二大国際美術展(一)
ドクメンタ
・配布資料:「ドクメンタ 関連資料抜粋」
1.ドクメンタ(13)
4つのサイト:
・カッセル(ドイツ)
・カーブル(アフガニスタン)
・アレクサンドリア/カイロ(エジプト)
・バンフ(カナダ)芸術監督:キャロリン・クリストフ=バカルギエフ
会期:2012年6月9日〜9月16日
会場:フリデリチアヌム美術館、オットネウム、ドクメンタホール、ノイエ・ガレリー、中央駅、オランジェリー、カールスアウエほか
◆dOKUMENTA(13)
・「Documenta」と「dOKUMENTA」
→大文字と小文字を逆転(最初の文字が小文字に、それ以外が大文字に)
※「Art」と「art」、「I」と「i」
※マイナーな地域や人々の集団こそがマジョリティー(=多数派)である、という考えの反映か?
・(13)
→ドクメンタ第13回展である(=継続性)
「( )に入れられた継続性」=相対的な独立性と解釈可能では?
1. ジョルジョ・モランディ(イタリア 1890-1964)《静物》
2. ジュゼッペ・ペノーネ(イタリア 1947- )《川がある 6》、(部分1)、(部分2) 1998年
3. アリギエロ・ボエッティ(イタリア 1940-1994)《地図》 1971年
4. マイケル・ラコウィッツ(USA 1973- )《ほこりは何を浮かび上がらせるか》、(部分1)、(部分2)
5. カデール・アティア(フランス 1970- )《修復》、(部分)
6. リン・フォルケス(USA 1934- )《失われた辺境》 1997-2005年
7. マリア・テレサ・アルベス(ブラジル 1961- )《湖の返還》
8. ジェフリー・ファーマー(カナダ 1967- )《草の葉》、(部分)
9. スーザン・ヒラー(USA 1940- )《ドクメンタ(13)の百日間のための百曲》 2011-12年、歌集(1)、(2)、(3)
10. ハリス・エパミノンダ(キプロス 1980- )&ダニエル・グスタフ・クラマー(ドイツ 1975- )
11. ララ・ファヴァレット(イタリア 1973- )《つかの間の記念碑》、(部分)
13. アイダ・アップルブルーグ(USA 1929- )によるプロジェクト
15. 宋冬(ソン・ドン)(中国1966- )《無を成す庭》、(部分) 2010-12年 ※不做白不做/做了也白做/白做也得做
16. ブライアン・ヤンゲン(カナダ 1970-)《犬専用広場》
2.ドクメンタの歴史
1955年 〈スライド〉
敗戦後の西ドイツで、ナチス時代に「退廃美術」として迫害された前衛芸術の祭典として、地元カッセルの画家アーノルト・ボーデが発案、開催。
1972年 〈スライド〉
スイス人ハラルド・ゼーマンが総指揮。以後、全体を一人の総監督が指揮する形式が基本となり、後発の国際美術展の手本となる。最も古いヴェネツィア・ビエンナーレが国別参加制度を採っていたのに対し、ドクメンタは「ノー・ボーダー」をスローガンとした。
1992年 〈スライド〉
総監督は、ベルギー人のヤン・フート。アジアやアフリカ、アメリカ先住民の作家を紹介し、現代美術の多文化主義化の方向性を打ち出した。他方、美術家よりもキュレーターが目立っている、との批判もあった。
1997年 〈スライド〉
初の女性総合監督にフランスのカトリーヌ・ダヴィッドが抜擢される。「第三世界の作家が少ない」、「女性作家をもっと紹介すべきだ」の批判に、「私は国連ではない」と答えたことが話題となった。
2002年 〈スライド〉
芸術監督に、初の第三世界出身者オクウィ・エンウェゾー(ナイジェリア出身)を抜擢。エンウェゾーは、共同キュレーター制を前面に押し出して、多様な文化背景を持つ複数のキュレーターの共同作業として展覧会を企画。ゼーマン以来の伝統に疑義を差し挟んだ。
2007年 〈スライド〉
ロジャー・ブルゲール、ルート・ノアック夫婦により企画される。第8回展(1987年)のマンフレート・シュネッケンブルガー以来20年ぶりにドイツ人の総監督の手に。
3.まとめ
・ドクメンタの歴史
―退廃美術への迫害に対する反省から始まる
―最新動向を一堂に会する美術展から未来の可能性へ向けた実験室へ
・国際美術展の役割
―今後の方向性を知る「羅針盤」
―世界の最新動向を知る「窓」
―社会を見つめ直すための「鏡」
―(美術家にとって)世界的な舞台への「扉」「登竜門」
―さまざまな交流が生まれる「広場」