生誕100年 松本竣介展


授業の目標

・企画展について理解する。

・画家の戦争体験について考察する。


1.松本竣介展の概要 会場写真

企画展/巡回展/回顧展/個展

会期・会場:

 4月14日〜5月27日 岩手県立美術館

 6月9日〜7月22日 神奈川県立近代美術館 葉山

 8月4日〜9月17日 宮城県美術館

 9月29日〜11月11日 島根県立美術館

 11月23日〜2013年1月14日 世田谷美術館


企画展

・他館や個人コレクター等より作品を借用し、ある一定の期間のみ開催される展覧会。特殊な例として、自館のコレクションの中からテーマ性を持たせて展示した「特集展示」や、「ベスト100」のような「コレクション選」展を、常設展示としては全点出品される機会はないという文脈で、企画展と位置づけることがある

・一般に日本の公立美術館には、常設展示室、企画展示室、市民ギャラリーの3種類の展示室が設けられている

・他館の常設展示で活用されている作品を借用する場合、展覧会の企画趣旨が借用許可の判断材料となる

・美術館の活動方針と連動する企画テーマが立てられる


作品紹介

1. 《街》、1938年8月、油彩・板、131×163 cm、(公財)大川美術館、第25回二科展(1938年9-10月)

2. 《都会》、1940年8月、油彩・板、121×154.5 cm、大原美術館、第27回二科展(1940年8月)

3. 《街にて》、1940年9月、油彩・板、116.5×90.7 cm、下関市立美術館、紀元二千六百年奉祝美術展覧会(1940年10月)

4. 《自画像》、1940年12月、油彩・板、33×23.5 cm、個人蔵、第28回二科展(1941年9月)

5. 《立てる像》、1942年、油彩・カンヴァス、162×133 cm、神奈川県立近代美術館、第29回二科展(1942年9月)

6. 《五人》、1943年、油彩・カンヴァス、162×130 cm、個人蔵

7. 《黒いコート》、1942年1月、油彩・カンヴァス、70×52 cm、個人蔵、第2回個展(1942年2月)

8. 《女》、1946年頃、油彩・カンヴァス、40.6×32 cm、岩手県立美術館

9. 《水を飲む子ども》、1943年頃、油彩・板、33×23.9 cm、岩手県立美術館

10. 《風景》、1942年6月、油彩・カンヴァス、38×45.3 cm、個人蔵

11. 《駅》、1943年頃、油彩・カンヴァス、31.5×41 cm、個人蔵

12. 《Y市の橋》、1944年頃、油彩・カンヴァス、65×80.5 cm、個人蔵

13. 《ニコライ堂付近》、1947年頃、油彩・カンヴァス、33×45.5 cm、個人蔵

14. 《彫刻と女》、1948年5月、油彩・カンヴァス、116.8×91 cm、福岡市美術館、第2回美術団体連合展(1948年5-6月)


松本竣介 略年譜

1912(明治45)年 4月19日、東京府豊多摩郡渋谷町に佐藤家の次男として生まれる
1914(大正3)年 2歳 岩手県稗貫郡花巻川口町へ転居
1922(大正11)年 10歳 盛岡市へ転居
1925(大正14)年 13歳 激しい頭痛ののち、重体が続き聴覚を失う
1927(昭和2)年 15歳 父から写真道具、兄より油絵道具を贈られる
1929(昭和4)年 17歳 上京して太平洋画会研究所に通う
1932(昭和7)年 20歳 兵役を免除される
1936(昭和11)年 24歳 松本禎子と結婚、松本姓となる
1940(昭和15)年 28歳 初個展を開催、《街にて》など30点出品
1942(昭和17)年 30歳 第29回二科展に《立てる像》など出品
1944(昭和19)年 32歳 「俊介」から「竣介」へサインを改める
1945(昭和20)年 33歳 妻子は松本家の郷里島根県松江市に疎開
1948(昭和23)年 36歳 6月8日、気管支喘息による心臓衰弱で死去


松本竣介の言葉

 アジアの民族が、文化を求めるに、日本に来らず、アメリカ乃至ヨーロッパに奔つたとするならば、武力的にアジアの統一ができても高度国防を本質的に形成することは不可能であらう。嘗て、或一支那人が、日本に留学するのは手軽にヨーロッパを学ぶことができるからだといったさうであるが、この一事でも私達はヨーロッバ(ママ)を噛砕き、ヨーロッパを超えなければならぬことを思ふ。国家の外延量を本質的に考へなければならないことを思ふ。
 芸術に於ける普遍妥当性の意味を、私達は今日ヒューマニティとして理解してゐる。作品そのものに於て、ヒューマニティは、国家民族性とともに表裏をつくり、その内包量となるものであるが、芸術一般に於けるヒューマニティは普遍妥当性を持った外延量となるのである。この意味で、ヒューマニズムのみを固執するとき、芸術の超国家性、超民族性が成立つのであるが、それは抽象的論理上の存在であり、民族国家に於て具体的に存り得ないことは屡々述べた通りである。

「生きてゐる画家」、『生誕100年 松本竣介』図録、334頁。初出:『みづゑ』第437号、1941年4月

 目糞が鼻糞を笑ふとは今日に始つたことではあるまいが、「似而非文化」石川達三、「美術家の節操」宮田重雄、「画家の立場」鶴田吾朗、「画家の良心」藤田嗣治、四氏の文章の中には看過できぬものが多分にある。
 石川氏は、十月一日付毎日新聞紙上に於て、「日本再建の為に」といふ一文の中で「……日本を敗戦に導いたこの堕落せる日本人が、再建に当つてのみ優秀である筈はない。……過去の日本を再建する事は絶対にやめなくてはならない」と断じ、日本人に対して憎悪と不信をたゝきつけてゐる。その日本人とは貴下が本欄に書かれた「似而非文化人」のみに限られてゐるのではあるまい。われわれから言へば、貴下も含めた日本人である。更に具体的に言ふならば、終戦前、十年二十年の間に何らかの意味で指導的立場に立つた人達、文化の先頭を切つた人達が、日本の敗戦は自分の責任ではない等と言ふことを、われわれ若い時代の者は拒絶する。

「芸術家の良心」、『生誕100年 松本竣介』図録、335頁。未刊行:『朝日新聞』への投稿[不採用]、1945年10月


2.まとめ

 ・企画展

―地元ゆかりの作家の回顧展=紹介と顕彰

―生誕○○年、没後○○周年

―美術館の活動方針≒コレクションの収集方針

―個展以外にも、グループ展やテーマ展などがある

 ・画家の戦争体験

―戦争記録画を描くこと(戦意発揚)=報国

―戦後の変節と責任追及

―芸術家の良心とは?

―美術評論⇔美術史