多文化主義と国際美術展(四)
第十六回シドニー・ビエンナーレ
◆授業の目標
多文化主義における今後の課題を理解する。
国際美術展を歴史的に捉える視点を持つ。
1.多言語主義
◆三浦信孝編『多言語主義とは何か』(藤原書店、1997年)より
酒井直樹「多言語主義と多数性」
229頁。
英語の世界的な普及は、英語以外の外国語を学ぶ学生の数に影響を及ぼし、大学内の人事の在り方まで変えてしまう力をもっているのである。それは、かつて、帝国主義言語が世界中の大学のカリキュラムを決定していった来歴の延長で理解されるべき事態だ。日本語、フランス語、ロシア語といった旧帝国主義言語は、英米帝国主義に敗北した結果、英語へとその普遍性の座を受け[ママ]渡しつつある様に見える。もちろん、このことは、英語による他の諸言語の抑圧として、また英語による世界の情報の独占として、しばしば非難されている。
230頁。
国際性と普遍的な人間的価値を尊重する普遍主義が、同時に、国民・民族主体性の強調と国民文化と伝統の特殊主義的な重視を[ママ]帰結するといった、国際人であるためには国民主義でなければならないといった馴染み深い議論は、単なる偶然の流行ではない。この特殊主義においては、これらの「自然な」国民共同体の内部には、均質な文化的・言語的空間が成立していることになっており、したがって、この共同体ではしばしば言語的混成や多言語者が、本来性の欠如を示すものとして指弾される。
231頁。
そこで、現在求められているのは、国語主義や民族語主義に横領され、結局国民主義に回収されてしまうようなことのない仕方で英語帝国主義を批判する方策であり、国際的な英語の普及を非難しつつ自からの国民的同一性や国民文化の絶対視を持ち出してくる国民文化論者には一切手を貸すことのない、英語独善主義の告発の仕方を模索することであり、英語帝国主義が隠蔽している社会的抗争の歴史をいかに掘り起こしてゆくかについての理論的な見通しなのだ。
243-44頁。
『倫理学』で、和辻は国民共同体に帰属する者のあいだでは、お互いに相手の立場が「分かっている」こと、つまり、話し手と聞き手のあいだの相手の特定は相互に保証されてしまっていること、そして、この相互に保証されてしまっている事実そのものを個人の主体に国家の主体が内在することに等置した。私とあなたが「分かりあえる」ということが私とあなたがともに同じ国民国家に帰属することであることを、彼は、立証しようとしたのである。
244-245頁。
特にアメリカ合衆国のような(現在進行形の)帝国主義の特権によってその国民的統一を維持している国民国家では、エグゾティックな外国語を知っていること自身がコノサー的なある特権性を持ってしまっている場合が多いし、逆に、第三世界や一昔前の日本では、外国語(ほとんどの場合ヨーロッパ語)の知識は立身出世や上層階級の象徴であった。
244-245頁。
私たちは多言語主義をそのような安直な国際性の議論からはぎとらなければならない。たとえ、学ばされた言語がヨーロッパ語であったとしても、外国語を学ぶことによって得た知見があるはずであり、自国語の自己同一性が構成される仕方への批判的洞察があるはずであろう。それは外国語と自国語の相互浸透的な関係性に関する知見であろう。この知見にこそ多言語主義の可能性がある、と私は信じている。
2.第16回シドニー・ビエンナーレ
会期:2008年6月18日〜9月7日
会場:ニューサウスウェールズ州立美術館、現代美術館(MCA)、アートスペース、ピア2/3、コッカトー島、シドニー・オペラハウス、王立植物園
第16回展サイト: http://www.bos2008.com/app/biennale
※現在、第17回展が開催中(会期:2010年5月12日〜8月1日)
公式サイト: http://www.biennaleofsydney.com.au/
2-1. オーストラリア概要
2-2. シドニー中心部
3.作品紹介
3-1. ニューサウスウェールズ州立美術館
3-2. ジュゼッペ・ペノーネ(イタリア)《石の理念》 2004-07年
3-3. 第16回展のテーマ:革命―倒立するかたち
3-4. NSW州立美術館展示室
3-5. ゴードン・ベネット(オーストラリア)《無題(AGNSWのためのコンセプト)》 2008年、(部分1)、(部分2)、(部分3)
3-6. ネドコ・ソラコフ(ブルガリア)《生活(黒と白)》 1998年、(部分1)、(部分2)、(部分3)、(部分4)、(部分5)、(部分6)
3-7. マイケル・ラコウィッツ(USA)《白人は夢想しない》 2008年、(部分1)、(部分2)、(部分3)
3-8. サム・デュラン(USA)《これが自由か?》 2008年
3-9. サム・デュラン 作品解説
3-10. サム・デュラン《私たちの欲しいものは、私たちに聞け》 2008年
3-11. サム・デュラン《あなたが立っているのはインディアンの土地だ。少しは敬意を見せなさい》 2008年
3-12. レオン・フェラーリ(アルゼンチン)《西洋キリスト文明》 1965年、(部分1)
3-13. ドリーン・リード・ナカマーラ(オーストラリア)《無題》 2008年、(部分1)
3-14. マーク・ブーロス(USA)《硬いものもすべて大気に溶ける》 2008年、(部分1)、(部分2)、(部分3) *vimeo/ Mark Boulos
3-15. ナターシャ・サドル・ハギーギーアン(イラン)《塔》 2008年
3-16. ヴェルノン・アー・キー(オーストラリア)《視線》 2008年、(部分1)、(部分2)
3-17. ヴェルノン・アー・キー 題不詳 2008年、(部分1)、(部分2)
3-18. aiPotu(ノルウェー)《ブーメラン・ボート》 2008年、(部分1)、(部分2)
4.シドニー・ビエンナーレの歴史
アンソニー・ウィンザーボザム「シドニー・ビエンナーレの誕生」、『シドニー・ビエンナーレ』図録(1973年)の抄訳
シドニー・ビエンナーレは美術に飢えた不死鳥としてトランスフィールド美術賞の灰から蘇り、発展していくだろう…
1961年以来、「トランスフィールド」は、知られる通り、あらゆる現代美術を取り巻く議論の健全な雰囲気の中で発展していった。その発展のすべてが理想的ではなかったし、さまざまな要素において批判にも直面した。美術賞の繁栄と成長は、唯一外部からの批判を糧とすることは言を俟たないとはいえ、1970年には、美術そのものが転換期にさしかかり、もはや美術賞が彼らが考えていたような理想を実現しえないということが、トランスフィールドの設立者たちにとって明かになっていた。
いくつかの要素が負荷をかけた。
今日の美術家たちは、これまで以上に創造性という概念に関心を持ち、さまざまな表現手段に挑戦している。様式や技術に関するかつて必須条件そのものが、その動機に適合しなければならない。そこで、共通基盤そのものが考案され議論されているために、ある美術作品を他の美術作品に対して判断することが徐々に困難になった。いかに本物であったとはいえ、明白な企業支援は、賞の対価に見合った最大限の宣伝効果を達成するべく意図されたからくりと見なされ、美術家たちは経営戦略の駒と化しているように感じていた。このようにして、うまく発展してきたオーストラリアの美術大賞から、ビエンナーレの企画が育ってきた。その誕生と成長は、1956年に、カリオ・サルテリと共同でトランスフィールド・グループを設立した、フランコ・ベルジョルノ=ネッティスの倦むことのない意志から湧き出てきた。
ビエンナーレの将来展望は、他の世界の中心地と同じく、オーストラリアを拠点としつつ、拡張しつつある太平洋海盆に対する文化的な注目を内包することである。
cf. フランコ・ベルジョルノ=ネッティス http://en.wikipedia.org/wiki/Franco_Belgiorno-Nettis
◆各回の副題
第1回展(1973年) <副題なし>
第2回展(1976年)近年の美術の国際形式
第3回展(1979年)ヨーロッパとの対話
第4回展(1982年)不信の展望
第5回展(1984年)個人の象徴/社会の隠喩
第6回展(1986年)起源や独自性を越えて
第7回展(1988年)南十字星から―世界美術への視点 1940年頃から1988年 ※入植200周年
第8回展(1990年)レディメイド・ブーメラン
第9回展(1992/93年)越境者
第10回展(1996年)ジュラ紀の技術/亡霊
第11回展(1998年)日々
第12回展(2000年)<副題なし>
第13回展(2002年)(世界は多分)幻想的
第14回展(2004年)理性と感情
第15回展(2006年)接触域
第16回展(2008年)革命―倒立するかたち
第17回展(2010年)距離の美―不安な時代を生き抜く歌
5.まとめ
・多文化主義の今後の課題について
―文化の一体性(通じ合うこと)を共同体の前提にしない
―すなわち、文化的雑種性・混交性を純粋性に対置して「欠落」と指弾しないこと
―多文化主義を、「純粋な文化同士が複数共存する状態」と誤解しない
―文化はもともと異種混交的(=相互浸透的)であるという前提に立って、多文化主義の可能性を拡張していくこと
・国際美術展の歴史性について
―開始の背景を理解する
―各回ごとの企画趣旨を理解し、その推移を考察する