第七講 ジョルジョーネ
1.はじめに
2.ジョルジョーネ
◆画人伝冒頭の記述(1)
「レオナルドの作品によって、フィレンツェが大いに宣伝された頃と時期を同じくして、ヴェネツィアでは、その市民の一人のすぐれた才能が、この町の美しさに少なからざる貢献をなしとげている。この人物は、市民たちの敬愛おくあたわざるベルリーニ兄弟はおろか、それまでにこの町で画筆を取ったいかなる画家をも、はるかに抜きんでていた。彼こそ、トレヴィーゾ領内カステルフランコに1478年生を享けたジョルジョである。…(中略)…画家は大きな体と寛大な心の持主であったため、のちに大きなジョルジョすなわちジョルジョーネと呼ばれるにいたった。」 (p. 157.)
・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html1. ジョルジョーネ《モーゼの火の試練》、1502-05年頃、油彩・板、89×72cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
2. ジョルジョーネ《ソロモンの審判》、1502-05年頃、油彩・板、89×72cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・ジョルジョーネ《モーゼの火の試練》(左)と《ソロモンの審判》(右)
・サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館
※画像ソース: http://www.russianracehorse.com/petersburg/images/photos/hermext01.jpg3. ジョルジョーネ《ユディト》、1500-05年頃、油彩・板、144×66.5cm、サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館
・カステルフランコ・ヴェネト、サン・リベラーレ聖堂
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Castelfranco_Veneto_-_Duomo_-_Foto_di_Paolo_Steffan.jpg4. ジョルジョーネ《玉座の聖母子と聖リベラーレと聖フランチェスコ(カステルフランコ祭壇画)》、1505年頃、テンペラ、油彩・板、200×152cm、カステルフランコ・ヴェネト、サン・リベラーレ聖堂
・ワシントン、ナショナル・ギャラリー
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/National_Gallery_of_Art_-_West_Building.JPG5. ジョルジョーネ《羊飼いの礼拝(アレンデールの降誕)》、1500-05年、油彩・カンヴァス、89×111.5cm、ワシントン、ナショナル・ギャラリー
・ウィーン、美術史美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Maria-Theresien-Platz_in_Wien.jpg6. ジョルジョーネ《矢を持った少年》、1505年頃、油彩・板、48×42cm、ウィーン、美術史美術館
◆画人伝より(1)
「ジョルジョーネは、レオナルドの手になるぼかしの利かした、前にも述べたような、明暗でおそるべき効果の出ているいくつかの作品を見たことがある。以来この手法が大いに気に入って、生涯徹底してこのやり方を追求し、油絵でもって模倣しつくしている。根っから入念な仕事を好み、作品の主題として、常にもっとも美しいもの、もっとも変わったものしか選ぼうとしなかった。自然から暖かい心を授かったために、油彩であろうが壁画であろうが、描く主題が生き物でもそれ以外のものでも柔らかな統一がとれており、暗やみにぼけていくように仕上げている。」(pp.157-158.)
7. ジョルジョーネ《若い女性の肖像(ラウラ)》、1506年頃、油彩・カンヴァス、41×33.6cm、ウィーン、美術史美術館
8. ジョルジョーネ《3人の哲学者》、1505-07年、油彩・カンヴァス、123.5×144.5cm、ウィーン、美術史美術館
・ヴェネツィア、アカデミア美術館 2009/6/4 11:00撮影
9. ジョルジョーネ《嵐(ラ・テンペスタ)》、1505-07年頃、油彩・カンヴァス、82×73cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館
10. ジョルジョーネ《老女(ラ・ヴェッキア)》、1508-10年頃、油彩・カンヴァス、68×59cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館
・ブラウンシュヴァイク、アントン・ウルリッヒ公美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/de/e/e8/Braunschweig_Herzog-Anton-Ulrich-Museum.jpg11. ジョルジョーネ《自画像》、1508-10年頃、油彩・カンヴァス、52×43cm、ブラウンシュヴァイク、アントン・ウルリッヒ公美術館
◆画人伝より(2)
「巷間に伝わるところでは、アンドレーア・ヴェルロッキオが例のブロンズの馬を鋳造していた頃、ジョルジョーネと議論していた彫刻家連中はこう言ったという。彫刻においては、一つの彫像だけで、そのまわりをめぐれば、さまざまなポーズや視点が得られ、この点だけでも絵画に立ち勝っていると。ジョルジョーネはこれに対し、次のような意見であった。別にまわりを一周しなくても、一目、ある物語を主題にした絵に視線を投げかけるだけで、一人の人間の種々さまざまなポーズに対応する視点が得られるが、彫刻では場所を変え、視点を変えなくてはそうはならない。ところが絵画においては、視点は一つではなく多くある。さらに、たった一人の人間を絵にして、前面と背面、両横から見た二つの側面を同時にみせようではないかと申し出た。これには議論の相手方が面くらってしまった。ジョルジョーネはそれを次のようなやり方でなしとげた。まず、肩をひねってくるりとこちらに向いた裸の人物を描き、足もとに澄みきった水面をおいた。そこには体の前面が映って描かれている。 片側にピカピカの鎧を脱ぎすててあるため、武具の鏡面にすべてが明瞭にうつし出され、左側の面が現われる。反対側には鏡がおかれ、裸像のもう一方の半面が映っている。それは天馬空を行く奔放な思いつきであって、絵画がよりすぐれた腕前と努力をもってすれば、自然を一目見るだけで彫刻以上のことをなしとげることを、効果的に証明しようとジョルジョーネは望んだのであった。作品は美しく機知にあふれたものとされ、人々の大いに嘆賞するところとなった。」(pp.160-161.)
・ドレスデン絵画館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Dresden-Zwinger-Courtyard.11.JPG12. ジョルジョーネ《眠れるヴィーナス》、1510-11年、油彩・カンヴァス、108.5×175cm、ドレスデン、国立絵画館
・ジョルジョーネ《眠れるヴィーナス》 1510-11年/マネ《オランピア》 1863年
参考作品 ティツィアーノ《田園の楽奏》、1509年頃、油彩・カンヴァス、110×138cm、パリ、ルーヴル美術館
・ティツィアーノ《田園の楽奏》 1509年頃/マネ《草上の昼餐》 1863年
◆画人伝より(3)
「ジョルジョーネは、自身の名を上げるとともに、祖国の名をも高めようと仕事に専心する一方、楽才をもって多くの友を喜ばそうとして、せっせとサロンに出入りしているうちに、ある女を恋するにいたった。相思相愛の恋であったが、1511年、女のほうがペストにかかった。女はそれに気づかず、いつものようにジョルジョーネと逢瀬を楽しんだ。ジョルジョーネはペストに感染し、わずか数日のうちに、34歳にしてあの世にみまかってしまった。その才能を愛した多くの友人の悲嘆は大きく、それを失った現世の損害は大であった。しかし後世に2人の秀でた弟子を残したことは、友人たちにとってこの損害と喪失に対するせめてもの慰めとなった。のちにローマにおいて法王印璽僧官となったセバスティアーノ・ヴェネツィアーノ、および、師と並ぶばかりか、はるかに師を凌駕するにいたるティツィアーノ・ダ・カドーレである。この両者が絵画芸術に果たした役割ならびに功績については、しかるべき場所で充分に論じられるであろう。」(pp.161-162.)
3.まとめ
ジョルジョーネ=早世の天才画家。
「柔らかな統一」
エドゥアール・マネの代表作との深い関連
用語:ユディト/スフマート(煙のような)/イコノグラフィー(図像学) /パラゴーネ(比較)
対作品(「モーゼの火の試練」と「ソロモンの審判」)
ヴァザーリの記述:当時の芸術論(優劣比較論)
参考図書:エドガー・ウィント(1900-1971)『ジョルジョーネ解読』
◆ルーヴル美術館
1. ルーヴル美術館
2. 地下入り口
3. ミケランジェロ《瀕死の奴隷》(手前)と《抵抗する奴隷》(左奥)
4. 《サモトラケのニケ》
5. ボッティチェルリ《ヴィーナスと三美神から贈り物を授かる若い婦人》
6. フラ・アンジェリコ 《キリスト磔刑図》 1440-45年頃
7. チマブーエ《6人の天使に囲まれた荘厳の聖母》(左)とフラ・アンジェリコ 《聖母戴冠》(右)
9. ボッティチェルリ 《薔薇園の聖母》とウッチェルロ《サン・ロマーノの戦い(ミケレット・アッテンドロ・コティニョーラの参戦)》
12. レオナルド・ダ・ヴィンチ《ラ・ベル・フェロニエール》
15. 《モナ・リザ》 展示壁裏面
16. 《ミロのヴィーナス》
17. ロレンツィオ・ディ・クレーディまたはレオナルド・ダ・ヴィンチ? 《受胎告知》 1475-78年頃
18. ヨハン・ケーニッヒ 《カーネーションの聖母》 1630年頃