第十三回 ティツィアーノ/ ヴァザーリ
1.はじめに
2.ティツィアーノ
◆画人伝冒頭の記述(1)
「ティツィアーノは、アルプスの麓から5マイルほど離れたピアーヴェ河畔の小さな村、カドーレに生まれた。その地の名家、ヴェチェルリに生まれたのは1480年で、才気煥発、聡明のほまれが高かったから、10歳の時にヴェネツィアにいる伯父のもとへやられた。この伯父は世間の尊敬をあつめていた市民だが、小さな甥のティツィアーノになかなか絵心があると見てとるや、頼んでジョヴァンニ・ベルリーニの家へ置かせてもらった。ベルリーニは当時非常に名の通った秀れた画家である。こうしてこの師の下でデッサンを習い、たちまち頭角をあらわした。」(p. 351.)
・パリ、ルーブル美術館
※画像ソース: http://bokufukei.up.seesaa.net/image/20070829_171720_1t_wp.jpg1. ティツィアーノ《田園の楽奏(詩的な世界)》、1509年頃、油彩・カンヴァス、110×138cm、パリ、ルーヴル美術館
・ティツィアーノ《田園の楽奏(詩的な世界)》 とマネ《草上の昼餐》
・ウィーン、美術史美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Maria-Theresien-Platz_in_Wien.jpg2. ティツィアーノ《乙女の肖像(ヴィオランテ)》、1515年頃、油彩・板、64.5×51cm、ウィーン美術史美術館
◆画人伝より(2)
「ところでティツィアーノは、ジョルジョーネの手法と様式を見た後は、長年手がけたわけだけれども、ジョヴァンニ・ベルリーニの様式を捨て、ジョルジョーネに近づいた。そしてその作品を短期間にじつによく真似たので、彼の絵はジョルジョーネの作品と取り違えられ、ジョルジョーネ作と信じられたことも、後述のように、いくたびかあったほどである。…(中略)…その当初に、彼の友人バルバリーゴという貴族の肖像を製作した。これが『とても美しい』という評判で、とくに本物そっくりなその自然な肉の色、一本一本数えられそうな髪の毛、またその作品中の銀色の繻子の上衣の地は、糸目まで数えられそうだ、と噂された。要するに傑作で、実に仕事がよくしてあるから、もしティツィアーノがその影の部分に署名しなかったならば、ジョルジョーネの作品として通用したことでもあったろう。」(pp. 352-353.)
・ベルリーニ《化粧する女》1515年/ジョルジョーネ《ラウラ》1505年/ティツィアーノ《乙女の肖像(ヴィオランテ)》、1515年頃
・ローマ、ボルゲーゼ美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Galleria_borghese_facade.jpg3. ティツィアーノ《聖愛と俗愛》、1515年、油彩・カンヴァス、118×279cm、ローマ、ボルゲーゼ美術館
・ヴェネツィア、サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂 2009/6/10 12:03撮影
4.ティツィアーノ《聖母被昇天》、1516-18年、油彩・板、690.0×360.0cm、ヴェネツィア
・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html5. ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》、1538年頃、油彩・カンヴァス、119×165cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・ジョルジョーネ《眠れるヴィーナス》 /ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》
・ジョルジョーネ《眠れるヴィーナス》 /ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》/ゴヤ《裸体のマハ》/マネ《オランピア》
・ナポリ、国立カポディモンテ美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Napoli-capodimonte-royalpalace.jpg6. ティツィアーノ《ダナエ》、1545-46年頃、油彩・カンヴァス、120×172cm、ナポリ、国立カポディモンテ美術館
・ティツィアーノ《ダナエ》 /《黄金の雨を受けるダナエ》
◆画人伝より(3)
「ある日、ミケランジェロとヴァザーリはベルヴェデーレにティツィアーノを訪ねたが、その折、ティツィアーノが描きあげたばかりの一枚の、ダナエとして表された裸の女が、金の雨に化けたゼウスを膝の上に抱いている図を見せてもらった。人前ではいつもそうするものだが、ティツィアーノに向かって2人はその女の図をほめちぎった。しかし彼の邸を辞去した後で、ティツィアーノの手法について論じながら、ミケランジェロはかなりいろいろ批判して、こう言った。
『ティツィアーノの色彩も様式も私の気に入ったが、しかしヴェネツィアでは、まず最初にデッサンをよく学ぶということをしない。これは残念なことだ。ヴェネツィアの画家たちは勉強の仕方をもっと改善することもできように、その点が惜しまれる。もしあの男が、あれだけ天賦の才があるのだから、技術を磨きデッサンで進歩したら、とくに実物を描写する訓練をしたら、もう匹敵する男はいないであろう。ティツィアーノは実に美しい精神の持ち主だし、実に愛らしく溌剌とした様式をもっている。』
これはまことにもっともな説で、デッサンをしっかりやらず、古代や近代の作品を選んで研鑽をつまなかった者は、当然のことながら、技倆がうまくないし、また実物をそのまま写した物に手加減をくわえることができない。自然というものは、通常美しくない部分を仕上げるためには役立つが、実物をそのまま写しとった物に、あの完璧な優雅さを与えるもの、それが自然とは次元を異にした芸というものなのである。」(pp. 364-365.)
・エディンバラ、スコットランド国立美術館
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cb/National_Galleries_of_Scotland%2C_Edinburgh.jpg7. ティツィアーノ《ディアナとアクタイオン》、1556-59年頃、油彩・カンヴァス、188×206cm、エディンバラ、スコットランド国立美術館寄託(サザーランド公コレクション)
◆画人伝より(4)
「…他にこれほど魅力的な作といえば、ニンフたちと泉のほとりにたたずんで、アクタイオンを鹿に化けさせてしまう『ディアナ』の絵も魅力的だが、それを除けばあとは見当たらない。同じように『エウロペ』も描いたが、エウロペが牡牛に乗って海を渡ってゆく図である。これらの作品はいまではカトリック王の手もとにあり、ティツィアーノが作品中の人物に色彩によって与えた 溌剌たる生気のために非常に高く評価されている。
これらの作品に見られるティツィアーノの手法は、実のところ、若かりし日の彼の手法とはかなり違ったもので、青年時代の作品には、洗練された信じがたいほどの入念さで仕事がしてあったから、近くから眺めることにも遠くから見ることにも耐えるが、最近の作品は、大まかに、一気呵成に、斑点でもって描いてあるから、近くから見るとなんのことかわけがわからない。ところが、離れて見ると完璧な姿が浮かびあがってくる。これが原因で大勢の者がこの真似をしだす。実際やってみると、つまらぬ下手な絵ばかり出来あがる。というのは結局、こうした絵が労せずして描けると思うのがそもそもの間違いなので、実際はなんどもなんども筆を加え、その上に色を何回も塗っている、だからよく見ればその辛苦のさまもわかろうというものである。というわけで、こうした手法は思慮分別をもって行えば、美しい上に人を驚かせもする。なぜかといえば、絵は生き生きと目に映じ労せずして出来あがったかと思わせるほどの、すばらしい技術をもっているからである。」(p. 366.)・マドリード、プラド美術館 2004/6/8 8:20撮影
8. ティツィアーノ《自画像》、1562年、油彩・カンヴァス、86×65cm、マドリード、プラド美術館
◆画人伝より(5)
「また彼の作品にたいする支払いは非常によいものがあったから、収入もずいぶんあった。というわけで、晩年は暇つぶしのほかは仕事をしないほうが、下手な作品でもって豊熟の年にかちえた名声をおとさないほうが、よいのではないかとも思われる。…(中略)…こうしてティツィアーノは素晴らしい絵画の数々でヴェネツィアもイタリアもまた世界のほかの国々をも飾りたてたわけだから、画工たちから愛され尊敬されるだけのことはあるので、いくらほめてもほめたりない作品を作った人として、いや、いまも作りつつある人として、多くの点で讃美され模倣もされている。その作品は、有名な人々の名が後世に記憶される限りは、長く長く伝えられるであろう。」(pp. 372-373)
・ヴェネツィア、アカデミア美術館 2009/6/4 11:00撮影
9. ティツィアーノ《ピエタ》、1570-76年、油彩・カンヴァス、353×348cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館
3.ヴァザーリ
◆画人伝より(6) ※「ミケランジェロ伝」より
「さてこの頃、1525年、まだ幼かったジョルジョ・ヴァザーリは、コルトーナの枢機卿によってフィレンツェへ連れ出され、芸術を習得すべく、ミケランジェロのもとにつけられることになった。しかしミケランジェロが法王クレメンス7世によってローマに呼び出されると――というのも法王は、サン・ロレンツォ寺の図書室や、自分の祖先のためにつくった大理石墓廟をおさめる新聖器室をすでに用意し始めていたからである――彼は、自分が拘束されぬ身となるまで、ヴァザーリはアンドレーア・デル・サルトのもとで過ごすよう決めた。そして彼は、その依頼のために、自分でアンドレーアの工房まで行ってくれた。」(p. 254.)
・フィレンツェ、ウフィツィ美術館
※画像ソース: http://ostetrica-foto.at.webry.info/200704/article_28.html10. ヴァザーリ《自画像》、1550-67年、油彩・カンヴァス、101×80cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館
・フィレンツェ、パラッツォ・ヴェッキオ
※画像ソース: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dc/Firenze.PalVecchio05.JPG11. ヴァザーリ《コジモ1世礼讃》、1563-65年、油彩・板、フィレンツェ、パラッツォ・ヴェッキオ
◆画人伝より(7) ※「ミケランジェロ伝」より
「ミケランジェロの生きていた時代に生まれ、彼を師として持つことは誇るべきことであったし、人も知るように、また彼の手紙がその証拠となっているように、彼は私には親しい友人だったのである。真実にもとづき、また彼の愛情に負うている義務から、私は彼について、他の多くの者のなしえぬ、すべてほんとうのことを書きえたのである。他の幸福といえば、彼が私にこう書いたことである。『ジョルジョ、きみをコージモ公に仕えさせた神に感謝しなさい。公はきみが建てたり描いたりしたことに、また、その考えや計画を用いることに満足し、費用を惜しまれなかったでしょう。きみの「列伝」に書いた他の美術家たちについて考えてみれば、彼らはきみほど多くは得られなかったのです。』」(p. 327)
12. ヴァザーリ《ペルセウスとアンドロメダ》、1570年、油彩・板、117×100cm、フィレンツェ、パラッツォ・ヴェッキオ
・フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 2008/10/22 12:54撮影
13-1. ヴァザーリ、フェデリーコ・ツッカリ《最後の審判》、1572-79年、フレスコ、フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂13-2. ヴァザーリ、フェデリーコ・ツッカリ《最後の審判》(部分)、1572-79年、フレスコ、フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
◆画人伝より(8) ※「ミケランジェロ伝」より
「…今日すでに非常に高名で、将来はさらにそうであろう秀でた人々の様子こそ、大したものであった。事実、フィレンツェの(すべてそこにいた)このような芸術家たちの数は、常に最大のものだったのだ。というのも、これらの諸芸術は常にフィレンツェで繁栄してきたからである。私は他の都市を侮るわけではないが、かつて諸学問についてアテネがそうだったように、諸芸術本来の主要地、場所こそ、フィレンツェだといえると信じている。」(p. 333)
4.まとめ
ティツィアーノ=デッサン力が備われば、ラファエルロやミケランジェロさえ凌駕したであろうと評価された色彩画家。ヴェネツィア派(ベルリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ)
ヴァザーリ=ミケランジェロの弟子、『画人伝』第1版(1550年)に133人の画家、彫刻家、建築家の生涯を記し、第2版(1568年)でさらに30人を追加
用語:アフロディテ/アレゴリー/美術史/人文主義
コジモ1世:初代トスカーナ大公。息子はフランチェスコ1世。
◆ヴァザーリの『列伝』からわかること
内容…美術家の生涯と逸話、作品の主題、技法、ジャンル、パラゴーネ(優劣比較論)、芸術論、同時代の画家たちへの批評、理想の美術家像、修業方法、パトロン像
問題点:伝聞による不正確性、記述内容の不整合性
歴史認識:現代=芸術の頂点(レオナルド、ラファエルロ、ミケランジェロ)、フィレンツェ=芸術の中心
価値観:古典古代の習慣と芸術を讃美し(ルネサンス)、自然観察を重視。短縮法や夜景を高く評価。美術家の徳の高さ、高潔さを強調。
影響:のちの美術教育の指針となる
美術史=美術家たちの歴史(列伝)+美術作品の歴史(様式変遷)+主題解釈(イコノロジー)