<第四講>丸木位里・俊 ―《原爆の図》をよむ
1. 展覧会の概要
「丸木位里・俊 ―《原爆の図》をよむ」概要 スライド
企画展(特別展)/単館開催
会期:2018年9月8日~11月25日
会場:広島市現代美術館
主催:広島市現代美術館、中国新聞社
後援:広島県、広島市教育委員会、広島エフエム放送、尾道エフエム放送
協力:原爆の図丸木美術館
◆主催・後援・協賛・助成・協力
・主催は、展覧会全体に責任を持つ。美術館単独の場合もあれば、行政組織や企業などが名を連ねる場合もある。また、共催という位置づけで、中心的に責任を担う組織とは別立てで、同等の実施責任を担う場合もある。
・後援は、展覧会の実施にあたり便宜をはかる。政府機関や地方自治体、教育委員会など。さまざまな認可手続きの際に、他の競合事業との調整を行う。
・協賛は、物理的な支援や業務上の協力を行う企業等。
・助成は、経済的支援を行う財団や基金。
・協力は、そのほかさまざまな形での支援を行う機関や団体。個人も含む。
◆丸木位里・俊夫妻 スライド
丸木位里(1901-1995)・俊(1912-2000)夫妻
・位里は広島生まれ。俊(本名:俊子)は北海道生まれ。1941年結婚。位里は日本画を、俊は油彩画を表現手段とした。「原爆の図」シリーズは全部で15点。位里は原爆投下の数日後、俊も少し遅れて広島の実家へ入った。原爆のほかにも、アウシュビッツや、三里塚闘争、水俣、沖縄など社会的なテーマへの関心を広げていった。
・母・丸木スマ(1875-1956)は、 70歳を過ぎてから嫁である俊のすすめで絵を描き始め、1956年に81歳で亡くなるまでに700点を超える絵を描いた。
・位里の妹・大道あや(1909-2010)も画家、絵本作家として活躍した。
2. 初期の作品
1. 丸木俊《解氷期(モスコー)》、1944年(後年加筆)、油彩・カンヴァス、個人蔵
2. 丸木俊《ヤップ島》、1940年、油彩・カンヴァス、72.7×90.9
cm、個人蔵
3. 丸木位里《柳暗》、1941年、墨・紙、205×91
cm、広島県立美術館
3. 原爆の図
4. 丸木位里・俊《原爆の図
第1部 幽霊》
上 :1950年、墨・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
下(再制作):1950-51年、墨・紙、180×721 cm、広島市現代美術館
5. 丸木位里・俊《原爆の図
第2部 火》
上 :1950年、彩色・紙、180×720.5 cm、原爆の図丸木美術館
下(再制作):1950-51年、彩色・紙、178×714.9 cm、広島市現代美術館
6. 丸木位里・俊《原爆の図
第3部 水》
上 :1950年、墨・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
下(再制作):1950-51年、墨・紙、180×720.2 cm、広島市現代美術館
7. 丸木位里・俊《原爆の図 第4部 虹》、1951年、彩色・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
8. 丸木位里・俊《原爆の図 第5部 少年少女》、1951年、墨・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
4. 関連作品
9. 丸木俊《広島製鋼事件によせて》、1949年、油彩・カンヴァス、60.6×50
cm、個人蔵
10. 丸木位里・俊《原爆―ひろしまの図》、1973年、彩色・紙、400×800
cm、広島市現代美術館
5. 原爆の図(細部)
4. 丸木位里・俊《原爆の図 第1部 幽霊》、1950年、墨・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
それは幽霊の行列
一瞬にして着物は燃え落ち、手や顔や胸はふくれ、むらさき色の水ぶくれはやがてはがれ敗れて、皮膚はぼろのようにたれさがった。
手をなかばあげてそれは幽霊の行列、破れた皮を引きながら力つきて人々は倒れ、重なりあってうめき、死んでいったのでありました。
爆心地帯の地上の温度は6000度、爆心近くの石段に人の影が焼きついています。だが、その瞬間にその人のからだは、蒸発したのでしょうか。飛んでしまったのでしょうか。爆心近くのことを語り伝える人はだれもいないのです。
焼けて、こげただれた顔は見分けようもなく、声もひどくしわがれました。お互いに名乗りあっても信じることはできないのです。
赤ん坊がたった一人で美しい膚のあどけない顔でねむっていました。母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。せめてこの赤ん坊だけでも、むっくり起きて生きていってほしいのです。
『原爆の図』(丸木美術館、1983年)より
4-1. 丸木位里・俊《原爆の図 第1部 幽霊》(第1・2面)
4-2. 丸木位里・俊《原爆の図 第1部 幽霊》(第3・4面)
4-3. 丸木位里・俊《原爆の図 第1部 幽霊》(第5・6面)
4-4. 丸木位里・俊《原爆の図 第1部 幽霊》(第7・8面)
5. 丸木位里・俊《原爆の図 第2部 火》、1950年、彩色・紙、180×720.5 cm、原爆の図丸木美術館
青白く強い光。爆発、圧迫感、熱風――天にも地にも人類がいまだかって味わったことのない衝撃。次の瞬間に火がついた。めらめらと燃えあがり、広漠たる廃墟の静寂を破って、ごうごうと燃えていたのでありました。
うつぶせて家の下敷きになったまま失心した人、気がついて脱け出ようとして、紅蓮の炎につつまれていった人。ガラスの破片がざっくりと腹につきささり、腕がとび、足がころがり、人々は倒れ、焼け死んでいきました。
「早く早く」
「もうだめです」
「子どもだけでも」
「いいえ、あなたこそ逃げてください。わたしはこの子と死にます。路頭にまよわすだけですから」
母と子は助け出そうとする人の手をふりきって、炎にのまれていきました。
『原爆の図』(丸木美術館、1983年)より
5-1. 丸木位里・俊《原爆の図 第2部 火》(第1・2面)
5-2. 丸木位里・俊《原爆の図 第2部 火》(第3・4面)
5-3. 丸木位里・俊《原爆の図 第2部 火》(第5・6面)
5-4. 丸木位里・俊《原爆の図 第2部 火》(第7・8面)
6. 丸木位里・俊《原爆の図 第3部 水》、1950年、墨・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
足の方を外側にして、頭を中心にして、死体の山がありました。眼や口や鼻がなるべく見えないように積み重ねてあったのです。
焼き忘れられた山の中から、まだ目玉を動かして、じっと見ている人がいました。本当にまだ生きていたのでしょうか。それともうじが入っていてそれで動いたのでしょうか。
水、水。
人々は水を求めてさまよいました。
燃える炎をのがれて、末期の水を求めて――傷ついた母と子は、川をつたって逃げました水の深みに落ち込んだり、あわてて浅瀬へのぼり、走り、炎が川をつつんであれ狂う中を頭を冷やしながら、のがれのがれて、ようやくここまできたのです。乳をのませようとしてはじめて、わが子のこときれているのを知ったのです。
20世紀の母子像。傷ついた母が死んでいる子を抱いている。絶望の母子像ではないでしょうか。母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。
『原爆の図』(丸木美術館、1983年)より
6-1. 丸木位里・俊《原爆の図 第3部 水》(第1・2面)
6-2. 丸木位里・俊《原爆の図 第3部 水》(第3・4面)
6-3. 丸木位里・俊《原爆の図 第3部 水》(第5・6面)
6-4. 丸木位里・俊《原爆の図 第3部 水》(第7・8面)
7. 丸木位里・俊《原爆の図 第4部 虹》、1951年、彩色・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
全裸のからだに軍靴と剣だけをつけた兵隊。手を折り、足をつぶした若い兵隊。病兵は、破れた皮膚に毛布をかぶって逃げまどいました。
音ひとつない、シーンと水を打ったような時間……
気の狂った兵隊が天をさして、「飛行機だ、B29だ」と叫びつづける。どこにも飛行機の影はないのです。
傷ついた馬が、狂った馬たちがあばれまわるのでした。
日本を爆撃にきたアメリカの兵士が捕虜になって広島の兵舎に入れられていました。原爆は敵も味方もなく殺してしまいます。
2人の兵士は、手錠をはめられたまま、ドームわきの路上に倒れておりました。
上空高くまで吹きあげられた煙とほこりが、雲をよび、やがて大粒の雨となって、晴天のまっただなかに降りそそいだのでありました。
そして暗黒の空に虹が出ました。
七彩の虹がさんさんとかがやいたのでありました。
『原爆の図』(丸木美術館、1983年)より
7-1. 丸木位里・俊《原爆の図 第4部 虹》(第1・2面)
7-2. 丸木位里・俊《原爆の図 第4部 虹》(第3・4面)
7-3. 丸木位里・俊《原爆の図 第4部 虹》(第5・6面)
7-4. 丸木位里・俊《原爆の図 第4部 虹》(第7・8面)
8. 丸木位里・俊《原爆の図 第5部 少年少女》、1951年、墨・紙、180×720 cm、原爆の図丸木美術館
流れに沿い、頭を並べて水をしたい、そうして累々とつらなって死んでおりました。末期の水は、川辺までたどりついてもまだずっと下の方でしたから、水ものまずに息を引きとったのです。
おとなたちの建物疎開の手伝いに子どもたちが動員されたのです。
一クラス全滅、というクラスがたくさんあります。
かわり果てた姿で抱き合っている姉と妹。
からだにかすり傷一つないのに死んでいった少女もあります。
この絵をみて、「わたしの娘はクラスでたった一人生き残ったのです。けれど手はひっついて内側にまがり、顔ものどにひっついてしまい、歩くことも出来ませんでした。からだは13才のそのときのまま成長しないのです」と被爆した大工さんは話してくれました。
『原爆の図』(丸木美術館、1983年)より
8-1. 丸木位里・俊《原爆の図 第5部 少年少女》(第1・2面)
8-2. 丸木位里・俊《原爆の図 第5部 少年少女》(第3・4面)
8-3. 丸木位里・俊《原爆の図 第5部 少年少女》(第5・6面)
8-4. 丸木位里・俊《原爆の図 第5部 少年少女》(第7・8面)
◆原爆の図(全15部)の制作年とその時代性
第1部 幽霊 1950年 1950年6月 朝鮮戦争
第2部 火 〃
第3部 水 〃
第4部 虹 1951年 1951年9月 サンフランシスコ平和条約調印
第5部 少年少女 〃
第6部 原子野 1952年
第7部 竹やぶ 1954年 1954年3月 ビキニ島沖での水爆実験, 第五福竜丸の乗組員被爆
第8部 救出 〃
第9部 焼津 1955年
第10部 署名 〃
第11部 母子像 1959年
1960年1月 新日米安全保障条約調印
1965年2月 アメリカ軍, ベトナムへの爆撃開始
第12部 とうろう流し 1968年
第13部 米兵捕虜の死 1971年
第14部 からす 1972年
1973年5月 沖縄返還
第15部 長崎 1982年
1987年4月 チェルノブイリ原発事故
6. プロパガンダと芸術
◆プロパガンダ
・「宣伝」という意味。特に権力者や体制が行う政治的宣伝活動のことで、肖像、モニュメントなどの形で造形作品が利用されることも多い。
益田朋幸, 喜多崎親編著『岩波 西洋美術用語辞典』(岩波書店, 2005年) p.269
・プロレタリア絵画は、階級意識の昂揚のための「社会主義リアリズム」という主題優先型の「プロパガンダ絵画」にすぎなかったのである。
高島直之「プロレタリア美術」, 『日本近現代美術史辞典』(東京書籍, 2007年)p.313
・「目的優先芸術」:戦争美術(戦争記録画)や、プロパガンダ絵画のように、芸術制作の足かせとなるような「優先されるべき目的」を設定している芸術。
藤川哲「プロパガンダと戦争美術」, 『山口大學文學會志』vol.59, 2009, p.31
・プロパガンダ:Congregatio de propaganda fide(布教聖省)に由来
Oxford English Dictionary, 2nd ed, vol.XII, 1989, p.632.
・「あらゆる画家がプロパガンディストだった。そうでなければそれらの者は画家ではなかったのだ」――ディエゴ・リベラ
Diego Rivera, "The Revolutionary Spirit in Modern Art"(1932), in Ch. Harrison, P. Wood eds., Art in Theory 1900-2000, Blackwell, 2003, p.424.
7. まとめ
・展覧会の開催組織
―美術館とメディア、行政との協力関係を読み解く
―助成団体、協賛企業に展覧会組織の特性が見えてくる
―展覧会の社会的意義の裏書き
―学芸員の構想力と組織構成力
・プロパガンダと芸術
―近代以降の国家や政党による「宣伝・扇動」を目的とした芸術表現をプロパガンダ芸術と呼ぶ
―プロパガンダの本義は「布教」であることから、あらゆる宗教絵画をプロパガンダ絵画と呼ぶことも可能
―プロパガンダ芸術という用語の否定的用法は時代的な偏向であり、再考・再検討が始まっている