第十三回 ミケランジェロ(3)


1.はじめに

ミケランジェロ(1475-1564)

ミケランジェロ《最後の審判》 1535-41年


2.ミケランジェロ

 ◆画人伝より(1)

「ミケランジェロはローマのクレメンス法王のもとに行くことになった。法王は彼のことに腹を立てていたにもかかわらず、天分に恵まれた友人としてすべてを許した。そしてフィレンツェへ戻り、サン・ロレンツォ寺の図書室と聖器室をすべて完成するよう命じた。…(中略)…しかしちょうどそのとき、法王は、システィーナ礼拝堂の正面を飾るつもりで、彼を自分の側近くに置いておきたい気になった。その礼拝堂に、彼はかつてシクストゥスの甥ユリウス2世のために天井穹窿を描いたことがあった。クレメンスは、その壁面のうちの祭壇のある正面壁に最後の審判を描くよう望んだのである。」(pp. 262-263.)

ヴァチカン、ヴァチカン美術館群
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4f/Watykan_Plac_sw_Piora_kolumnada_Berniniego.JPG

1. ミケランジェロ《システィーナ礼拝堂天井画》、1508-12年、フレスコ、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

2-1. ミケランジェロ《ダヴィデとゴリアテ》、1508-09年、フレスコ、570×970cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

2-2. ミケランジェロ《ユディットとホロフェルネス》、1508-09年、フレスコ、570×970cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

 ◆画人伝より(2)

「この天井穹窿の四隅の物語については、なにを語り得ようか? 少年の若々しい力を持ったダヴィデは、巨人を打ち負かすところで、まさに首を切り落とそうとしており、その場をとりまく何人かの兵士たちを驚駭させている。同様に、他の隅に彼が描いたユデトの場面のいとも美しい仕草も、人を驚かせるほどのものだ。そこには、首無しののたうちまわるホロフェルネスの胴体が見られ、他方ユデトは、年老いた侍女の頭にある籠の中に死者の頭部を置いている。その侍女は体が大柄なので、ユデトが適確にバランスよく首を置けるように身を屈めている。一方ユデトは、その重さを手で支え、布をかぶせようとし、頭をその胴体のほうに向けている。その胴体は、死んでいるのだが、脚や手を上げて天幕の中にざわめきを起こしている。彼女の表情には、その陣営の怖れと死者への恐怖があらわれている。本当によく熟慮された絵画である。」(p. 248.)

2-3. ミケランジェロ《青銅の蛇》、1511-12年、フレスコ、585×985cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

美術用語(42) 青銅の蛇

美術用語(43) アブラハム

2-4. ミケランジェロ《ハマンの懲罰》、1511-12年、フレスコ、585×985cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

 ◆画人伝より(3)

「これよりも、そして他のどんなものよりも美しく神々しいのが、祭壇の左隅にあるモーセの蛇の物語である。というのは、そこには、蛇の雨が刺したり噛んだりして死をひきおこす大殺戮が見られ、またモーセが棒の上に置いた、青銅製の蛇が見られるからである。この物語には、蛇に噛まれてあらゆる希望を失った人々の多様な死にざまが、まざまざと見られる。そこには、とてつもない毒が激痛や恐怖で無数の人々を死なせているのが認められる。脚を上げることも腕に巻きつけることもならず、そのままの仕草で人々は動くことができないでいる。いわんやいとも美しい頭部は、叫び、輾転反側し、絶望している。これらすべてよりも少なからず美しいのが、蛇を見つめる人々である。彼らはそれを見ることで苦痛がやわらぎ、生命をとり戻せると感じ、たいへんな熱意でそれを見ているのである。彼らの間に1人の女性が見られる。1人の男に支えられており、彼女を支えようと出された手さえ認められるほどだ。それはあまりに急激な恐怖と苦痛のため、必要とされることなのである。アハシュエロス王がベッドで自分の年代記を読んでいる次の場面でも、同様に人物像がいとも美しい。さらにテーブルで食事をしている3人の人物が見られ、ヘブライの民を解放し、ハマンを縛り首にする協議をしているところを表現している。そのハマンの姿は、ミケランジェロによって特別な短縮法で仕上げられた。彼は、この人物の体を支える胴体や、前に突き出した腕でもそうだし、内に向かう体の諸部分でもそうなのだ。確かに描くのにむずかしく、美しいもののなかでももっとも美しく、かつもっとも困難な人物像である。
 もしこれら非常に美しい多様な行為の構想を明確化しようとしたら、たいへん長々としたものになるだろう。そこでは全体が、イエス・キリストの祖先たちを示すべく、ノアの息子たちから始まる先祖たちの系譜となっているのである。それらの人物像に対して、服地、頭部の雰囲気、特異で新しい無数の創意にみちたさまざまな事物は、口であらわされるものではない。そこには、天分によって実現されていないものはない。そこにいるすべての人物は、じつに美しく技巧にすぐれた短縮法によっているのであり、讃嘆されるすべてが非のうちどころなく神々しいのである。」(pp. 248-249.)

3-1. ミケランジェロ《ソロモン》、1511-12年、フレスコ、245×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

3-2. ミケランジェロ《レハベアム》、1511-12年、フレスコ、240×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

3-3. ミケランジェロ《ウジア》、1510年、フレスコ、245×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

3-4. ミケランジェロ《ゾロバベル》、1508-09年、フレスコ、245×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

3-5. ミケランジェロ《ヨシュア》、1508-09年、フレスコ、245×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

3-6. ミケランジェロ《エゼキア》、1510年、フレスコ、245×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

3-7. ミケランジェロ《アサ》、1511-12年、フレスコ、240×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

3-8. ミケランジェロ《エッサイ》、1511-12年、フレスコ、245×340cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-1. ミケランジェロ《アミナダブ》、1511-12年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-2. ミケランジェロ《ボアズ、オベテ》、1511-12年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-3. ミケランジェロ《アビア》、1511-12年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-4. ミケランジェロ《ヨタム、アハズ》、1510年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-5. ミケランジェロ《アビウデ、エリアキム》、1508-09年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-6. ミケランジェロ《アキム、エリウデ》、1508-09年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-7. ミケランジェロ《ヤコブ、ヨセフ》、1508-09年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-8. ミケランジェロ《エレアザレ、マタン》、1508-09年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-9. ミケランジェロ《アゾル、サドク》、1508-09年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-10. ミケランジェロ《エコニア、サラテル》、1508-09年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-11. ミケランジェロ《マナセ、アモン》、1510年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-12. ミケランジェロ《ヨサパテ、ヨラム》、1511-12年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-13. ミケランジェロ《ダヴィデ、ソロモン》、1511-12年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

4-14. ミケランジェロ《ナアソン》、1511-12年、フレスコ、215×430cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

 ◆画人伝より(4)

「私はこの場面の構想や細部の内容にまで、ことこまかに立ち入るつもりはない。それは大小いろいろと写され、複製にされているから、それを描写して時間を浪費するには及ぶまいと思われる。ただ次のことが理解されれば充分である。つまりこのきわだってすぐれた人物の創意は、人体の完璧でよく比例のとれた構成以外のものは描こうとせず、それをいとも多様な姿態のうちに描こうとしたのだ、ということである。しかもそれだけではなく、情熱的な感動と魂の喜びをも描こうとしたのであり、彼がこの方面で自ら満足するのは当然で、当のあらゆる分野の芸術家たちより秀でていたのである。大きな様式や裸体像のすべてを示しており、また素描術のむずかしさをいかに知悉しているかを示している。結局のところ彼は、人体においてその本来の意図する素描術を楽々と仕上げる道を切り開いたのであった。そしてこの目的に専心しながら、他方で色彩の優美、創意、ある種の細心さや繊細さのうかがえる新たな構想をもとどめることになった。これらは、他の多くの画家たちによって、おそらく理由はあってのことだが、完全に無視されてきたというわけでもない。おかげで、素描術をたいして会得してもいない何人かの人々はさまざまな色の濃淡や陰影を用いたり、一風奇妙でさまざまな、かつ新奇な創意を用いたり、つまりはこうした素描術とは別のやり方で、一流の師匠たちの仲間入りをしようと努めたのである。しかし、いつもしっかりと芸術の深みを体得していたミケランジェロは、それなりに理解している人々にも、いかにして完全性に達すべきかを示したのであった。」(pp. 267-268.)

5. ミケランジェロ《システィーナ礼拝堂天井画と祭壇画》

6-1. ミケランジェロ《最後の審判》、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

美術用語(44) 最後の審判

6-2. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:左上部)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

6-3. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:右上部)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

美術用語(45) 受難具

6-4. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:中央部左)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

6-5. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:左下)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

6-6. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:中央部右)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

 ◆画人伝より(5)

「さて、本筋にたちかえると、ミケランジェロは、パウルス法王が見にきたときにはすでに作品の4分の3以上を仕上げていた。その際、法王のお供で礼拝堂にいた儀典長の謹厳居士たるビアージョ・ダ・チェゼーナ氏は、どう思うかと聞かれたので、いとも荘厳な場所にたくさんの裸体像を描いたのはなんとも不敬なことだ、裸体像はふまじめにもその恥ずかしいところまで見せている、法王礼拝堂用の作品ではなく、風呂屋か宿屋むきの作品だ、と言った。おかげでミケランジェロは不愉快になった。それで報復してやろうと思い、彼が出て行くや、以前には別に彼を見たことなどなかったのに、地獄のミノスの姿にして、実物大に描きこんだのである。それは悪魔たちが群がるなかで、両脚を大蛇に巻きつけられている姿であった。ビアージョ氏は、法王やミケランジェロに、それを取り除いてくれるよう頼みこんだが無駄であった。いまでも見られるとおり、やはりそれを記念に残しておいたのである。」(p. 268.)

6-7. ミケランジェロ《最後の審判》(部分:右下)、1535-41年、フレスコ、1,370×1,220cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮システィーナ礼拝堂

 ◆画人伝より(6)

「さてこの審判図が公開されるや、それは、かつてそこで制作したことのある第一級の芸術家たちに立ち勝っているばかりか、(システィーナ)天井画にさえ勝っていることを証したのであった。その天井画は、かつて彼が大いに賞揚されたものだが、彼はそれすら越えようとしたのである。つまり截然とそれに立ち勝ることで、自己をも越えたのである。彼はそれら審判の日々の恐怖を思い描き、正しく生きなかった人々の大いなる罪のために、主の受難を描いたのであった。彼は空中のさまざまな裸体像に十字架、柱、槍、スポンジ、くぎ、茨の冠を持たせ、完成はなんとも困難なのに、やすやすと多様でさまざまな仕草を付与している。」(p. 269.)

7-1. パオリーナ礼拝堂、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮

 ◆画人伝より(7)

「さて、アントーニオ・ダ・サンガルロ伝で述べたように、法王パウルスは、ニコラウス5世礼拝堂を模して、同じ階にパオリーナという礼拝堂を建立させた。そしてそこにミケランジェロが2つの大物語を描くよう決定を下した。…(中略)…これらは、75歳の彼が制作した最後の絵であり、彼が私に語ってくれたところによると、たいへんな労力を要したのであった。ある程度の年齢を越えると、絵画、殊にフレスコ画の制作というものは辛くなり、老人の芸術というわけにはいかなくなるのである。」(pp. 272-273.)

7-2. ミケランジェロ《聖パウロの改宗》、1542-45年、フレスコ、625×661cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮パオリーナ礼拝堂

7-3. ミケランジェロ《聖ペテロの殉教》、1545-49年、フレスコ、625×661cm、ヴァチカン、ヴァチカーノ宮パオリーナ礼拝堂

フィレンツェ、ウフィツィ美術館
 ※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html

8. ミケランジェロ《ドーニ家の聖家族》、1503-05年、テンペラ・板、直径120cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

ロンドン、ナショナル・ギャラリー
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Nationalgallery.jpg

9. ミケランジェロ派《キリストの埋葬》、1510年頃、テンペラ・板、159×149cm、ロンドン、
ナショナル・ギャラリー

 ◆画人伝より(8)

「ヴァザーリはこの年、フィレンツェで『画家、彫刻家、建築家列伝』の書物を印刷しおえた。彼は生きている者たちの誰の伝記をも書かなかった。年老いた人でも例外ではなかった。ただしミケランジェロは例外であった。彼に一冊を献じたところ、彼はたいそう喜んで受け取った。この著作でヴァザーリは、彼の口から記憶に値する多くのことを得ていた。彼が最長老の判断力に富む芸術家だったからだ。そして最近それを読んで、ミケランジェロは以下の自作ソネットを送ってくれた。彼の愛情の記念に、ここにこうしておさめるのはうれしい限りである。

君は筆と彩色をふるい
その技芸を自然の域まで達せしめた
むしろ自然からその誉れを感じさせた
自然の美以上の美を描くから

そしていま 君が学の手で
文筆の高貴の業を始めれば
かつては不可能の 自然の価値を奪い去る
人びとに新たな生命を与えるのだ

かつていつの世も 美しい作品で
自然と技を競っても とかく道を譲るもの
限りある結末に行くのが事の常だから

けれど失せし人らの記憶をゆりおこし
かくある生命を与えれば 君はまた
自然の定めにかかわらず 永遠に生きながらえる」

(pp. 282-283.)

ミケランジェロ《最後の審判》 1535-41年


 ◆ミケランジェロによる建築の作例

ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂(クーポラ部分)

ローマ、パラッツォ・ファルネーゼ(3階部分)

美術用語(46) 様式


3.まとめ

この講義で紹介した美術館、教会など

ミケランジェロ=「完全性」に達し、自己をも乗り越えた美術家。

青銅の蛇/アブラハム/最後の審判/受難具/様式

ヴァザーリの『画人伝』:第1版=1550年第2版=1568年