刑》、1465年頃、油彩・板、71×63cm、パリ、ルーヴル美術館
・ヴェネツィア、アカデミア美術館 2009/6/4 11:00撮影
12. ベルリーニ《聖母子と聖女カタリナとマグダラのマリア》、1490年、油彩・板、58×107cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館
・ロンドン、ナショナル・ギャラリー
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Nationalgallery.jpg13. ベルリーニ《元首レオナルド・ロレダン》、1501-02年、油彩・板、61.6×45.1cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
14. ベルリーニ《牧場の聖母》、1500-05年、油彩・板(カンヴァスに移行)、67×86cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
◆画人伝より(1)
「最後にあげた物語図はヴェネツィアの通例に従って画布に描かれている。他の地方では一般に楓、一部には白ポプラと呼ばれる樹の板が用いられるが、ヴェネツィアでは稀である、この樹は主に河岸および水辺に育ち、質が柔らかで、絵具の乗りが実によく、のりではり合せて合板にすると反りがまったくこないからである。しかしヴェネツィアにおいては画板は作られない。稀に画板を作ることがあれば、樅の木の板しか使わない。アーディジェ川を通してドイツ領から大量に運ばれてくる樅材が、ヴェネツィア中にころがっているためである。スラヴ諸国から充分の供給があるのはいうまでもない。さて、ヴェネツィアでは画布を使うのがしきたりで、その理由としては、割れない、虫食いがない、好みのサイズの画布が得られる、あるいは別のところで言及したが、望みの場所へ手軽にごく安く送れるといったことがあげられる。」(p.106)
◆画人伝より(2)
「もっぱら肖像画ばかり描いていたから、その結果、人々がこの町でなにがしかの地位を得るようになれば、彼にばかりでなく他の画家にも肖像を描かせる風習の口火となった。そのためにヴェネツィアの各屋敷には肖像画があふれ、貴顕の家には、父、祖父さらには四代先までの肖像画が見られる。もっと身分があがると、さらに先の代まで描かれている。このような習慣は当然賞讃してよく、古典古代においてもそうであった。先祖の授かった位階勲等の他に、その肖像を眺めて満足にひたらない人がいようか。しかもその先祖が、共和国の政治、戦争あるいは平和に対する貢献、文芸その他における才能などによって著名であった人々であってみればなおさらではあるまいか。別のところで述べたように、古代人は偉大な人物の肖像を公共の場所におき、碑文を彫って偉大さをたたえた。その意図は、後世の人々の心を栄誉と才能に向かって燃え立たせる以外にあり得ないだろう。」(p.114)
・ヴェネツィア、サン・ザッカリーア聖堂
※画像ソース: http://www.museumplanet.com/tour.php/venice/zac/015. ベルリーニ《玉座の聖母子と聖人たち(サン・ザッカリーア祭壇画)》、1505年、油彩・板(カンヴァスに移行)、500×235cm、ヴェネツィア、サン・ザッカリーア聖堂
・ウィーン、美術史美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Maria-Theresien-Platz_in_Wien.jpg16. ベルリーニ《化粧する女》、1515年、油彩・板、62×79cm、ウィーン、美術史美術館
4.まとめ
フィリッポ・リッピとベルリーニ=女癖は悪いが腕の立つ僧侶画家と画家一家
フィリッポ・リッピ=「当時では誰にも凌駕されることのない傑出した画家であった」「彼は生きていた間は女性関係が絶えず、死ぬまで情事を楽しんでいた」
ベルリーニ=「2人の兄弟が袂を分かったのは独立して生活するためであったが、別れてもなお、おたがいに尊敬し合い、2人とも父を敬っていた」
コジモ・デ・メディチ:フィレンツェの銀行家、大パトロン
用語:サロメ/カンヴァス/肖像画/ヴェネツィア派/フィレンツェ派
フィレンツェ派(理知的)とヴェネツィア派(享楽的)
ヴァザーリの価値観:古典古代の習慣・芸術を賛美
ヴァザーリの記述:技法・ジャンルの紹介(カンヴァス、肖像画)
「美術家たちの歴史」と「美術作品の歴史」