第十一回 ミケランジェロ(1)
1.はじめに
2.ミケランジェロ
「この上なく高名なジョットとその後継者たちの光明に浴した、勤勉ですぐれた芸術家たちは、幸運の星と、調和のとれたほどよい性格がもたらしたその才能を、世に示そうと努力した。彼らは、多くの人々が叡智と名づける、あの認識全体にできる限り近づくために、その卓越した技量で、自然の偉大さを模倣しようと努めたのである。一方、いとも恵み深き天の支配者たる神は、地上の美術家たちの無益な労苦と実りのない孜々たる研鑽、そして真実から、光と闇よりもさらに遠ざかっている人間たちのあやふやな知識をごらんになられ、その多くの誤ちから救い出してやろうとして、地上に一つの魂を送りだそうとされた。彼は、おのおのの芸術、おのおのの学芸分野に秀で、彼の作品だけが絵画作品に、浮彫性を付与すべく、線描きや輪郭、明、暗による素描術の、完璧性の何たるかを示すことができるのである。また、彫刻においては正しい判断力で制作し、建築術では、心地よく確実で清潔であり、軽快で比例がとれ、さらに多様な装飾にみたされた建物の制作を行うのである。この他にも神は、その生涯、作品、品行の尊さ、そしてあらゆる人間行為の点で、世間がすばらしい手本として彼を愛惜し、讃えるようにとのはからいから、彼に麗しい詩才とともに、真の人倫を付与しようとした。」
◆画人伝より(1)
「この頃、メディチ家のロレンツォ豪華王は、サン・マルコ広場の自分の庭園に、彫刻家ベルトルドを住まわせていた。たいへんな費用をかけて収集した多くの美しい古代の作品の監督・管理人としてばかりでなく、画家・彫刻家の卓越した指導者、校長としてであった。ロレンツォはこのような学校をつくりたいと真面目に考え、ドナテルロの弟子であったこのベルトルドに託したのである。…(中略)…それで、絵画や彫刻に非常な愛着を持っていたロレンツォは、自分の代には、非常に名高く有名な多くの画家がいるわりには、高名で気高い彫刻家がいないのを嘆き、前述したように、学校をつくる決心をしたのである。このため、彼はドメーニコ・ギルランダイオに、もし彼の工房に彫刻に引かれている若者がいたら庭園によこすよう依頼した。ロレンツォは、自らとドメーニコと町の名誉のために、そこで彼らを鍛え、育て上げることを望んだのである。そんなわけで、なかでも最適な若者として、ミケランジェロとフランチェスコ・グラナッチがドメーニコに推された。すると、トルリジャーニ家の青年であるトルリジャーノが、ベルトルドから与えられたいくつかの丸彫像を粘土で制作しているのにでくわした。ミケランジェロはこれを見て、競争心から、彼もまたそのいくつかを制作した。」(pp. 219-220.)
◆画人伝より(2)
「彼はあらゆる活動で他の者たちより熱心であったし、生き生きとした大胆さで、往々迅速なところをみせていた。彼は何か月も、カルミネ寺でマザッチョの絵から素描を行った。深い判断力をもってこれらの作品を模写したので、芸術家や他の連中はそれに驚き、名声ともども嫉妬をも増大させることになった。彼と仲がよく、冗談口をきいていたトルリジャーノは、ミケランジェロが彼よりも賞讃され、技量も上であるのを見て、嫉妬にかられ、無謀にも握りこぶしで彼の鼻を打ちすえた。鼻は不幸にも傷つけられ、つぶれてしまい、それ以後ずっと鼻にその跡をとどめることになったということである。」(pp. 221-222.)
・フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c6/Il_Bargello.jpg1-1. ミケランジェロ《バッカス》、1496-97年、大理石、高さ203cm(台座含む)、フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館
◆画人伝より(3)
「そしてひきつづき、10パルモのバッカス像をつくらせた。それは右手に器を、左手には虎の皮とサテュロスが食べようとする一房のぶどうを持っているものである。この像のなかには、特に男性的な若者のしなやかな姿と女性的な豊満さや丸みが与えられており、彼がみごとな肉体にある種の混交をもたらそうとしたことが認められる。いともすばらしい作品であり、その頃まで活躍していたどんな同時代者よりも彫刻に卓越していることを示したことになる。」(p. 225.)
1-2. ミケランジェロ《バッカス 》(部分) 虎の皮持つ左手と葡萄を食べるサテュロス
・ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/15/Petersdom_von_Engelsburg_gesehen.jpg
◆画人伝より(4)
「こうしたことが、ロヴァーノ枢機卿と呼ばれたフランスのサン・ドニの枢機卿に、かの有名な町(ローマ)に、この稀なる美術家の手による何か価値ある自分の記念を残しておきたいという気にさせたのである。そこで彼はミケランジェロに、大理石で丸彫りのピエタを制作させた。完成すると、それはサン・ピエートロのマルテ寺院のヴェルジーネ・マリーア・デルラ・フェッブレ礼拝堂に置かれた。すぐれた彫刻家、芸術家といえども、この作品に対して、その造形力や優美さで何かをつけ加えようという気にはならないし、また、苦労して繊細さや洗練度をもってつくり出す気にも、さらにミケランジェロがここで行ったような技量で大理石を仕上げる気にもならないだろう。ここには、彫刻術のあらゆる価値と力が見られるからである。そこにある美しいもののなかで、その神聖な布地も含めて、死せるキリストの姿自身が目につく。どんなに肢体の美しい、肉体の巧みなものも、この肉体の骨格の上にある筋肉や血管、腱などで巧みにつくられた裸体像ほどのものは見られないだろう。これほど死そのものといった死体が見られようとは思われない。」(p. 225.)
2-1. ミケランジェロ《ピエタ》、1498-1500年、大理石、高さ174cm、ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂
2-2. ミケランジェロ《ピエタ 》(部分) MICHAELAGELVS BONAROTVS FLORENTA...
・フィレンツェ、アカデミア美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Palazzo_dell%27arte_dei_beccai_01.JPG3. ミケランジェロ《ダヴィデ》、1501-04年、大理石、高さ517cm、フィレンツェ、アカデミア美術館
◆画人伝より(5)
「この像を目の当たりにしたピエーロ・ソデリーニは非常に満足したが、ミケランジェロがいくつかの部分に再び手を入れた際に、彼に向かって、この像の鼻は大きすぎるように見えるといった。ミケランジェロは、市政長官が巨像の下におり、そこから見ていたのでは実際に彫っているところが見えないとわかっていたので、彼を満足させるために、肩のかたわらにある足場の上に登り、すばやく左手に鑿を取った。足場の架台の上にあった大理石のわずかな粉といっしょに取り上げ、鑿で軽くとんとんやり始めると同時に、少しずつ粉が落ちていくようにした。実際には、鼻に手をかけはしなかったのである。それから、見守っていた市政長官のほうを見おろして言った。『さあ、見てごらんなさい。』『うん、ずっと気に入ったぞ。』『君はそれに命を与えたわけだな。』市政長官は言った。それでミケランジェロは下におりたが、なんでもわかっているような振りをしたがり、そのくせ自分で言っていることがわかってもいない人々に同情しながらも、苦笑していた。」(pp. 228-229.)
・フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c6/Il_Bargello.jpg4. ミケランジェロ《ピッティの聖母子》、1503-05年 頃、大理石、85.5×82cm、フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館
◆画人伝より(6)
「この頃、彼は大理石で2つの円形浮彫りを下作りしたが、まだ完成していなかった。1つはタッデオ・タッデイへのもので、今は彼の家にあり、もう1つはバルトロメーオ・ピッティのために作り始めたものであった。モンテ・オリヴェートのフラ・ミニアート・ピッティは、宇宙形状誌や諸学、殊に絵画に精通したたぐい稀な人物であったが、彼によって、この後者の浮彫りはその偉大な友であるルイージ・グイッチャルディーニに贈られた。」(p. 229.)
・フィレンツェ、アカデミア美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Palazzo_dell%27arte_dei_beccai_01.JPG5. ミケランジェロ《聖マタイ》、1506年頃、大理石、高さ216cm、フィレンツェ、アカデミア美術館
◆画人伝より(7)
「さらにこの頃彼は、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ寺の作業場で、聖マタイの大理石像を下作りした。その荒削りの彫像は彼の卓越性を物語っており、他の彫刻家たちに誤りなく大理石から彫像を彫りおこす術を教示している。的確に石を扱いながら、漸次、像を完成していき、必要なときには変更できるようになっている。」(p. 229)
・パリ、ルーブル美術館
※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg6. ミケランジェロ《瀕死の奴隷》、1513年、大理石、高さ229cm、パリ、ルーヴル美術館
◆画人伝より(8)
「ぐるりと外側に壁龕列を有し、それらは中央より上の、着衣の境界像によって仕切られ、それらが頭部で最初の軒蛇腹を支え、さらに奇妙で一風変わったポーズをした各境界像は、基底の突出部に足を据えた裸の囚人像を従えていた。これらの囚人像は、この法王によって征服され、ローマ教会に服従した諸地方であった。さらに、縛られた他のさまざまの像は、それらを誠実にいつくしんだこの法王の死に従ったあらゆる技芸、学芸をあらわしていた。」(pp. 233-234.)
・ローマ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/San_Pietro_in_Vincoli%2C_Rome.jpg7-1. ミケランジェロ《モーセ》、1515年頃、大理石、高さ235cm、ローマ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂
7-2. ミケランジェロ《モーセ》(部分)
◆画人伝より(9)
「ミケランジェロは大理石で5尋のモーセを仕上げた。この像には、その美に匹敵できるどのような現代作品もないだろうし、古代のものでも同じようなものはないだろう。モーセはいとも荘重な態度で坐り、片手に持つ石版の上に腕を置き、他方の手では髭をつかんでいる。その髭は大理石でつやつやと長くつくられている。彫刻としては非常な困難さを孕む髭の毛の表現も、繊細に柔らかく、ふっくらと作られ、鑿が絵筆になるはずもないのに、そうしたやり方で彫られているのである。さらに顔の美しさという点では、真の聖人や人を畏怖させる王侯の雰囲気を持っている。またミケランジェロは、神がモーセのいとも聖なる表情に付与したその神性を見事に表現したので、たいへんすばらしく輝かしく見え、一見して顔をおおうためにヴェールを求めたい気になるほどだ。さらにたいへん流麗なひだの動きをともなって彫り上げられた布地があり、筋肉質の腕や、骨や神経まで見える手など、見事な美しさと完璧さをそなえている。脚や膝や履物においた足など、あらゆる仕事が同様に仕上げられているので、モーセは、昔も今もまことに神の友とよばれ得るほどである。というのも、他のだれよりも前に、神はミケランジェロの手を通して、その復活のための肉体を再現し準備するよう望まれたからである。」(pp. 235-236.)
・フィレンツェ、メディチ家礼拝堂
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d5/Cappelle_medicee_11.JPG9-1. メディチ家礼拝堂
◆画人伝より(10)
「だれもがさらに感嘆させられたのは、ジュリアーノ公およびロレンツォ・デ・メディチ公の墓廟である。その制作を構想するに際して、彼は、大地だけでは彼らの偉大さに対して誉ある墓廟を与えるのに十分ではないと考え、世界のあらゆる部分、4つの彫像――その一方に彼は『夜』と『昼』を、他方には『曙』と『夕』を置いた――がそれを取り巻き、彼らの墓所をおおうようにしたのである。これらの彫像は、仕草のいとも美しい形態や念入りな筋肉の扱い方によって、たとえ彫刻術の伝統が失われようとも、それを元の光明に戻すに充分なほどである。他の彫刻にまじって、2体の武装した統治者がいる。一方は思慮深い容貌をした思索家ロレンツォ公で、脚は、これ以上のものは見られないほど、いとも美しく作られている。もう一方はジュリアーノ公で、その頭部や喉は誇り高く、目つき、鼻の輪郭、口の開き具合、そして髪、手、腕、膝、足など、いとも神々しい。結局、彼がここに仕上げたすべては見事で、見る眼はそれにうんざりしたり、飽きたりなどできないほどである。実際、はきものや胴よろいの美しさを一瞥した人は、それが人間のものではなく、天上のものだと信じるのだ。」(pp.256-257.)
8. ミケランジェロ《ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑》、1520-34年頃、大理石、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
8-1. ミケランジェロ《ジュリアーノ・デ・メディチ》、1526-34年頃、大理石、高さ173cm、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
8-2. ミケランジェロ《夜》、1526-31年、大理石、長さ194cm、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
8-3. ミケランジェロ《昼》、1526-31年、大理石、長さ185cm、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
9. ミケランジェロ《ロレンツォ・デ・メディチの墓碑》、1520-34年頃、大理石、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
9-1. ミケランジェロ《ロレンツォ・デ・メディチ》、1525-26年頃、大理石、高さ178cm、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
9-2. ミケランジェロ《黄昏》、1524-31年、大理石、長さ195cm、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
9-3. ミケランジェロ《曙》、1524-27年、大理石、長さ206cm、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
・フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 2008/10/22 12:54撮影
10. ミケランジェロ《ドゥオーモのピエタ》、1550-55年、大理石、高さ226cm、フィレンツェ大聖堂美術館
◆画人伝より(12)
「ミケランジェロの心情と天分からすれば、なにかやらずにいることはできなかった。だが描くことはできなかったので、実物よりも大きい丸彫りの四人物像を彫ろうとして、大理石片に取りかかった。それで死せるキリストを作ったのである。それは楽しみながら時をすごすためであり、彼が語ったように、マッツォーロ(ハンマーの一種)で作業をするのが体の健康によいからであった。このキリストは、十字架から降ろされたように、聖母に支えられていた。しっかりと立つニコデモは、下向きかげんに力強い仕草で主を支える手助けをし、またマリヤの1人もそうしていた。マリヤは、聖母の力では苦悶に屈して支えていられないと知って、支えているのである。このキリストの死体に匹敵するほどのものがあろうとも思われない。キリストは息絶えた四肢をして、くずれ落ちている。彼の他の作品ばかりか、かつて作られたどんなものとも、非常に異なる仕草をしている。労力に満ちた、たぐい稀なる石の作品であり、まことに神のごときものである。これは、のちに述べるように、未完成に終わり、多くの不運をかこった。ともあれ彼は、自分の墓にそれを役立てさせようという気持ちで、祭壇のところにそれを置こうと考えていたのであった。」(p. 274.)
・ミラノ、スフォルツァ城美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/Frontal_del_castillo_de_sforzesco%2C_Mil%C3%A1n.JPG11. ミケランジェロ《ロンダニーニのピエタ》、1552-64年、大理石、高さ195cm、ミラノ、スフォルツァ城美術館
◆画人伝より(13)
「ミケランジェロが芸術に憑かれる者の常として、孤独を愛したことはだれにも珍しくはうつるまい。芸術はただひとりで思索にふける人間を要求するのである。それで芸術研究に専心しようとする者は、仲間付き合いを避ける必要がある。それらを空想とか異様とか考える人々は間違っている。よい仕事をしようとする人はあらゆる心配事や煩わしさから遠ざかっている必要があるし、天分は思慮、孤独、快適さを要求するもので、心に誤ちがあっては困るからである。とはいえ、それをわきまえつつ、都合のよいときには、彼は多くの偉大な人、学者、才能のある人々と交わった。一方では、芸術の考察に専心する者は孤独ではないし、多様な思考を欠くこともないのである。」(p. 315.)
3.まとめ
ミケランジェロ=孤独を愛した芸術家。
バッカス:古代ギリシアの葡萄酒の神。
サテュロス:ギリシア神話に登場する半獣神。
ベルトルド・ディ・ジョヴァンニ(1420-1491) :彫刻家。ドナテルロの弟子。
聖マタイ:福音書記者。12使徒の1人。
用語:ピエタ/ダビデ/エッサイの木/モーセ/タイポロジー
ヴァザーリの記述:美術家とパトロンたちの挿話→権力者たちの横顔