共依存概念の混乱と問題性

−フェミニズム批判を踏まえて−



はじめに

T 共依存概念の成立

U 共依存概念の発展と社会学的定義

V 共依存の特徴

W 女性役割と共依存

おわりに


注釈と文献
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共依存概念の混乱と問題性

―フェミニズム批判を踏まえて―

中央大学大学院 文学研究科 社会学専攻 博士後期課程1年 鍋山祥子

 

はじめに

 「共依存 co-dependency」という概念は、1970年代終わりのアメリカで、アルコホリックの治療にあたる臨床の現場で生まれたと一般にいわれている (1)。しかしその概念自体は未だ確定したものではなく、それぞれの研究分野によって、その解釈にも相違がある。そこで本稿では、共依存概念における混乱を整理し、その社会学的概念としての可能性を探るとともに、共依存を考察するさいに必要となるフェミニズム視点について検討する。

 

T 共依存概念の成立

 1930年から1940年にかけて、当初、本人の意志の弱さがその原因とみられていたアルコール依存症は、専門家の治療のもとで病気としてくくられ、医療化されるようになってきた(2)。またその一方で、1935年にアメリカ東部において、中流階級の白人男性のアルコホリックたちがみずからの回復をめざして、宗教的、秘密結社的な集まりとして始めたAA(Alcoholics Anonymous)(3)や、1951年にその妻たちを中心に設立されたアラノン(Al-Anon)(4)などの自助グループも存在していた。そして、効果がなかなか現われない専門家たちによるアルコール依存症の治療に対して、これらの自助グループは「12ステップ(5)」という独自の方法によって、アルコール依存症の回復に格段の効果を挙げていたのである(6)。

 このようなアルコール依存症との取り組みのなかで、次第に、家族からの隔離と、同じ依存症に苦しむ仲間との交流が、アルコホリックの回復にとって効果的であることが明らかになってきた。それは、治療を経て回復の兆しの見えたアルコホリックが、また同じ家族関係のなかに帰っていくと、ふたたび「しらふ」のままでいることが困難になるという状況から導きだされたものであった。こうしてアルコホリックの回復に、その家族が関係しているという認識が高まるにつれて、アルコール依存症を個人の精神だけの問題としてではなく、関係性のコンテクストのなかで把握するという傾向が強くなっていったのである(7)。さらに、通常はその配偶者であるが、アルコホリックの周囲には必ずといっていいほど、この病気に巻き込まれながら、アルコホリックの依存心に依存するといった形で、この病気に手を貸してしまっている人間が存在することが判明した。そのような人びとは、「後押しする人」という意味の「イネイブラー enabler」と命名され、アルコホリック本人の回復には、イネイブラーの側の変化が重要であるという見方が示されたのである。

 その存在が認識された当初のイネイブラーへの対応は、あくまでも「アルコホリックの病気を永続させる手助けをしないようにするにはどうすればよいのかについて学んでもらう」という、アルコホリックの回復を第一にめざしたものであった。しかし、実際にこのイネイブラーの変化に取り組んでみると、たんに「アルコホリックの支え手」という位置づけでは済まされないほど、その回復が困難であるという現実に直面することになったのである。そこで、このイネイブラー自体を深刻な病理を抱えたひとつの存在として扱う、「コ・アルコホリック co-alcoholic」や「パラ・アルコホリック para-alcoholic」という言葉が登場した。ここでは、アルコホリックの周りにいる人びと自身も、みずからが「しらふ」でいることが非常に困難であり、アルコホリックと良く似た症状を訴えることから、アルコホリックと一緒に生活をしている人間は、アルコホリックに対するのと同様の影響を、アルコールによって受けるのだという考え方が基礎にされていた。

 さらに、このような状態にある人びとが、アルコール依存症にかぎらず、さまざまな嗜癖者(8)の周辺に共通して見られることが明らかになると、それまでのようにアルコール依存症という特定の嗜癖に関係づけられた「コ・アルコホリック」などという用語ではなく、「嗜癖者との関係にコミットして生きている結果として、自分の生が手におえないようになった人(Beattie[1987:34])」という、嗜癖者一般との関係性の病理をあらわす言葉として、「共依存 co-dependency(9)」という概念が成立するに至ったのである。

 

U 共依存概念の発展と社会学的定義

 それまでは、あくまでも「嗜癖者」が先に存在しているという状況においての「反応的」な行為として取り扱われていたものに対して、ひとたび「共依存」という独立した言葉が与えられると、実は共依存こそが病理の本質、つまり一次的な現象であり、アルコール依存症や薬物依存などの物質への嗜癖は、根源的な関係性の病理を修飾する二次的な現象に過ぎなかった、という認識上の大転換が起きることになった。

 このような共依存概念の発展的解釈について、もっとも肯定的な立場をとる一人である A.W.シェフは、その認識上の転換を踏まえて、嗜癖行動の仕組みを以下のように整理している。彼女は、嗜癖のうちのアルコールや薬物や食料のような物質の摂取を内容とするものを「物質嗜癖」、ギャンブルや仕事や買い物などの行為の過程を内容とするものを「過程嗜癖」と分類し、さらにこれらの嗜癖の基盤として、人間関係の嗜癖である「関係嗜癖」を想定している。そして、この「関係嗜癖」の基本型が「共依存」というのである。(Schaef[1987=1993:28-41])

 共依存概念の成立が、アルコール依存症の臨床現場での「イネイブラー」から、「コ・アルコホリック」を経て「共依存」へという背景をもっているがゆえに、今もなおそれぞれの研究者の立場から、共依存の定義としてさまざまなものが出されている(10)のは事実である。しかし、1989年にアメリカにおいて最初の共依存についての会議(the First National Conference on Codependency)が開かれ、20人以上の高名なセラピストや理論家たちによって、共依存は症状のカテゴリーとして認められ、そこで共依存は「安全感とアイデンティティと自己価値感を得るための、強迫的な行動と承認探究に対する、苦痛をともなう依存のパターン」と定義された(Makay[1995:221])。この定義からもわかるように、現在アメリカでは、共依存概念は、物質嗜癖者とのかかわりという文脈を超えたところで、あくまでも人間関係のあり方の基礎をなすものとしての「関係性の病理」として、あらゆる社会生活の場面において、広く適用されるに至っている。

 このような共依存概念の発展を考慮したうえで、共依存の社会学的概念としての可能性を求めるならば、「関係性そのものが嗜癖の対象となっている」ような関係性を称しての「共依存」である。イギリスの社会学者であるA.ギデンズは、共依存概念がアルコール依存症やその他の薬物依存症の治療現場から出てきた概念にもかかわらず、その発展の過程において、必ずしも物質嗜癖そのものとの関連は問題ではなくなってきているという、共依存概念の発展にともなう混乱を指摘し、そこから関係性の相互行為的特質を取り出して、共依存を次のように定義している。

共依存症(11)の《人》とは、生きる上での安心感を維持するために、 自分が求めているものを明確にしてくれる相手を、一人ないし複数必 要としている人間である。つまり、共依存症者は、相手の要求に一身 を捧げていかなければ、みずからに自信を持つことができないのであ る。共依存的《関係性》は、同じような類の衝動的強迫性に活動が支 配されている相手と、心理的に強く結び付いている間柄なのである。 (Giddens[1992=1995 :135])

 共依存概念をこのように関係性についての嗜癖としてとらえなおすとき、それはあらゆる社会的場面において、人間が対他関係を取り結んでいくさいの、社会的関係性のあり方という視点から考察することが可能になる。また、「アメリカの全人口の96%は共依存(12)」と指摘されるような状況から、共依存をある集団の大多数の成員が共有している性格構造、すなわち社会的性格として扱うことによって、人びとがそのような関係性をもつに至った心理的、社会的背景を分析することは、現代社会を理解する大きな手助けになると思われる。

 このようなマクロな視点による共依存の分析は、すでにアメリカを中心に始まっている。 A.W.シェフは「共依存は、それ自体とても興味深い病気です。それは私たちの文化によって支えられているだけではなく、文化の中で積極的な機能を果たしているのです。つまり、嗜癖システムに順応している限り、共依存的にならざるを得ず、共依存はシステムにとって、一つの規範としての機能を果たしているのです(Schaef[1987=1993:42])」と述べ、共依存を積極的に文化、社会的なコンテクストにおいてとらえようとしている。また A.ギデンズは、嗜癖的関係性に影響を及ぼしている構造的変容に着目しており、「関係性の変容」という歴史的な流れのなかでの一段階として、共依存的関係性をとらえているのである。

 

V 共依存の特徴

 では、共依存とはいかなるものかを具体的な特徴を挙げてみていくことにする。共依存に関する著書のなかには、数多くの特徴が挙げられているが、ここでは A.W.シェフによって挙げられた共依存の特徴を中心に、いくつかのものを以下のようにまとめた。(Schaef[1987=1993:42-46])

・自分を価値の低い者と感じ、自分が他者にとってなくてはならない者であろうと努力する。/ ・他者からの好意を得るためなら何でもする。/ ・つねに他者を第一に考え、みずからは犠牲になることを選択する。/ ・奉仕心が強く、他者のために自分の身体的、感情的、精神的欲求を抑える傾向が強い。/ ・他者の世話をやくことによって、その他者が自分へ依存するように導く。/ ・強い向上心を持った完全主義者で、自分は物事を完璧にやれないから良い人間ではない、方法さえ見出せば完璧にやりとげられるはずだと信じている。/ ・自分と他人との境界が曖昧(13)で、他人の感情の起伏の原因が自分にあると思ってしまう。/ ・他者に対して不誠実、支配的で、自己中心的である。/ ・策略的な手段を用いる傾向があり、自分の気持ちを直視せず、平気で嘘をつく。

 これらの共依存の特徴には、滅私的に他者尊重を行なう自己犠牲的な献身と、他者を支配しようとする自己中心的な他者操作という、一見、矛盾しているように思える要素が混在している。しかし、これらの共依存的行動の特徴の裏側に共通するものとして、精神分析医であり共依存に詳しい斎藤学は「他者をコントロールしたいという欲求」の存在を指摘するのである。また、加藤篤志はその「他者へのコントロール欲求」という視点を中心に、共依存の特徴を次のようにまとめている。

共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認めら れることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得よ うとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであ り、またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひいては他者自身 を)コントロールしようという動機に結び付いているために、結果と してその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者 との関係性から離脱できなくなるのである。(加藤[1993:75])

 このように「他人に必要とされる必要」に迫られた共依存者の利他主義的特徴は、実は自分自身の存在証明をかけた、きわめて自己中心的動機から発しているという矛盾を、すでにその内部に抱えている。あるがままの存在の自己としては、他者に受け入れてもらえるだけの価値があるとは考えることができない共依存者たちは、他者からの評価を得ることによってみずからの存在の意義を手に入れようと、他者の用意した「定義された自己像」に向けて、自己破壊的同調をしていく。そこには、度重なる夫からの暴力を受けながら、「この人を立ち直らせることができるのは、自分しかいない」という自負の念を支えに、耐えつづける被虐待妻 batterd wife や、仕事への熱中と業績の達成、そして社会的評価の獲得というサイクルのなかに自己をつなぎとめ、会社によって自分が必要とされ、評価されているという実感によって、自己の存在意義を手に入れている仕事中毒者 workholic(14)の姿が浮かんでくる。A.ギデンズが「固着した関係性 a fixated relationship (Giddens[1992=1995:135])」と形容するこのような共依存的関係性においては、人は他人を、みずからの身の安全を確保するための手段とみなし、自分に評価を与えてくれる道具として利用しているにすぎない。そのような人間関係において繰り広げられる相互行為ではつねに、他者を自分の思う方向へ動かそうという「コントロールをめぐる権力闘争」が展開されており、それは、生きていく手段として、お互いを消耗し合っているに等しい状態なのである。

 しかし、実際にわれわれが生活をしているこの現代社会のなかで、他者からの評価を得ることによってみずからの存在の意義を手に入れようと必死になっているのは、何も特殊な人びとに限られたことではない。いまやわれわれは、外部からの徹底的な評価によって管理され、「品質」ごとに階層分化されるようになっている。そのような社会において重要なのは、外部にある評価規準によって、自分が「どのように評価されているか」ということなのであり、少しでも高い評価を得ようとして、われわれはみずからの「品質」を上げることを生きる目標にしさえする。つまり共依存の特徴とされる「自分の存在意義を手に入れるための他者からの承認獲得欲求」は、現代社会のあらゆる場面で見られる現象なのである。社会に適応しながら「当たり前」に成長し、「自然に」社会人となって生活するうちに、ふと「生きにくさ」を感じた人びとが、いま、みずからに名前を与えようとしている。近年の共依存概念の広がりは、アルコホリックが自分をアルコホリックだと認めたとき(自分の抱える問題に「アルコール依存症」という名前をつけたとき)から回復の途につくように、現代社会を生きる人びとがみずからの抱える問題に気づき、そこからの抜け道を摸索するために、「共依存」という用語を必要としているということなのではないだろうか。

 

W 女性役割と共依存

 共依存の問題を考えるさいに忘れてはならないのが、その女性役割との関係である。つまり「他者からの評価によるみずからの存在意義の獲得」に加えて、共依存のもう一つの重要な特徴である「自己犠牲的な他者への献身」と、「みずからを犠牲にしても夫や子どもに尽くすべし」とされてきた女性の性役割との密接な関係は明らかである。性別役割分業が当然視される近代産業社会において、近代家族(15)の成員として男は「金のための労働(賃労働)」をし、女は「愛のための労働(世話労働)」をする。そして、人々はみずからの「価値論的安定(16)」を、この分担された役割の遂行に求める。つまり、男は稼いで妻子を養うことに、女は夫、子どもの世話をすること(17)に、みずからの存在意義を求めるのである。

 この女性の性役割としての「愛のための労働」について、フェミニストは次のように分析する。

 「愛」とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを 動員するための、「母性」とは子どもの成長を自分の幸福と見なして 献身と自己犠牲を女性に慫慂することを通じて女性が自分自身に対し てはより控えめな要求しかしないようにするための、イデオロギー装 置であった。(中略)女性は「愛」を供給する専門家なのであり、こ の関係は一方的なものである。(上野[1990:40])

 「女性にふさわしい役割」と称され、現代においても女性の性役割とされているものは、このように「愛」という言葉によって女性に結びつけられている。そして女性たちはその「愛」を表現しようとすればするほど、みずからを犠牲にしてまでも夫や子どもに尽くすという「世話役割」に身を投じていくのである。多くのフェミニストたちが、共依存概念を単なる個人的、心理的な問題として扱うことに対して警鐘をならし、女性問題として文化社会的なコンテクストのなかで語る必要性を説くのも、まさに、こうした理由からである。

 共依存についての文献はジェンダー中立的に書かれる傾向にあるが、 実際には、性差別主義的、異性愛主義的、階級主義的、人種差別主義 的な社会によって強制され、そして家族の中で学んだ伝統的な性役割 に固執する女性たちについての記述である。この文化によって男と女 には、それぞれに生き残るための方法が与えられている。つまり、女 は自己犠牲的で、男と子どもについての情緒的な世話やき者 caretaker となるように社会化され、男は仕事場での完璧な熟達と、家庭での支 配の責任を負うように訓練されているのである。(Lodl[1995:208])

 これまで「生物的な本質」の反映であるとされ、性役割として女性に課されてきた自己犠牲的な性質をともなう世話役割と、共依存との関係はどのようなものだろうか。以下に引用する内藤和美の指摘は、的確にこの問題の核心部分をついている。

 世話、養育、配慮、などを含むものとしての「ケア役割」は、いわ ば、他者の欲求を満たす役割である。人が自分を「ケア役割」に集約 していくことの怖さとは、自分の思慮や行為の適否が、専らケアを受 ける相手が 満足したか否か、すなわち他者の判断によって評価され る、ということである。他者の評価が自己評価になる、つまり他者の 目への依存である。夫のため、子どものため、親のためと生きるうち に、自分の意志の所在、感情の所在がわからなくなってしまう。極論 すれば、そんな怖さがあると思う。自分の精神を他者に預けてしまう ほど悲惨なことはない。(内藤[1991:126])

 ここで指摘されている、「自分の精神を他者に預けてしまう」生き方こそ、まさに共依存的な生き方にほかならない。つまり、「相手の満足の有無によって下される評価」によって自己の価値をも評価せざるをえないこのような「ケア/世話役割」を担った女性たちは、その必然として共依存的生き方を余儀なくされているともいえる。そして、このような性別役割分業に基礎づけられた近代産業社会におけるジェンダー関係のあり方こそが、「自己犠牲的献身による他者からの評価の獲得」という共依存の特徴と、性役割を担った女性との分かち難い関係を証明するものなのである。

 

X 共依存の問題性とフェミニズム視点

 しかし、われわれは共依存の問題を「世話役割」を担う女性の自己のあり方の問題にそのまますり替え、「他者の世話をすること」の是非の問題として一面的にとらえることは避けなければならない。なぜならば、「他者の世話をすること」そのものの是非を問うことは、そもそも「共依存」という概念を作り出し、問題であるとみなすことそれ自体が、伝統的な女性役割を、ひいてはその役割を担っている女性の存在そのものを否定し、その価値を低める行為として了解されてしまうという危険性を孕んでいるからである。この危惧されるべき側面については、すでにフェミニストからの共依存批判というかたちで多くの指摘がなされている。

 共依存はわれわれに、「女らしさ」が病理であると教えるのであり、 われわれは自己破壊的な、女らしい行動について、自分自身を責め、 男たちに対しては彼らが行なう暴力や虐待的行動に対してのいかなる 責任も回避させているのである。(Tallen[1995:173])

 このような批判は、共依存概念によって、女性自身がみずからの「女性らしさ」ゆえに病的であるという認識をもってしまうという危険性があり、それは、女性の抑圧を個人的な病理としてすりかえる結果になっていると指摘する。つまり、共依存概念は女性を抑圧している社会的原因を問うのではなく、まさに女性が抑圧された結果として担わされてきた女性役割そのものを批判することによって、ふたたび女性の存在を落としめているというのである。

 また、脱共依存の方向性として、「特定の関係性への執着の否定」「自己と他者の分離感覚の強化」などが強調されるとき、そこで想定されている「正常な」自己像とは、男性的なものとされている理性的、自律的な近代的自己像にほかならない。こうした脱共依存の方向性が意味するものは、これまで支配される側であった女性たちが、支配する男性の側にまわることによって、強迫的な世話やき行為としての共依存から脱するという、きわめて偏った「男性的価値の特権化」でしかない。脱共依存的であるとしてこのような方向が想定されつづけるかぎり、フェミニズム領域から指摘されるように、共依存概念は「女性的価値の、ひいては女性自身の落としめ」として了解されてしまう危険性をつねに孕んでいる。このような方向性において共依存から脱したようにみえる女性たちは、実はみずからが支配する側にまわることによって、そこにまた新たな支配関係を生み出すという結果に終るだけなのである。このような「世話役割」を担った生き方や「他者への世話やき」それ自体を問題視するものとしての共依存概念の広がりは、政治的に闘おうとしているフェミニストの努力をだいなしにし、逆に、現存する権力関係を補強する結果になっているという批判を免れない。

 しかし、かといって今度は、安易に女性が担っている「世話」領域の価値を上げるという方向のみに共依存問題の解決を求めることの危険性も、充分認識しておかなくてはならない。それは「女性の伝統的性役割の価値を上げる」というその主張自体が、「性別役割分業」そのものについての是非を不可視のものとしてしまう危険性があるからである。つまり、それぞれの性別に振り分けられた「性役割」があくまでも「同等の価値」をもったものであるという主張は、「性役割」はそれぞれの生物的な性差ゆえの「ふさわしい」役割であるという「まやかしの平等感」を作り出し、逆に「性差別」を擁護する議論に利用されてしまう(18)。以下の引用は、「女性性=自然性」についてのジェンダー保守的な賛美への批判である。

 女性が今日、出産、育児、家事など「自然的」と言われる仕事に特 化して、性格もそれに見合ったものとなっているのは、決して「自然」 なことではない。近代化過程における公私の分離と「近代家族」の誕 生に際して、女性が「主婦」、「母」として私的領域に封じ込められ た結果、創り出された状況であるにすぎないのだから。「それでも女 性の身体は自然に近いのだから育児・家事に向いている」などと固執 する人には、「黒人の身体は自然に近いのだから肉体労働に向いてい る」などとうそぶいた奴隷農場主との違いを説明してもらおう。 (落合[1989:209])

 結局、共依存を問題にするうえで重要なのは、女性の性役割としての「世話やき caregiving」についての是非を問うことでも、それを担っている女性自身の価値の高低を問うことでもない。いかにして女性にそのような「世話役割」が割りあてられてきたのかという社会的要因を明らかにすることと、同時に、女性がその役割を遂行するなかで、自己現象をどのようなものとして他者との関係性のなかに成立させてきたのかという心理的要因を明らかにすること、この両面において共依存的関係性はとらえられなければならない。これは、社会的要因を重視するフェミニズム視点と心理的要因を重視する共依存視点の統合によって可能になるのである。

 政治的なコンテクストのなかで女性の問題を読み解こうとするフェミニズムと、セルフヘルプ的な個人に対する癒しを実現しようとする傾向をもつ共依存概念はともに、「女性が女性であるがゆえに感じる、個人の痛みを癒すこと」という共通の目的をもっている。そして、フェミニズム領域からの共依存概念への批判のなかにみられる危惧のように、共依存概念が「世話の倫理(19)」にしたがって家族の世話をやく、という伝統的な女性役割へのラベリングによる、単なる女性の存在意義の剥奪に終わらないためにも、これまで女性が「世話の倫理」に基づいた自己のあり方をとらざるをえなかったというその背景を、社会的な水準と心理的な水準の両方において問いなおすこと。それこそ、現在の共依存問題の顕在化の理由と脱共依存の方向性をわれわれに示してくれるものとなりうるのである。

 

おわりに

 本稿において、まず共依存概念の成立の過程をたどり、そこにある概念上の混乱を明らかにしながら、共依存の社会学的概念としての可能性を探った。また、共依存概念に向けられたフェミニズム領域からの批判を検討するという作業を通して、共依存の何が問題とされているのかを明らかにしてきた。共依存概念によって、自分の抱えている問題の正体を知ること、そして、その問題の社会文化的背景を探ること、そのような試みを個々人が続けていくことによってはじめて、社会全体の脱共依存的な方向性が見えてくるのではないだろうか。





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