第七回 レオナルド・ダ・ヴィンチ


1.はじめに

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)》 1503-06年


2.レオナルド・ダ・ヴィンチ

 ◆画人伝冒頭の記述(1)

「この上なく偉大なる才能が、多くの場合、自然に、ときに超自然的に、天の采配によって人々の上にもたらされるものである。優美さと麗質、そして能力とが、ある方法であふれるばかりに一人の人物にあつまる。人々はそれをレオナルド・ダ・ヴィンチにおいて見たのである。彼の身体の美しさはいくら誉めても充分ではない。それに加え彼のあらゆる行為には、限りない深さ以上に優美さが存在していた。彼の能力は十二分に発揮され、どんなことに心を向けようともやすやすと解決したのである。彼においては力が巧妙さに結合していた。魂はつねに堂々として寛大なる性格をもっていた。」 (p. 139.)

フィレンツェ、ウフィツィ美術館
 ※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html

1. レオナルド・ダ・ヴィンチ《キリストの洗礼》(部分)、1472-73年頃、テンペラ、油彩・板、177×152cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

参考図 アンドレア・デル・ヴェロッキオ《キリストの洗礼》、1470-75年、テンペラ、油彩・板、180×152cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

 ◆画人伝より(1)

「しかし彼がたとえ多くの仕事を手がけたとはいえ、絵を描くことや彫刻をすることをやめたことはなく、これらのことこそ、他のいかなる仕事よりも彼の心をとらえたものであった。父セル・ピエーロはその様子を見て、この天才の教育を考え、ある日彼の素描を持って、友人であったアンドレーア・デル・ヴェルロッキオのところを訪れ、もしレオナルドが描くことを学べば成果があがるだろうか、ほんとうのことをいってくれ、と直接尋ねた。アンドレーアはレオナルドの偉大な才能の片鱗を見てとって驚倒し、セル・ピエーロにそれをやらせるように忠告した。そこでレオナルドにアンドレーアの工房に行くように命じ、レオナルドもことのほかすすんでその言葉に従ったのである。」(p.140)

美術用語N 工房

 ◆画人伝より(2)

「あるときヴェルロッキオは聖ヨハネのキリストを洗礼する場面を制作していたが、レオナルドは着物を手にする一人の天使をそこに描いた。まだほんの少年にすぎなかったが、その天使を見事に仕上げ、師匠の描いた人物像よりはるかにすぐれていた。それで、アンドレーアは二度と絵具を手にしなくなった。一少年に自分より能力があったのを腹立たしく感じたからであった。」(p.142)

2-1. レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》、1472-75年頃、98.0×217cm、油彩・板、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

2-2. レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》(部分)大天使ガブリエル

2-3. レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》(部分)処女マリア

ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク
 ※画像ソース: http://www.carrieandjonathan.com/category/travel/germany/

3. レオナルド・ダ・ヴィンチ《カーネーションの聖母》、1475年頃、油彩・板、62×47cm、ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク

サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館
 ※画像ソース: http://www.russianracehorse.com/petersburg/images/photos/hermext01.jpg

4. レオナルド・ダ・ヴィンチ《ブノワの聖母(花の聖母)》、1478-79年、油彩・板(カンヴァスに移行)、48×30.5cm、サンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館

フィレンツェ、ウフィツィ美術館
 ※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html

5-1. レオナルド・ダ・ヴィンチ《マギの礼拝》、1481-82年頃、油彩・板、243×246cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

5-2. レオナルド・ダ・ヴィンチ《マギの礼拝》(部分)聖母子とマギ

5-3. レオナルド・ダ・ヴィンチ《マギの礼拝》(部分)背景の建物

6. レオナルド・ダ・ヴィンチ《マギの礼拝のための習作》、1481年頃、ペン、セピアインク、シルバーポイント、鉛白・紙、16.3×29cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

 ◆画人伝より(3)

「よく知られていることだが、レオナルドはその知性的な技倆により多くのことをはじめたが、何も完成しなかった。彼にとっては、思い描いていたさまざまなものに必要な完璧なる技倆に、自分の手腕が達していないと思われたのである。彼の観念においては微妙にして驚嘆すべき困難な事柄が形成され、彼の手がいかにすばらしいものであっても、それを表現することができないのであった。その上彼の移り気は多方面に向かい、自然の事物について哲学的思索にふけり、草花の特性を理解しようとしたり、天空の動き、月の軌道や太陽の運行を観察しつづけた。」(pp.141-142)

ヴァティカン、ヴァティカン美術館群
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4f/Watykan_Plac_sw_Piora_kolumnada_Berniniego.JPG

7-1. レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖ヒエロニムス》、1482年頃、油彩・板、102.8×73.5cm、ヴァチカン絵画館

7-2. レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖ヒエロニムス》(部分)

美術用語O ヒエロニムス

美術用語P アトリビュート

パリ、ルーブル美術館
 ※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg

8-1. レオナルド・ダ・ヴィンチ《岩窟の聖母》、1483年頃、油彩・板(カンヴァスに移行)、199×122cm、パリ、ルーヴル美術館

8-2. レオナルド・ダ・ヴィンチ《岩窟の聖母》比較 (左)パリ、ルーヴル美術館/(右)ロンドン、ナショナル・ギャラリー

クラクフ(ポーランド)、チャルトルスキ美術館
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Muzeum_czartoryskich.JPG

9. レオナルド・ダ・ヴィンチ《白貂を抱く貴婦人》、1485-90年頃、油彩・板、54.8×40.3cm、クラクフ(ポーランド)、チャルトルスキ美術館

サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館
 ※画像ソース: http://www.russianracehorse.com/petersburg/images/photos/hermext01.jpg

10. レオナルド・ダ・ヴィンチ(?)《聖母子(リッタの聖母)》、1490年頃、テンペラ・板(カンヴァスに移行)、42×33cm、サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館

パリ、ルーブル美術館
 ※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg

11. レオナルド・ダ・ヴィンチ(他者による加筆あり)《ラ・ベル・フェロニエール》、1490年頃、油彩・板、63×45cm、パリ、ルーヴル美術館

ヴェネツィア、アカデミア美術館 2009/6/4 11:00撮影

12. レオナルド・ダ・ヴィンチ《人体均衡図(ウィトルウィウス的人体)》、1490年頃、水彩、メタルポイント、ペン、セピアインク・紙、34.3×24.5cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館

ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/da/Santa_Maria_delle_Grazie.JPG

13-1. レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》、1495-98年頃、テンペラ・漆喰、420×910cm、ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院

13-2. レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》(上部装飾含む)

13-3. レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》(部分)キリストの頭部

 ◆画人伝より(4)

「ミラーノ公ジョヴァンニ・ガレアッツォが死去し、ロドヴィーコ・スフォルツァが位についた年と同じ1494年、レオナルドは高い評判に囲まれながらミラーノ公のもとにやってきた。公はリラの音を愛し、彼にそれを弾かせるために招いたのであった。その折レオナルドは自分の手で作った楽器を持って来たが、それは大部分が銀でつくられており、馬の頭蓋骨の形をした奇妙で新しい型のものであった。しかももっとも高い音でも調和がとれており、響きもよかったので、彼はここに集い競い合ったあらゆる音楽師たちよりも優っていた。それに加えて、彼はまたもっとも秀れた吟誦詩人でもあった。公はレオナルドのすばらしい弁説を聴き、その才能を称讃し、信ずることができないほど愛した。彼は公の信頼に応じて祭壇画として『聖誕図』を描き、その絵は公から皇帝に贈られた。ミラーノにおいて彼はサンタ・マリーア・デルレ・グラーツィエ寺の聖ドミニコ派宗団のために『最後の晩餐』を描いたが、それは限りなく美しく、驚嘆すべき作品であった。使徒たちの顔にあまりの荘厳さと美しさを与えてしまったので、キリストの顔は未完成のままに残された。キリストの姿に要求されるあの世の神性を与えることがもはやできないように思われたからであった。かくしてこの作品は完成に近づいたところで、すでにミラーノ人のみならず外国人によってもこの上ない賞讃の的となったのである。」(pp.145-146)

ロンドン、ナショナル・ギャラリー
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Nationalgallery.jpg

14. レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖アンナと聖母子、幼児の洗礼者ヨハネ (バーリントン・ハウス・カルトン)》、1499-1500年頃、木炭、鉛白・紙、139×101cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー

パリ、ルーブル美術館
 ※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg

15. レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖アンナと聖母子》、1501-13年 (未完成)、油彩・板、168.5×130cm、パリ、ルーヴル美術館

16-1. レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)》、1503-05年頃、油彩・板、77×53cm、パリ、ルーヴル美術館

 ◆画人伝より(5)

「レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻モナ・リーザの肖像を描くことになった。そして4年以上も苦心を重ねた後、未完成のまま残した。この作品は現在フランスのフランソワ王の所蔵するところとなり、フォンテンブローにある。芸術がどれほどまで自然を模倣することができるかを知りたいと思う人があれば、この肖像によって容易に理解することができるだろう。なぜなら、ここには精緻きわまる筆で描きうるすべての細部が写されているからである。眼は生きているものに常に見られる、あの輝きと潤いをもっている。そして周囲には赤味を帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない感覚なくしては描きえないものである。眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によってさまざまに変化している様子が描かれているため、これ以上自然であることは不可能である。鼻孔の美しいその鼻はばら色でやわらかく、まるで生きているようである。口はその開きぐあいといい、また口唇が赤で描き出されているさまや、顔色が真に迫っているところなど、色が着けられたのではなく、肉そのものと思われるほどであった。咽喉のへこみを気をつけて見る人には脈が打つのが見える。実にかくなる方法で描かれたこの絵は、すべての作家、いかなる才人をも戦慄させ、恐れさせてしまうということができる。彼はまたこんな工夫もした。モナ・リーザがたいへん美しかったので、彼女の肖像を描いている間、弾き、歌い、かつ絶えず道化する者をそばにおいて、楽しい雰囲気をつくった。肖像画を描くとき、しばしば憂鬱な気分を絵に与えてしまうのを避けようとするためであった。レオナルドのこの作品には心地よい微笑があるが、そこからは人間的というより神的なものが見てとれる。そしてこれ以上生き生きとしたものはないほど見事なものである。」(pp.150-151.)

16-2. レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)》(部分)

16-3. レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)》(展示風景)

17. レオナルド・ダ・ヴィンチ《洗礼者聖ヨハネ》、1513-16年頃、油彩・板、69×57cm、パリ、ルーヴル美術館

 ◆画人伝より(6)

ミケランジェロ・ブオナローティとレオナルドとの間には、たがいに大きな蔑みの感情があった。ミケランジェロは法王によってサン・ロレンツォ寺の正面を設計するためにフィレンツェに招かれていたが、故なき競争のためジュリアーノ公の許しを得て、フィレンツェを発った。これをきくと、レオナルドはローマを出発しフランスに向かった。フランス王はレオナルドの作品を所有しており、彼をたいへん贔屓にして、彼が『聖アンナ』の下絵に色彩をつけることを望んでいた。しかしいつものように、それは長い間ただ口約束のままであった。ついに年老いて何か月も病いに伏し、死が近いのを悟ると、レオナルドは、カトリックのこと、神聖なキリストの宗教のことどもを誠意をもって学びたいと願い、深い悲しみのうちに告白し罪を悔いた。そして、たとえ立ち上がることができなくても、友人や召使いの腕に支えられて床を離れ、敬虔でこの上なく聖なる秘蹟を受けたいと願った。そのときちょうど、変わらずに彼を愛し厚い友情をもって訪問していたフランス王が急にあらわれた。レオナルドはうやうやしく身を起してベッドに坐り、病気とその容体を語り、納得のゆく芸術作品をつくらずに、いかに自分が神に背き、世の人々を傷つけてきたかを述べた。痙攣がやってきた。王は立ち上がって、レオナルドの頭を支えて彼の苦痛を軽くしてやり、厚情の念を示された。神のようであった彼の精神は、今やこれ以上の名誉は望めないことを知りつつ、王の腕に抱かれたまま息を引き取った。75歳であった。」(pp.153-154.)

参考作品 アングル《 レオナルド・ダ・ヴィンチの死》、1818年、油彩・カンヴァス40×50.5cm、パリ、プティ・パレ美術館


レオナルド・ダ・ヴィンチ略年譜

1482年 自薦状を携えてミラノ公国へ。
1494年 フランスのイタリア侵攻。
1500年 占領下のミラノを離れ、フィレンツェに戻る。
1502年 軍事技師として教皇軍に従軍。
1503年 フィレンツェに戻り、市庁舎の壁画をミケランジェロと競作(未完)。
1506年 在ミラノのフランス総督の要請でミラノへ。
1513年 ジュリアーノ・デ・メディチの招聘でローマへ。このとき、ミケランジェロとラファエロもローマで活動
1516年 フランソワT世に招聘されフランスへ。
1519年 5月2日死去。


レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)》 1503-06年

《モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)》および、《カーネーションの聖母》から《ラ・ベル・フェロニエール》まで


3.まとめ

この講義で紹介した美術館、教会など

レオナルド・ダ・ヴィンチ=優美な天才、未完成作多数。

ミケランジェロとの反目

フランソワT世: 1515年にミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放。翌年レオナルドはフランスへ移住。

ウィトルウィウス:古代ローマの建築家・建築理論家。

用語:工房(ボッテーガ)/ヒエロニムス/アトリビュート

ルネサンス期の作品図版:修復前/修復後=刷新され続けるルネサンス美術、インターネットによる予約制

ヴァザーリの「列伝」=伝聞と創作→美術家「伝説」の形成 cf. アングルなど19世紀フランス新古典主義の画家たちによる