【注釈】

(1)本稿においての「自己現象」とは、「自己とは何か」という問いのもとに現われてくる「自己において見出されるもの、自己としてあらわれてくるもの、自己が自己に対して成し得るところのこと(上田[1992:34)」とする。

 

(2)ここでの「存在論的」とは伝統的哲学における「存在論的」という意味では用いておらず、R.D.レインが、自己の存在に関する不安という意味を表わすために使用した「存在論的不安定 ontological insecurity」という、「存在」に対する形容詞として使ったものと同義である。

 

(3)作田啓一が、西欧における急速な共同体の衰退の過程を宗教・経済・政治の三領域について指摘している部分を以下にまとめる。(作田[1981:84-94])

 宗教:16世紀のプロテスタンティズムの台頭によって、それまで神への唯一の通路であった教会が、その権威を失墜した。ルターやカルヴァンは宗教の本質を個人の信仰のなかにのみ見出し、信仰の深さは外面的なものによって評価されるのではなく、神のみが評価しうるものだとした。このような宗教改革によって、宗教の共同体的な側面に代わって、神に対する個人の直接的関係性が強調されていった。

 経済:近代資本主義の発展の過程において、共同体的な協働や相互扶助の精神が減退してゆき、ますます多くの個人が共同体の枠からはずれ、個人的な利潤を求めて自由市場に進出していった。こうして資本主義はそれまで集団に属する者が共通してもっていた伝統的な道徳の拘束を弱め、極めて個人的な目標を活動の原動力とする人びとを、エネルギーの一単位として市場に巻き込んでいった。

 政治:国家の軍事力を背景とする単一の法体系が、ギルド・教会・封建領主領のそれぞれがもっていた互いに矛盾し合う諸法に取って代わり、国家は貨幣や度量衡のシステムも標準化した。さらに、国家はギルドや教会の枠外で活動しようとする新興の実業家層に対して援助と保護を与えるなどして、実業家たちが個人として市場に参入するのを助け、さまざまな特権をもった中間集団を打ち砕いていった。これらのすべてが資本主義の勃興にとって強力な刺激となったことは確かである。

 

(4)注意が必要なのは、このように記述される「選択の主体」としての「近代的個人」という概念には、フェミニズム視点が欠けているということである。この点について詳しくは、鍋山[1996:51-95]にて論述しているので、ここでは上野千鶴子の文章を引用するにとどめる。近代産業社会の「市場は『自由な個人』をプレイヤーとして成り立つゲームのはずだったのに、この『個人』は、実は単婚家族の代理人=家長労働者だった。『自由な個人』を登場させるために、市場は伝統的な共同体に敵対し、これを産業化の過程で解体していったが、共同体が折出したのは『自由な個人』ではなくその実『自由な・孤立した単婚家族』だった。(上野[1990:180-181])」

 

(5)浅野智彦は「価値論的肯定」を「関係当事者が正価値(を帯びた性能・物財など)を帰属させているがゆえに肯定される(「…だから肯定する」)というような場合である」と説明している。(浅野[1992:75])

 

(6)浅野は「存在論的不安を価値論的コードに準拠して問題化し、価値を証明することでその苦痛から逃れようとする一連の企て」を「自尊心のゲーム」として、近代社会の原ゲームから派生する二次的なゲームであると指摘している。(浅野[1992:81])

 

(7)ゴフマンは「自己の構造」について、自己の呈示というパフォーマンスをわれわれがどのように整えるかという観点から分析し、その人の精神・力・その他のいろいろなすぐれた属性がその役柄のパフォーマンスによって喚起されるように設計されている、典型的には優れた性質の登場人物 figure である「役柄としての自己」と、パフォーマンスを演出するというあまりに人間臭い仕事にまき込まれた、印象を苦労してつくる者 harried fabricator of impression である「パフォーマーとしての自己」という二つの基礎部分によって構成されていると指摘している。(Goffman[1959=1974:297])

 

(8)ここでの「仮面」という用語は、ゴフマンが「面子」「役柄」「イメージとしての自己」「役割」というような用語によって表わそうとした、「相互行為場面において現われる、他者に向かって呈示される状況的自己の面」という広い意味で使用しており、それは R.E.パークが「この仮面がわれわれが自己自身にてついてつくり上げた概念 ― すなわちわれわれがその要求に応えようとしている役割 ― を表わしているかぎりで、この仮面はわれわれの真の自己、すなわちわれわれが現実化しようとしている自己、なのである(Goffman[1959=1974:297])」というところの「仮面」概念と同義のものとする。

 

(9)また、ここでの区別に近いものとしてゴフマンは、互いの聖性を崇め合う「儀礼ゲーム」としての相互行為場面における、その参加者の自己の分離構造について、「イメージとしての自己」と「プレイヤーとしての自己」という区別も行なっている。(Goffman[1967=1986:26-28])

 

(10)自分では「礼儀正しく」振る舞っているつもりでも、周りの人から「堅苦しい奴だ」と思われてしまえば、周りの人にとっては彼は「堅苦しい人」でしかない、というような例が挙げられる。

 

(11)ここでの「アイデンティティ」とは、「自己は何者であるのか」という「自己に関するリアリティ」のことである。したがって、アイデンティティと仮面との関係を示すならば、「仮面が他者の承認を受けることによって、その個人のアイデンティティという自己のリアリティとして受容される」のである。

 

(12)もともとはアルコホリックの夫を支えながら、結果的にその病に手を貸してしまっている妻や娘をさす言葉として生まれた。いまだにその定義は定まっていないが、本稿では、以下のように定義する。「他者から認められることによってしかみずからの存在についての安定感を持てず、自分の存在意義を獲得するために、必要とされる必要に迫られて、自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のこと」。詳しくは、鍋山[1996:3-13]を参照のこと。

 

(13)このような「役割」と「プレイヤー」の関係を、ゴフマンは「役割乖離 role-distance」と定義している。

 

(14)「自己愛」について春日キスヨは、「自己愛」という言葉に含まれているアンビバレントな性質を整理して次のように述べている。「自己愛には二つの方向がある。ひとつは、自己が自己のなかによきものを見いだし、自己を肯定し、自分に不足するものがあったとしてもそれはそれでよしとして、安らいだ感情でもって自己を受けいれていく、自己肯定とも言うべき方向での自己愛であり、もうひとつは、自己が自己のうちによきものを見いだせず、安らうことができず、何よりも自己が自己自身によって受けいれられ愛されたいと願っている人がもつ、ナルシシズムとしての自己愛である。(春日[1994:23])」

 

(15)ここでの「ほんとうの自己」と「自分のイメージ」とは、ローウェンの「ひとは自分の社会的な地位や権力にもとづく自分の世間的なイメージをもっているが、それがひとをナルシシストにするわけではない。自分の人格的アイデンティティを、自分の身体感情ではなく、そうした世間的イメージのうえに基礎づけるとき、ひとはナルシシスティックになるのである(Lowen[1985=1990:51])」という記述から、それぞれ、「自分の身体感情に基礎づけられた人格的アイデンティティ」と「世間的なイメージのうえに基礎づけられた人格的アイデンティティ」と解釈することが妥当である。

 

(16)共依存にはもう一つの重要な特徴として「自己犠牲的な他者への献身」が挙げられる。この特徴がナルシシズムと共依存者とを区別する点であり、共依存を考えるうえでフェミニズム視点が必要となるところである。詳しくは、鍋山[1996:51-95]を参照のこと。

 

 

 

【文献】

浅野智彦 1992「自尊心―自己のパラドクス―」『ソシオロゴス』no.16 東京大学大学院社会学研究科

Goffman, E., 1959, The Presentation of Self in Everydaylife, Doubleday Anchor, = 1974 石黒毅訳『行為と演技』誠信書房

Goffman, E., 1961, Asylums: Essays on the Social Situation of Mental Patients and Other Inmates, Doubleday Anchor, = 1983 石黒毅訳『アサイラム』誠信書房

Goffman. E., 1967, Interaction Ritual: Essays on Face-to-Face Behavior, Doubleday Anchor, = 1987 広瀬英彦/安江孝司訳『儀礼としての相互行為』法政大学出版局

Hearn, Frank, 1985, Reason and Freedom in Sociological Thought, Unwin Hyman Ltd., = 1991 野村博訳『理性と自由 社会学思想的考察』晃洋書房

今村仁司 1995『現代思想の展開』講談社

石川准 1992『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』新評論

春日キスヨ 1994『家族の条件―豊かさのなか孤独』岩波書店

大村英昭 1982「信と不信」仲村祥一/井上俊編『うその社会心理』有斐閣

Laing, R. D., 1961, Self And Others, Tavistock Publications, = 1975 志貴春彦/笠原嘉訳『自己と他者』みすず書房

Lowen, Alexander, 1985, Narcissism: Denial of the True Self, Macmillan Publishing Company, = 1990 森下伸也訳『ナルシシズムという病い』新曜社

May, Rollo, 1953, Man's Search for Himself, W.W.Norton & Company, Inc., = 1995 小野泰博/小野和哉訳『失われし自己を求めて』誠信書房

鍋山祥子 1996『「共依存 co-dependency」の社会学的考察』中央大学大学院文学研究科修士論文

Riesman, D., 1961, The Lonely Crowd: A Study of the Changing American Character, Yale University Press, = 1964 加藤秀俊訳『孤独な群集』みすず書房

作田啓一 1972『価値の社会学』岩波書店

作田啓一 1981『個人主義の運命』岩波書店

Schaef, Anne. W., 1987, When Society Become An Addict, Harper SF, = 1993 斎藤学監訳『嗜癖する社会』誠信書房

上田閑照/柳田聖山 1992『十牛図―自己の現象学』筑摩書房

上野千鶴子 1990『家父長制と資本制』岩波書店