第十講 ミケランジェロ


1.はじめに

ミケランジェロ(1475-1564)

ミケランジェロ《ダヴィデ》 1501-04年


2.ミケランジェロ

 ◆画人伝冒頭の記述(1)

「この上なく高名なジョットとその後継者たちの光明に浴した、勤勉ですぐれた芸術家たちは、幸運の星と、調和のとれたほどよい性格がもたらしたその才能を、世に示そうと努力した。彼らは、多くの人々が叡智と名づける、あの認識全体にできる限り近づくために、その卓越した技量で、自然の偉大さを模倣しようと努めたのである。一方、いとも恵み深き天の支配者たる神は、地上の美術家たちの無益な労苦と実りのない孜々たる研鑽、そして真実から、光と闇よりもさらに遠ざかっている人間たちのあやふやな知識をごらんになられ、その多くの誤ちから救い出してやろうとして、地上に一つの魂を送りだそうとされた。 」

フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c6/Il_Bargello.jpg

1. ミケランジェロ《バッカス》、1496-97年、大理石、高さ203cm(台座含む)、フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館

  ◆画人伝より(1)

「彼はあらゆる活動で他の者たちより熱心であったし、生き生きとした大胆さで、往々迅速なところをみせていた。彼は何か月も、カルミネ寺でマザッチョの絵から素描を行った。深い判断力をもってこれらの作品を模写したので、芸術家や他の連中はそれに驚き、名声ともども嫉妬をも増大させることになった。彼と仲がよく、冗談口をきいていたトリジャーノは、ミケランジェロが彼よりも賞讃され、技量も上であるのを見て、嫉妬にかられ、無謀にも握りこぶしで彼の鼻を打ちすえた。鼻は不幸にも傷つけられ、つぶれてしまい、それ以後ずっと鼻にその跡をとどめることになったということである。」(pp. 221-222.)

ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/15/Petersdom_von_Engelsburg_gesehen.jpg


 
 ◆画人伝より(2)

「こうしたことが、ロヴァーノ枢機卿と呼ばれたフランスのサン・ドニの枢機卿に、かの有名な町(ローマ)に、この稀なる美術家の手による何か価値ある自分の記念を残しておきたいという気にさせたのである。そこで彼はミケランジェロに、大理石で丸彫りのピエタを制作させた。完成すると、それはサン・ピエートロのマルテ寺院のヴェルジーネ・マリーア・デルラ・フェッブレ礼拝堂に置かれた。すぐれた彫刻家、芸術家といえども、この作品に対して、その造形力や優美さで何かをつけ加えようという気にはならないし、また、苦労して繊細さや洗練度をもってつくり出す気にも、さらにミケランジェロがここで行ったような技量で大理石を仕上げる気にもならないだろう。ここには、彫刻術のあらゆる価値と力が見られるからである。そこにある美しいもののなかで、その神聖な布地も含めて、死せるキリストの姿自身が目につく。どんなに肢体の美しい、肉体の巧みなものも、この肉体の骨格の上にある筋肉や血管、腱などで巧みにつくられた裸体像ほどのものは見られないだろう。これほど死そのものといった死体が見られようとは思われない。」(p. 225.)

2. ミケランジェロ《ピエタ》、1498-1500年、大理石、高さ174cm、ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂

美術用語(32) ピエタ

フィレンツェ、アカデミア美術館
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Palazzo_dell%27arte_dei_beccai_01.JPG

4. ミケランジェロ《ダヴィデ》、1501-04年、大理石、高さ517cm、フィレンツェ、アカデミア美術館

美術用語(33) ダビデ

  ◆画人伝より(3)

「この像を目の当たりにしたピエーロ・ソデリーニは非常に満足したが、ミケランジェロがいくつかの部分に再び手を入れた際に、彼に向かって、この像の鼻は大きすぎるように見えるといった。ミケランジェロは、市政長官が巨像の下におり、そこから見ていたのでは実際に彫っているところが見えないとわかっていたので、彼を満足させるために、肩のかたわらにある足場の上に登り、すばやく左手に鑿を取った。足場の架台の上にあった大理石のわずかな粉といっしょに取り上げ、鑿で軽くとんとんやり始めると同時に、少しずつ粉が落ちていくようにした。実際には、鼻に手をかけはしなかったのである。それから、見守っていた市政長官のほうを見おろして言った。『さあ、見てごらんなさい。』『うん、ずっと気に入ったぞ。』『君はそれに命を与えたわけだな。』市政長官は言った。それでミケランジェロは下におりたが、なんでもわかっているような振りをしたがり、そのくせ自分で言っていることがわかってもいない人々に同情しながらも、苦笑していた。」(pp. 228-229.)

 ◆画人伝より(4)(5)

「ミケランジェロのいないローマに、ラファエロ・ダ・ウルビーノの友人であり親戚であったブラマンテがいた。ミケランジェロとはほとんど友愛の情を持っていなかったブラマンテは、法王がミケランジェロの彫刻作品を愛惜し讃えているのを知り、ラファエルロと二人して、ミケランジェロが戻ったら、法王が自分の墓廟の完成を望まないよう、その野心から彼を引き離そうと考えた。生存中に墓を作るのは死に急ぐようなもので、悪い兆しだと言ったのである。そして二人は、ミケランジェロが帰ってきたら、法王の叔父シクストゥス法王追悼のために、シクストゥスがヴァティカン宮殿に建てたその礼拝堂の天井穹窿をミケランジェロに描かせねばならないと勧めたのである。こうしてそれは、ブラマンテや他のミケランジェロの競争者たちには、完璧であると思える彫刻からミケランジェロを引き離し、彼を破滅に追いやることにもなると思えたのだ。ミケランジェロはフレスコでの賦彩の経験がないので、彼に描かせれば、あまり感心しない作品を作らざるを得ず、ラファエルロほどうまくはできないと考えたからであった。そして万一彼がそれを描くのに成功したとしても、ことごとく法王と反目するだろうし、そうすれば、ある何らかの仕方で彼を法王の御前から追い出してしまうという彼らの目論見が成就されるというわけであった。」(pp. 175-176.)

4. ミケランジェロ《システィーナ礼拝堂天井画》、1508-12年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮

4-1. ミケランジェロ《光と闇の創造》、1511-12年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-2. ミケランジェロ《日と月と草木の創造》、1511-12年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-3. ミケランジェロ《水の分離》、1511-12年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

美術用語(34) 天地創造

4-4. ミケランジェロ《アダムの創造》、1510年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-5. ミケランジェロ《エヴァの創造》、1510年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-6. ミケランジェロ《原罪と楽園追放》、1510年、フレスコ、280×570cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

美術用語(35) 原罪

4-7. ミケランジェロ《ノアの燔祭》、1508-09年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-8. ミケランジェロ《大洪水》、1508-09年、フレスコ、280×570cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-9. ミケランジェロ《ノアの泥酔》、1508-09年、フレスコ、170×260cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4. ミケランジェロ《システィーナ礼拝堂天井画》、1508-12年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮

7人の預言者

5人の巫女

美術用語(36) 預言者

4-10. ミケランジェロ《ダヴィデとゴリアテ》、1508-09年、フレスコ、570×970cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-11. ミケランジェロ《ユディットとホロフェルネス》、1508-09年、フレスコ、570×970cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-12. ミケランジェロ《ハマンの懲罰》、1511-12年、フレスコ、585×985cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-13. ミケランジェロ《青銅の蛇》、1511-12年、フレスコ、585×985cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

  ◆画人伝より(6)

「ミケランジェロが芸術に憑かれる者の常として、孤独を愛したことはだれにも珍しくはうつるまい。芸術はただひとりで思索にふける人間を要求するのである。それで芸術研究に専心しようとする者は、仲間付き合いを避ける必要がある。それらを空想とか異様とか考える人々は間違っている。よい仕事をしようとする人はあらゆる心配事や煩わしさから遠ざかっている必要があるし、天分は思慮、孤独、快適さを要求するもので、心に誤ちがあっては困るからである。とはいえ、それをわきまえつつ、都合のよいときには、彼は多くの偉大な人、学者、才能のある人々と交わった。一方では、芸術の考察に専心する者は孤独ではないし、多様な思考を欠くこともないのである。」(p. 315.)

 ◆画人伝より(7)

「ミケランジェロはローマのクレメンス法王のもとに行くことになった。法王は彼のことに腹を立てていたにもかかわらず、天分に恵まれた友人としてすべてを許した。そしてフィレンツェへ戻り、サン・ロレンツォ寺の図書室と聖器室をすべて完成するよう命じた。…(中略)…しかしちょうどそのとき、法王は、システィーナ礼拝堂の正面を飾るつもりで、彼を自分の側近くに置いておきたい気になった。その礼拝堂に、彼はかつてシクストゥスの甥ユリウス2世のために天井穹窿を描いたことがあった。クレメンスは、その壁面のうちの祭壇のある正面壁に最後の審判を描くよう望んだのである。」(pp. 262-263.)

 ◆ルネサンス時代の歴代教皇一覧

第212代 シクストゥス4世(1471-1484) システィーナ礼拝堂建設
第213代 インノケンティウス8世(1484-1492) 
第214代 アレクサンデル6世(1492-1503) 
第215代 ピウス3世(1503-1503) 
第216代 ユリウス2世(1503-1513) 天井画制作の依頼・完成
第217代 レオ10世(1513-1521) 
第218代 ハドリアヌス6世(1522-1523) 
第219代 クレメンス7世(1523-1534) 壁画制作の依頼
第220代 パウルス3世(1534-1549) 壁画の制作と完成

4, 5. ミケランジェロ《システィーナ礼拝堂天井画 と祭壇画》、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

5-1. ミケランジェロ《最後の審判》、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

5-2. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:左上部)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

5-3. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:右上部)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

5-4. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:中央部左)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

5-5. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:左下)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

5-6. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:中央部右)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

 ◆画人伝より(8)

「さて、本筋にたちかえると、ミケランジェロは、パウルス法王が見にきたときにはすでに作品の4分の3以上を仕上げていた。その際、法王のお供で礼拝堂にいた儀典長の謹厳居士たるビアージョ・ダ・チェゼーナ氏は、どう思うかと聞かれたので、いとも荘厳な場所にたくさんの裸体像を描いたのはなんとも不敬なことだ、裸体像はふまじめにもその恥ずかしいところまで見せている、法王礼拝堂用の作品ではなく、風呂屋か宿屋むきの作品だ、と言った。おかげでミケランジェロは不愉快になった。それで報復してやろうと思い、彼が出て行くや、以前には別に彼を見たことなどなかったのに、地獄のミノスの姿にして、実物大に描きこんだのである。それは悪魔たちが群がるなかで、両脚を大蛇に巻きつけられている姿であった。ビアージョ氏は、法王やミケランジェロに、それを取り除いてくれるよう頼みこんだが無駄であった。いまでも見られるとおり、やはりそれを記念に残しておいたのである。」(p. 268.)

5-7. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:右下)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

 ◆画人伝より(9)

「さてこの審判図が公開されるや、それは、かつてそこで制作したことのある第一級の芸術家たちに立ち勝っているばかりか、(システィーナ)天井画にさえ勝っていることを証したのであった。その天井画は、かつて彼が大いに賞揚されたものだが、彼はそれすら越えようとしたのである。つまり截然とそれに立ち勝ることで、自己をも越えたのである。彼はそれら審判の日々の恐怖を思い描き、正しく生きなかった人々の大いなる罪のために、主の受難を描いたのであった。彼は空中のさまざまな裸体像に十字架、柱、槍、スポンジ、くぎ、茨の冠を持たせ、完成はなんとも困難なのに、やすやすと多様でさまざまな仕草を付与している。」(p. 269.)

フィレンツェ、ウフィツィ美術館
 ※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html

6. ミケランジェロ《ドーニ家の聖家族》、1503-05年、テンペラ・板、直径120cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

 ◆画人伝より(9)

「ヴァザーリはこの年、フィレンツェで『画家、彫刻家、建築家列伝』の書物を印刷しおえた。彼は生きている者たちの誰の伝記をも書かなかった。年老いた人でも例外ではなかった。ただしミケランジェロは例外であった。彼に一冊を献じたところ、彼はたいそう喜んで受け取った。この著作でヴァザーリは、彼の口から記憶に値する多くのことを得ていた。彼が最長老の判断力に富む芸術家だったからだ。そして最近それを読んで、ミケランジェロは以下の自作ソネットを送ってくれた。彼の愛情の記念に、ここにこうしておさめるのはうれしい限りである。

君は筆と彩色をふるい
その技芸を自然の域まで達せしめた
むしろ自然からその誉れを感じさせた
自然の美以上の美を描くから

そしていま 君が学の手で
文筆の高貴の業を始めれば
かつては不可能の 自然の価値を奪い去る
人びとに新たな生命を与えるのだ

かつていつの世も 美しい作品で
自然と技を競っても とかく道を譲るもの
限りある結末に行くのが事の常だから

けれど失せし人らの記憶をゆりおこし
かくある生命を与えれば 君はまた
自然の定めにかかわらず 永遠に生きながらえる」

(pp. 282-283.)

ミケランジェロ《ダヴィデ》 1501-04年


3.まとめ

この講義で紹介した美術館、教会など

ミケランジェロ=孤独を愛した芸術家。「完全性」に達し、自己をも乗り越えた。

クレメンス7世:《最後の審判》を依頼。ジュリオ・デ・メディチ

用語:ピエタ/ダビデ/天地創造/原罪/預言者

ヴァザーリの記述:

 美術家とパトロンたちの挿話

 →権力者たちの横顔。詳細にわたる作品記述

 →美術作品の解説者、解釈者としての美術史家

 第1版=1550年第2版=1568年