第二回 チマブーエ/ジョット
1.はじめに
2.チマブーエ
◆画人伝冒頭の記述(1)
「絶え間なく襲い来る凶事の洪水は、哀れなイタリアをおし流し溺死せしめるに至り、およそ建築と呼ぶに値する建築をことごとく破壊したばかりでなく、芸術家をひとり残らず消滅に追いやってしまった。時おりしも、1240年、絵画芸術の世界に光明を投ずるべく、天はフィレンツェの町に、姓はチマブーエ名はジョヴァンニなる男子が、当時の名家であるチマブーエ家の一員として、呱々の声を上げる配慮をなさせ給うた。」 (p. 7.)
・アレッツォ、サン・ドメニコ聖堂
※画像ソース: http://www.lovetuscany.com/arezzo/the-main-sights-in-arezzo-tuscany1. チマブーエ《十字架上のキリスト》、(部分)、1268-71年、テンペラ・板、336×268cm、アレッツォ、サン・ドメニコ聖堂
◆画人伝より(1)
「実地の努力を続けていくうちに、天与の才もあずかって、瞬く間にチマブーエは、教えてくれる画工たちの技巧、色彩、デッサンともに、師匠たちを抜きん出てしまった。画工たちは画法の進歩・上達には執心をみせず、今日見られるような画風、つまり古代ギリシアの良き様式ではなく、当時の不器用な描き方をしていたのである。チマブーエは、これらのギリシア人画工を手本にしたが、稚拙さを除去し、画工に高い完成度を与え、自らの名と作品をもって郷土の名を高らしめた。」(p. 10.)
・パリ、ルーブル美術館
※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg2. チマブーエ《6人の天使に囲まれた荘厳の聖母》、1280年頃、テンペラ・板、427×280cm、ルーヴル美術館
※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg・アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d9/Assisi_San_Francesco_BW_2.JPG3. チマブーエ 《キリストの磔刑》、1280年代前半、フレスコ、350×690cm、アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂上堂
・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html4. チマブーエ《荘厳の聖母マエスタ(サンタ・トリニタの聖母)》、1290年代前半、テンペラ・板、385×223cm、ウフィツィ美術館
◆画人伝より(2)
「いにしえの画家の記録にもあるが、チマブーエがサン・ピエートロ門に近い庭園でこの絵を制作中、たまたまアンジュー公シャルル老王がフィレンツェを訪れたことがある。市民は多くの歓迎行事を催したが、その一つとして、チマブーエの絵を見てもらおうと、王を庭園に連れて行った。誰もその絵を見た者がいなかったから、王の親閲に際し、フィレンツェ中の男女がこぞって同席しようとして、気狂い沙汰になったという。付近一帯が浮かれ(アレーグロ)騒ぎになったので、このあたりはボルゴ・アレーグロ(浮かれ村)と呼ばれるようになり、のちに市の城壁内に編入されたが、名はそのまま残っている。」(p. 11.)
3.ジョット
◆画人伝冒頭の記述(1)
「画家は自然に対して多くを負うている。自然のなかから一番良いところ、一番美しいところを取り出して、たえず自然の模写と再生につとめる画家たちに対して、自然はいつも模範の役割を果たしてくれる。画家たちがこのように自然に従うようになったのは、私見では、フィレンツェの画家ジョットのおかげであると思われる。その理由は、戦乱のために長い間正しい絵画の規則や技法が忘れられてしまっていたとき、凡庸な同時代の画家のなかにありながら、ひとり、ジョットが、天賦の才によって、良好と呼び得る状態にまで持ちあげてくれたからである。」 (p. 17.)
・フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂
※画像ソース: http://www.chauffeurs-italy.com/italian-city/65/tuscany-travel/FLORENCE5. ジョット《十字架上のキリスト》、1295年頃、テンペラ・板、578×406cm、フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂
◆画人伝より(3)
「フィレンツェに着くと、ジョットは天賦の才とチマブーエの教授のおかげでたちまち師の作風を覚え、師に匹敵する力量を示したが、単にそれだけでなく、自然をよく模倣しようとつとめたから、あの不格好なビザンチンの様式の束縛からも完全に脱却することができたのである。実物写生という法は、過去二百年ほどの間はすっかりすたれていたが、ジョットはその画風を再興し、近代的なすぐれた絵画を復活させたのであり、その方法にかけては、前にも述べたように、誰ひとりジョットに匹敵するほど見事な絵を描くことはできなかった。」(p. 18.)
・パリ、ルーブル美術館
※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg6. ジョット《アッシジの聖フランチェスコの聖痕拝受》、(裾絵)、1295-1300年頃、テンペラ・板、313×163cm、ルーヴル美術館
・アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d9/Assisi_San_Francesco_BW_2.JPG7. ジョット《聖痕を受ける聖フランチェスコ》、1296-99年、フレスコ、270×230cm、アッシジ、サン・フランチェスコ礼拝堂
・ジョット《アッシジの聖フランチェスコの聖痕拝受》 1295-1300年頃/ジョット《聖痕を受ける聖フランチェスコ》 1296-99年頃
8. ジョット《小鳥への説教》、1296-99年、フレスコ、270×230cm、アッシジ、サン・フランチェスコ礼拝堂
・パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂
※画像ソース: http://www.zerodelta.net/monumenti_luoghi_e_palazzi/cappella-degli-scrovegni_padova.php9. ジョット《マギの礼拝》、1304-05年、フレスコ、200×185cm、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂
10. ジョット《エジプトへの逃避》、1304-05年、フレスコ、200×185cm、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂
11. ジョット 《キリストの磔刑》、1304-05年、フレスコ、200×185cm、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂
12. ジョット 《ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな) 》、1304-05年、フレスコ、200×185cm、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂
13. ジョット 《最後の審判》、1305-06年、フレスコ、1000×840cm、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂
◆画人伝より(4)
「法王ベネディクトス9世は、ジョットの人物と作品について知りたいと思い、自分の家臣を一人トレヴィーゾからトスカーナ地方へ送ってよこした。…(中略)…フィレンツェに着くと、ある朝ジョットを仕事場へ訪ね、法王の意向を伝え、法王がジョットにどのような仕事を期待しているかを説明し、最後に法王へ参考として送るために少しデッサンを描いてくれまいかと頼んだ。ジョットは気持よくそれに応じ、紙を一枚取り出すと、右腕を右脇にしっかりと固定して、それをコンパスの軸とし、赤に染まった筆を手先でぐるっとまわして円を描いた。それは一点非の打ちどころのない完全な円であった。そして描き終えたジョットは微笑して法王の家臣に向かい、
「これがお求めのデッサンです」
と答えた。
家臣は愚弄されたと思い、
「ほかにもなにかデッサンをいただけないでしょうか」
というと、ジョットは、
「これで十分です。もう十分すぎるくらいです」
と答えた。そしてジョットは、
「ほかの人のデッサンと一緒に送ってごらんなさい。そうすれば私のデッサンが認められるかどうかわかるでしょう」
とつけたした。
法王の家臣はこれ以上デッサンをもらえないことを知り、不満気な表情でジョットの仕事場を立ち去った。彼は自分が馬鹿にされたのではないか、と疑っていたのである。しかしともかくほかのデッサンとその作者名を送るとき、ジョットのデッサンも法王宛に送り、あわせてジョットが腕を動かさずコンパスも使わずに円を描いたときの模様も報告しておいた。すると美術について見識のあった法王その他の廷臣たちは、たちどころにジョットが同時代の画家のなかで抜群の才能の持主であることを了解したのである。そしてこのことがひとたび世間に伝わると、それから諺が一つ生まれたが、それはいまでも鈍感な人に向かって発せられる諺となっている。
「君はジョットの円(まる)よりもまるいね。」
Tu sei più tondo che l'O di Giotto.
この諺は、単に諺ができたいわれが面白いというだけではなく、「まるい(トンド)」という言葉がトスカーナ語では完全な円形という意味とともに鈍感でにぶい、という意味をあわせ持っているために味のある諺となっている。」(pp. 24-26.)・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html14. ジョット《荘厳の聖母(オニサンティの聖母)》、1310〜11年頃、テンペラ・板、325×204cm、ウフィツィ美術館
◆画人伝より(5)
「絵画という忘れ去られていた芸術を
確かな見事な手つきで復活したのはこの私である。
自然に欠けているもの以外に私の芸術に欠けているものはなにもない。
私よりも見事に、私よりも多くを描いた人はない。
あの青空に鳴りわたるすばらしい鐘楼を君は讃えるが、あの塔も、私の設計によって、大空にそびえたのだ。
私はジョットだ。こうしたことをいちいち言う必要があるのだろうか。
私の名前だけで長い詩以上の価値があるではないか。」
4.まとめ
チマブーエとジョット=ビザンチン様式からルネサンス様式へ
ビザンチン様式=「当時の不器用な様式」
ルネサンス様式=自然観察と古代ギリシアを模範とする「良き様式」
技法:テンペラ/フレスコ
聖フランチェスコ(1182-1226):フランシスコ会の創設者。従順・清貧・貞潔をモットーとした。
荘厳の聖母=マエスタ(Maestà)=天使や聖人に囲まれた聖母子像(図様化を伴う)
ヴァザーリの記述:美術家の生涯+作品紹介+逸話