第八講 ラファエルロ(1)
1.はじめに
2.ラファエルロ
「普通ならば、長い時期にわたって、天が多くの人々にわかち授けるであろう世にも稀な才能やもろもろの美質や限りない宝の数々を、天は時に一人の人間に存分に惜しみなく授けることがある。その実例がはっきり見られるのが、ウルビーノ生まれのラファエルロ・サンツィオという優美にして秀れた人の場合である。彼は天性、謙虚な善意の人であった。そのような特性は、もって生まれた穏やかな性質に加えるに愛想の良さをもってするという、ある特別の人々の中にのみときどき見られる特性だが、それはいかなる場合でも、いかなる人に対しても、気持がよく、好感を与えるものであった。自然は、ミケランジェロの手によって芸術の支配下におかれたが、ラファエルロの場合には、自然は、ただ単に芸術の支配下におかれただけではなく、その人となりによって支配されるべく、彼をこの世に送り出したのである。…(中略)…その美徳の数々には、優雅、勤勉、美、謙遜、そしてあらゆる悪徳、あらゆる汚点を細大もらさず蔽ってしまうほどの良き品性が付随していた。それだから、ラファエルロほどにたぐい稀な天分に恵まれた人々は、単なる普通の人々とみなすことは絶対にできない。神々――しかし死すべき神々とでも呼ぶべき人々である。」 (pp.164-165.)
・シャンティイ(フランス)、コンデ美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Chateau_de_Chantilly_garden.jpg1. ラファエルロ《三美神》、1503-04年頃、油彩・板、17×17cm、シャンティイ(フランス)、コンデ美術館
・ミラノ、ブレラ絵画館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Milano_Pinacoteca_di_Brera1.JPG2. ラファエルロ《マリアの結婚》、1504年、油彩・板、170×117cm、ミラノ、ブレラ美術館
◆画人伝より(1)
「ラファエルロはペルジーノの様式を学ぶと、それをあらゆる点で精密に模倣したので、ラファエルロの模写は師の原画と区別がつかなくなり、彼の作品とペルジーノの作品との間にはっきりした違いを見てとることは不可能になったほどであった。…(中略)…彼はまた同じ町のサン・フランチェスコ寺のために小さな板絵で『マリヤの結婚』を描いたが、それを見るとラファエルロの技倆の進歩と洗練のほどが明らかに看取される。それはペルジーノの様式をはるかに抜いたものだからである。この作品の中では寺院が丹念に遠近法でもって描かれているが、まことに魅力的で、彼がこの種の難問と対決して修練したさまを見ると驚嘆の情を禁じ得ない。」(pp.167-168.)
◆画人伝より(2)
「ラファエルロはそこでピントリッキオのために何枚もの下図や下絵を描いたが、しかしその仕事を中途でやめるとフィレンツェへ行ってしまった。その理由は、彼がシエーナに滞在中、フィレンツェのサーラ・デル・パーパ(法王の間)でレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた馬のすばらしい集団の下絵――それは後に政庁の大広間に描かれることになっていた― ―と、レオナルドと競って描いたミケランジェロ・ブオナローティの手になる、レオナルドを凌駕すると思われる幾人かの裸体の図とを、何人かの画工たちが絶讃するのを聞いたからであった。ラファエルロは秀れた芸術作品を深く愛していたから、それを見たいという願望にとりつかれ、自分の利益も利害も忘れて仕事を途中で抛り出し、フィレンツェへ向かったのであった。」(p.168.)
・フィレンツェ、ピッティ美術館
※画像ソース: http://www.pabaac.beniculturali.it/arteinmostra/index.php?act=m&id=653&opt=53. ラファエルロ《マッダレーナ・ドーニ》、1506年頃、油彩・板、63×45cm、フィレンツェ、ピッティ美術館
・ローマ、ボルゲーゼ美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Galleria_borghese_facade.jpg4. ラファエルロ《一角獣を抱く女性》、1506年、油彩・板、65×51cm、ローマ、ボルゲーゼ美術館
・ラファエルロ《マッダレーナ・ドーニ》と《一角獣を抱く女性》
5. ラファエルロ《キリストの埋葬》、1507年、油彩・板、184×176cm、ローマ、ボルゲーゼ美術館
・ウィーン、美術史美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Maria-Theresien-Platz_in_Wien.jpg6. ラファエルロ《牧場の聖母》、1506年、油彩・板、113×88cm、ウィーン、美術史美術館
◆画人伝より(3)
「ラファエルロは少年時代に師ピエートロ・ペルジーノの様式を真似、デッサンといい彩色といい創意工夫といい、師をはるかに凌駕するものがあった。ラファエルロはそれだけできればもう十分だと思っていたが、さらに年をとって判断が熟してくると、自分はまだまだいたらない者で、このような画風は真実から遠く離れていることが自覚された。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは、男の顔を描かせても女の顔を描かせても他の追随を許さぬものがあり、とくに人物の優雅さや動きにかけては他の画家たちを遠く引き離している人だが、彼の作品を見た時にラファエルロは驚嘆し、茫然自失してしまった。レオナルドの様式はかつて見た他のいかなる様式よりもラファエルロの好みにあったので、彼はそれの研究をはじめた。そして非常に困難なことではあったが、ペルジーノの様式を徐々に捨て去ると、全能力と全知識を傾けてレオナルドの様式を模倣するよう努めたのである。しかし勤勉や努力にもかかわらず、いくつかの難しい点では、ラファエルロはレオナルドを凌駕することがついにできなかった。甘美さとか、ある種の自然な巧みさといった点では、ラファエルロのほうがレオナルドより秀れている、という意見も多かったが、それでもさまざまな構想の下にある恐るべき基本とか芸術的な偉大さといった点では、ラファエルロはなんとしてもレオナルドに及ばなかった。」(pp.202-203.)
・ロンドン、ナショナル・ギャラリー
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Nationalgallery.jpg7. ラファエルロ《アレクサンドリアの聖女カタリナ》、1508年頃、油彩・板、71×53cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
8. ラファエルロ《教皇ユリウス2世の肖像》、1511年、油彩・板、108.7×81cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
・ローマ、ヴィラ・ファルネジーナ
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/VFarnesina.jpg9. ラファエルロ《ガラテイア》、1511年頃、フレスコ、295×225cm、ローマ、ヴィラ・ファルネジーナ
◆画人伝より(4)
「しかしそれでもラファエルロは、裸体画についてはミケランジェロのような完成度にはけっして到達し得ないことを自覚していたので、いろいろと思いをめぐらしたが、その結果、分別のある人として次のような結論に達した。すなわち、絵画はけっして単に裸の人体を示すためにあるのではなく、より広い領域をもっている。…(中略)…それで、ラファエルロはこうした特質について熟慮した後、ミケランジェロが手をつけた分野ではとても彼に追いつけない、それならこうした分野でミケランジェロに匹敵しよう、そしてできるなら凌駕しよう、と決心した。それでミケランジェロの様式を真似ることに打ち込んで空しく時間を失うことを止め、いま述べたような、彼とは違うこうした分野で普遍的に認められる最良の人たろうと努力した。わが16世紀の多くの画工たちがみなラファエルロのようにしたならば、と思うのであるが、彼らはミケランジェロの作品のみを学ぶことに専念するあまり、結局ミケランジェロを真似ることも、またミケランジェロのような完成度に達することも、できないでいる。彼らがラファエルロのようにしたならば、魅力もなく、彩りもなく、工夫に乏しく、労苦の多い、ひどく硬い様式をわざわざ苦心して作り出す、などという空しいことはしなかったであろう。普遍的に認められるよう努力し、別の特質を真似ようとつとめたならば、自分自身にとっても、広く世間にとっても、有意有用の仕事ができたであろうに、と惜しまれるのである。」(pp.204-205.)
・ドレスデン絵画館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Dresden-Zwinger-Courtyard.11.JPG10. ラファエルロ《サン・シストの聖母》、1513-14年頃、油彩・カンヴァス、256×196cm、ドレスデン絵画館
・フィレンツェ、ピッティ美術館
※画像ソース: http://www.pabaac.beniculturali.it/arteinmostra/index.php?act=m&id=653&opt=511. ラファエルロ《小椅子の聖母》、1514年頃、油彩・板、直径71cm、フィレンツェ、ピッティ美術館
12. ラファエルロ《ラ・ヴェータ(ヴェールの女)》、1516年頃、油彩・カンヴァス、85×64cm、フィレンツェ、ピッティ美術館
◆画人伝より(5)
「ラファエルロはたいへん女好きで惚れやすい人であった。それでなにかというと女の機嫌をとった。彼があれほど肉体の快楽に耽ったのも、友人たちから尊敬され、ちやほやされたのが原因であろうと思われるが、友人たちはその点に関し、彼に対してあれほど大目に見てやるべきではなかったのだ。彼の親友であったアゴスティーノ・キージが、ラファエルロに頼んで、彼の館の第一開廊を装飾させたとき、ラファエルロはいっこうに仕事に打ち込むことができなかった。それは彼が女の一人に夢中になっていたからである。それでアゴスティーノは絶望したのだが、どうにかこうにか皆で手立てを講じ、やっとのことで、その女が、ラファエルロが仕事をしているその仕事場へずっと彼と同棲しにくるよう取り計らった。仕事が完成したのはそのおかげである。」(p.199.)
・ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Facade.7.jpg13. ラファエルロ《奇跡の漁り》、1515年、水彩・紙、319×399cm、ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館
・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html14. ラファエルロ《レオ10世と2人の枢機卿》、1517-19年、油彩・板、154×119cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
◆画人伝より(6)
「彼の後に残されたわれわれにとって、さてなすべきことは、彼がわれわれに手本として遺した良き方法、いやその最良の様式を真似ることである。そして彼の価値や彼の力量にふさわしいよう、われわれの恩義として、故人のうるわしい思い出を胸中に抱き続けるべきである。そして常に故人の名誉ある追憶を言葉に出して讃えるべきである。それというのも、ラファエルロのおかげで、技芸も色彩も創意工夫も一体となってあの最高度の完成に達したので、それはもはや余人には望むべくもない境地であった。人々はもはやこれを凌駕しょうなどとゆめゆめ考えるべきではない。」(p.210.)
◆画人伝より(7)
「ラファエルロは、要するに、画家というよりも、王侯貴族のごとく生きた人であった。それだから、おお、絵画という芸術よ、おまえはいかにも幸福であった! おまえは力があり才がある画工を一人得て、おまえの地位を空高く引き上げてもらったのだから。絵画という芸術よ、実際おまえは自らを祝福された身の上と呼ぶことができた。なぜならば、かくも偉大なる人の足跡をたどりつつ、弟子たちが大勢進んで行くのだから。彼らはそこにラファエルロがいかに生きたかを見てとり、芸術と人徳とを結びつけることがいかに大事であるかを見てとる。ラファエルロの一身にあって結びついたこの芸術と人徳は、法王ユリウス2世の偉大さやレオ10世の鷹揚さをも動かす力があった。法王は最高の位をきわめ、最高に威厳のある地位にいた人々であったが、ラファエルロといかにも親密な打ちとけた仲となり、彼に対しては物惜しみなくありとあらゆる便宜を供与したからである。」(p.211.)
3.まとめ
ラファエルロ=芸術と人徳の結合。ペルジーノを凌駕し、レオナルドを模倣し、ミケランジェロとは異なる領域で努力した。
「死すべき神々」
ペルジーノ(1450頃-1523):ラファエルロの師
用語:三美神/カタリナ(アレクサンドリアの)/マニエリスム/マニエラ(方法・様式) /ラファエル前派
ヴァザーリの記述:同時代の画家たちへの批評/理想の画家像=画業修練の方法論→絵画教育の指針(=ラファエルロ模倣)