第四回 ピエーロ・デラ・フランチェスカフラ・アンジェリコ


1.はじめに

ピエーロ・デラ・ フランチェスカ(ca.1412/17-1492)/フラ・アンジェリコ(ca.1395-1455)

ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《慈悲の聖母》 1453-54年頃/フラ・アンジェリコ《受胎告知》 1440年代前半


2.ピエーロ・デラ・フランチェスカ

 ◆画人伝冒頭の記述(1)(2)

「世に役立ち、自らの名も同時にあげようと、惜しまず仕事に精進している人物が、病気あるいは死によって、手がけ始めた作品をやむをえず中途で放棄せねばならないとしたら、これほど不幸なことはない。図々しいロバのような男が、自らの皮の上に高貴な獅子の皮をまとうように、完成間近の、あるいは立派に完成してある他人の仕事を横取りしてしまうことがしばしばある。時は真実の父であり、真相は遅かれ早かれあばき出されるとしても、一定期間は真の作者の努力に帰すべき名誉が誰かにかすめ取られることも起こり得る。ボルゴ・サンセポルクロ出身のピエーロ・デラ・ フランチェスカの場合がこれにあてはまる。彼は数学、幾何学および正面体の図学的処理に関して、傑出した大家とみなされていたが、老年になってからの失明、それに続く死のために、優れた業績や書き上げられた論文は公にされなかった。この人の名誉を全力を傾けて推輓すべき人物が、すべてをこの人から学んだのであるから当然そうすべきであるにもかかわらず、邪な悪意を抱いて、師ピエーロの名を闇に葬ってしまった。」(p.71.)

ロンドン、ナショナル・ギャラリー
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Nationalgallery.jpg

1. ピエーロ・デラ・フランチェスカ《キリストの洗礼》、1450年代、テンペラ・板、167×116cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー

 ◆画人伝より(1)

「ピエーロは年少の頃から数学に熱中し、15歳を過ぎてからは画家として通っていたのに、数学と縁を切ることはなかった。数学においても絵においても進境いちじるしく、ウルビーノの老大公グイドバルド・モンテフェルトロに召しかかえられて、大公のために小さく描かれた人物像の美しい絵を多く残している。しかもこれらの作品は、この国を数回にわたって見舞った戦乱によって大部分が損なわれてしまった。それでも、幾何学と遠近法に関するいくつかの論文は保存されている。この分野では、当時だけでなく古今を通じて、他の追随をいっさい許していないことがこれらの論文に示されており、またそのことは、遠近法を存分に駆使した彼自身のすべての作品によって明らかである。」(p.72.)

サンセポルクロ、市立美術館
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Sansepolcro%2C_museo_civico%2C_esterno_02.JPG

2. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《慈悲の聖母(ミゼリコルディアの多翼祭壇画中央パネル)、1453-54年、テンペラ・板、134×91cm、サンセポルクロ、市立美術館

ウルビーノ、国立マルケ美術館のあるドゥカーレ宮遠望
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Panorama_Urbino2.jpg

3. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《キリストの鞭打ち》、1453-54年頃、テンペラ・板、58.3×81.5cm、ウルビーノ、国立マルケ美術館 ※「聖ヒエロニムスの夢」説も

モンテルキ、《出産の聖母》のある美術館
 ※画像ソース:
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Monterchi%2C_museo_della_madonna_del_parto_01.JPG

4. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《出産の聖母》、1457-58年、テンペラ・板、260×203cm、モンテルキ、墓地礼拝堂

 ◆画人伝より(2)

「ピエーロはロレートからアレッツォに移り、地元の人であるルイージ・バッチのために、サン・フランチェスコ寺の主祭壇にあるバッチ家の礼拝堂に壁画を描いた。礼拝堂の天井はすでにロレンツォ・ディ・ビッチが手がけていた。この作品の主題は木の十字架の物語である。アダムの息子たちは、アダムを埋葬するときに、舌の裏に木の種をつけておいた。その種から問題の樹が生え、皇帝ヘラクリウスはその樹から作った十字架を自身の肩にかけ、裸足でエルサレムに入城し、木の十字架に欣然として跪拝するに至るまでの出来事が描かれている。」(p.74.)

アレッツォ、サン・フランチェスコ聖堂
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Arezzo-Basilica_di_San_Francesco.jpg

5. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《アダムの死(聖十字架物語)、1454-64年頃、フレスコ、390×747cm、アレッツォ、サン・フランチェスコ聖堂礼拝堂

6. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《コンスタンティヌス帝の夢》、1454-64年頃、フレスコ、329×190cm、アレッツォ、サン・フランチェスコ聖堂礼拝堂

 ◆画人伝より(3)

「多くの工夫のなかでも、芸術上の独創性は、夜と天使を描いた物語に一番よく発揮されている。天使がコンスタンティヌス大帝をめがけて、勝利を告げるために飛来する。天使は前縮遠近法で描き込まれている。コンスタンティヌスは天幕で眠りについていて、それを一人の従者と兵士が警護している。衛兵のほうは夜の闇にくろぐろと見える。天使を光源とする光が、同時に天幕と衛兵とあたり一帯を照らし出しているが、その手法には細心の注意が払われている。暗やみの表現において、ピエーロは対象そのものに直接迫り、現実をあるがままに描き出すことがいかに重要であるかをわれわれに認識させてくれる。われわれの時代の人間にピエーロは進むべき道を示し、芸術全体が頂点にある今日への礎石を置いたのである。」(pp.74-75.)

7. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《十字架の発見と検証(聖十字架物語)》、1454-64年頃、フレスコ、356×747cm、アレッツォ、サン・フランチェスコ聖堂礼拝堂

美術用語C 聖十字架伝説

サンセポルクロ、市立美術館
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Sansepolcro%2C_museo_civico%2C_esterno_02.JPG

8. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《復活のキリスト》、1465年、フレスコ、225×200cm、サンセポルクロ、市立美術館

ミラノ、ブレラ絵画館
 ※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Milano_Pinacoteca_di_Brera1.JPG

9. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《ブレラの祭壇画》、1460年代末、テンペラ・板、251×172cm、ミラノ、ブレラ絵画館

美術用語D パトロン

フィレンツェ、ウフィツィ美術館
 ※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html

10, 11. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《バッティスタ・スフォルツァの肖像》(左)、《フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像》(右)、1474-75年頃、油彩・板、各47×33cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

10, 11. ピエーロ・デラ・ フランチェスカ《バッティスタ・スフォルツァの肖像》、《フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像》の裏面(部分)、1474-75年頃、油彩・板、各47×33cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

 ◆画人伝より(4)

「ボルゴ人ピエーロの絵画はだいたい1456年前後の作だが、本人は60歳のとき白内障になって失明し、そのまま86歳まで生きながらえた。ボルゴにかなりの資産と、自分の手で建てたいくつかの家作を残したが、それらは1536年、町の内紛のあおりを食って焼け落ちてしまった。葬儀は、その頃まだカマルドリ派の寺で、現代は司教の管する町の本寺において、人々の手により盛大に行われた。ピエーロの著書は、大部分がウルビーノ公フェデリーゴ二世の図書館におさめられている。ピエーロが得ていた当代屈指の幾何学者との評判をその内容は裏書きしている。」(pp.77-78.)


3.フラ・アンジェリコ

 ◆画人伝冒頭の記述(1)

「僧ジョヴァンニ・アンジェリコ・ダ・フィエーゾレは俗名をグイドといい、画家・細密画工として秀でていたばかりか、敬虔なる修道僧でもあった。この二つの事由によって、後世に記憶さるべき人物とされている。世俗の世界にあれば充分に安逸な生活が送れたであろうし、持っていた資産に加えて、幼児よりすでに巧みであった画筆の才を加えれば、かなわぬ望みはなかったであろう。落ち着いた善良な性格であったため、心の安らぎ、特に魂の救済を願い求めて、伝道修道会に身を投じるにいたった。」(p.81.)

フィレンツェ、ウフィツィ美術館
 ※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html

12. フラ・アンジェリコ《聖母戴冠》、1435年頃、テンペラ・板、112×114cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

パリ、ルーブル美術館
 ※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg

13-1. フラ・アンジェリコ《聖母戴冠》、1430年代後半、テンペラ・板、209×206cm、パリ、ルーヴル美術館

 ◆画人伝より(5)

「しかしながら、圧巻は同寺の入口を入ると扉の左手にある絵で、この画家の全作品を通観しても、ここでは自己の特色をもっともいかんなく発揮し、ありとあらゆる技巧をつくして自己をのり超えている。イエス・キリストが、天使の合唱隊と、その数の多さにもかかわらず各人の異なった表情と姿勢がうまく捉えられている多くの聖人聖女に囲まれて、聖母に冠を授ける情景を眺めていると、信じがたいほどの優しい感情が心中に湧いてくる。これらの祝福されたる魂は天国以外には存在しないような気がしてくる。いや、これらの魂に肉体を与えるならば、このような表現以外なかったと言ったほうがよかろう。」(pp.83-84.)

13-2. フラ・アンジェリコ《聖母戴冠》(部分)

サン・マルコ美術館 2008/10/22 12:47撮影

14. フラ・アンジェリコ《ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)、1440年代前半、フレスコ、177×139cm、フィレンツェ、サン・マルコ美術館

15. フラ・アンジェリコ《受胎告知》、1440年代前半、フレスコ、187×157cm、フィレンツェ、サン・マルコ美術館

16. フラ・アンジェリコ 《受胎告知》、1440年代前半、フレスコ、124×150cm、フィレンツェ、サン・マルコ美術館

美術用語E 受胎告知

 ◆画人伝より(2)

「自分のような仕事に従事するならば、静かな憂いのない生活を送るべきだとも、キリストにまつわる話を描くなら、いつもキリストの近くにいなくてはならないとも、繰り返し言っていた。修道僧といるときも、信じがたいことだが、怒った顔ひとつ見せなかったのは立派というほかない。友をさとすにあたっても、素直な微笑をたやさなかった。絵を所望する人々には、非常に優しい物腰で、まず修道院長の許しを得るように説き、約束をたがえることはなかった。人々の賞讃してやまないこの僧は、つまるところ、仕事振りと話において謙虚であり、作品において練達かつ敬虔であった。この人ほど、聖者らしい聖者を描いた人は他に見あたらない。作品をひとたび完成すると、手を加えたり、描き直したりはしなかった。最初一気に仕上げたままで置いておくのが常であった。それが神のおぼしめしだというのが本人の言葉であった。噂では、画筆をとる前に必ず祈りの言葉を唱えたという。キリストの処刑図を描くときは、涙がつねに彼の頬をぬらしていたという。彼の描く人物の表情や姿に、キリストに対して彼が抱いていた深い真面目な信仰心が見出されるのも当然といえよう。」(p. 88.)


4.まとめ

この講義で紹介した美術館、教会など

ピエーロ・デラ・ フランチェスカとフラ・アンジェリコ=個性的な2人の画家/傑出した遠近法の理解者と信心深い僧侶画家

ピエーロ・デラ・ フランチェスカ=「遠近法を存分に駆使」

フラ・アンジェリコ=「深い真面目な信仰心」

用語:聖十字架伝説/パトロン/受胎告知

ヴァザーリの歴史認識:現代=芸術の頂点(から衰退?)

ヴァザーリの記述の問題:伝聞に基づく情報も多く、正確さを欠く(全イタリアに拡がる情報網。なるべく実見しようとした)