第5回 デカルト『方法序説』読書会
平成17年9月25日

第四部 形而上学の基礎――神の存在と人間の魂の存在の証明――
◇哲学の第一原理「ワレおも惟ウ、故ニワレ在リ(Je pense, donc je suis.)」(第1段落〜第3段落)
 炉部屋での思索の中で、学問を土台から建て直すときにも、できるだけ幸福に生きられ
るように、暫定的な道徳の格率(規則)が定められた。その中で、デカルトは、「ひどく不
確かだとわかっている意見でも、疑う余地のない場合とまったく同じように、時にはそれ
に従う必要がある」(p.45) と認めていた。しかし、今や真理の探究に取り掛かるのである
から、それとは正反対に、「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとし
て廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るか
どうかを見きわめねばならない」(同前)。そこで、わたしたちは時に感覚によって欺かれ、
誤謬推理をおかすことがあるという理由から、デカルトは感覚や推理をすべて偽としてす
べて捨て去った。最後に、わたしたちがいま夢を見ているのだとすれば、真なるものは何
もないから、すべては夢の幻想であると仮定した。すると直ちに、「このようにすべてを偽
と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならな
い」(p.46)とデカルトは気がついた 。こうして、「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」 という堅固
で確実な真理が、哲学の第一原理として見出されたのである。
 そのことからさらに、わたしが一つの実体であり、またそれは身体〔物体〕からまった
く区別された魂であることが帰結される。わたしは、わたしが考える間、存在するのであ
り、逆に考えることをやめるだけで、わたしが存在するとはいえなくなる。そして、身体
〔物体〕を疑わしいものとしている間も、そう疑っているわたしの存在は疑い得ないので
ある。
 また、デカルトは、いわゆる「明晰判明の規則」を改めて提示する。「ワレ惟ウ、故ニワ
レ在リ」という命題が真理であるのは、「わたしがそれをきわめて明晰にわかっている」
(p.47)からである。したがって、「わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはす
べて真である」(p.48)といえる。


◇神の存在証明(第4段落〜第5段落)
 さて、デカルトは、方法的懐疑によって、「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」の真理を見出し、
そこから、魂としてのわたしと身体〔物体〕との区別、そして「明晰判明の規則」を導出
した。そのことからさらに、デカルトは神の存在証明へと進む。それは、三つの仕方で行
われる。前の二つはわたしの本性(不完全性)から出発する証明(宇宙論的証明)であり、
後の一つは神の本性(完全性)から帰結する証明(存在論的証明)である。(前者はアポス
テリオリな(結果から原因へと遡及する仕方での)証明、後者はアプリオリな(原因から
結果を導く仕方での)証明ともいってよいだろう。)
 第一の証明。何かを疑っているわたしは不完全である。ところで、現にわたしがもって
いる完全なるもの(神)の観念は、不完全なるもの(わたし)から生じたのではなくて、
当の完全なるものから与えられたのでなければならない。というのは、「完全性の高いもの
が、完全性の低いものの帰結でありそれに依存するというのは、無から何かが生じるとい
うのに劣らず矛盾しているから」(p.49)である。それゆえ、完全なるものは存在する。
 第二の証明。不完全なわたしは、よりいっそう完全な存在者に依存し、そこからわたし
のもつすべてのものを得たはずである。もしわたしが、わたしのもつものすべてをわたし
自身から得られるとすれば、わたしに欠けている完全性の残りすべてもまた自分から得る
ことができるから、「神のうちにあると認めるあらゆる完全性を持つことができたはず」
(pp.49-50)である。それゆえ、完全なるものは存在する。そのほかにも、デカルトはこう
考えた。「わたしは感覚的で物体に属する多くのものの観念を持って」(p.50)いる。ところ
が、知的本性と物体的本性との区別がきわめて明晰に認識されている。かつ、「合成はつね
に依存を示し依存は明らかに一つの欠陥〔欠如〕である」(同前)。したがって、神はそれ
ら二つの本性から合成されていない。だから、完全無欠でない存在(物体や天使や人間)
は「神の力に依存しているにちがいなく、そうなると神なしには一瞬間たりとも存続でき
ない」(p.51)。
 第三の証明。続いてデカルトは、幾何学者の扱う対象を取り上げる。それは、「一つの連
続した物体」(同前)、言い換えれば「長さと幅と高さまたは深さにおいて無際限に拡がる
一つの空間」(同前)である。しかし、幾何学者たちの証明のなかには、「その対象の存在
をわたしに保証するものは何もない」(同前)と、デカルトは気づいた。たとえば、三角形
のもつ三つの角の和は二直角に等しくなければならないが、しかしだからといってこうし
た三角形が存在するという保証はない。ところが、完全な存在者の観念の中には、存在が
含まれていることをデカルトは見いだした。そうして、神の存在は「幾何学のどの証明に
も劣らず確実であるのをわたしは見いだした」(p.52)と述べるに至った。




◇神と魂の認識(第6段落〜第8段落)
 しかし、多くの人が、神や魂の認識に困難があると思い込んでいる。その理由をデカル
トは、彼らが「物質的事物に特有な思考法」(p.52)である想像力 や感覚にとらわれている
からだと指摘する。神の観念と魂の観念が感覚のうちに見いだされることはけっしてない。
したがって、「神と魂の観念を把握するのに想像力を用いようとする人たちは、音を聞き匂
いを嗅ぐために眼を用いようとする人と、まるで同じことをしている」(pp.52-53)とデカ
ルトには思われた。そして、想像力と感覚の真理性も、知性の介入によって保証されるの
である。
 このような理由によってもなお納得しない人たちには、たとえば身体とか天体や地球と
かがあるといったことの方が、もっと不確かであることを知ってほしい、とデカルトは言
う。というのは、夢の中では、身体や天体や地球といったものは何もないのに、しばしば
(目覚めているときと同様に)生き生きと鮮明に現れるからである。そうした夢の中の思
考が偽であることが分かるためには、神の存在を前提にしなければならないとデカルトは
考えた。虚偽の観念を持つのはわれわれが不完全だからである。そして、そうした虚偽や
不完全性(無)が「神に由来するというのは、真理や完全性が無に由来する、というのと
同じくらい矛盾であることは明らかである」(p.54)。このことから、真理や完全性が神に由
来することがわかる。だから、神の存在がなければ、「われわれの観念がどんなに明晰で判
明であっても」(pp.54-55)、それが真であるという保証はなくなってしまうのである。
 神と魂の認識により、たとえ夢の中であっても、明晰判明な証明は真理であることを保
証される。これに対して、感覚的観念は、たとえば太陽を見たり、キマイラという怪物を
想像したりする場合のように、「われわれが眠っていなくても、しばしばわれわれを欺きう
る」(p.55)のである。「結局のところ、われわれは、目覚めていようと眠っていようと、理
性の明証性による以外、けっしてものごとを信じてはならないのである」(同前)。そして、
デカルトによれば、たとえ睡眠時の想像が生き生きとして鮮明であるとしても、「思考のも
つ真理性は、夢の中においてよりも、むしろ目覚めてもつ思考において、まちがいなく見
いだされるはずである」(p.56)と理性は教えるのである。






『方法序説』第四部 見取り図

◇哲学の第一原理「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」(第1段落〜第3段落)
真理の探究:一切への疑い
・感覚的事物(物体)
・幾何学の推理
・思考のうちにあるすべて(わたしはいま夢を見ているかもしれないから)
(『省察』ではさらにすべてを欺く悪霊が登場する)
すると直ちに次のことに気づいた。「このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考
えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」(p.46)と。
→「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ(Je pense, donc je suis.)」
そこからの帰結
・わたしは一つの実体である
・魂(わたし)と身体〔物体〕は明確に区別される
・明晰判明の規則(「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」が真理であるのは、わたしがそれを明晰判
明にわかっているからである。)

◇神の存在証明(第4段落〜第5段落)
三つの証明
・わたしの不完全性からの証明
@完全なるもの(神)―《神の観念》→わたし
 わたしは完全なるもの(神)の観念をもっている。ところで、不完全なるもの(わたし)
から完全なるものが生じることは、無からあるものが生じるというに劣らず不合理である。
したがって、当の観念は、完全なるもの(神)によってわたしのうちにおかれたものであ
る。ゆえに、神は存在する。

A完全なるもの(神)―《いくつかの完全性》→わたし
 不完全なわたしは、よりいっそう完全な存在者に依存し、そこからわたしのもつすべて
のものを得たはずである。もしわたしが、わたしのもつものすべてをわたし自身から得ら
れるとすれば、わたしに欠けている完全性の残りすべてもまた自分から得ることができる
から、「神のうちにあると認めるあらゆる完全性を持つことができたはず」(pp.49-50)であ
る。それゆえ、完全なるものは存在する。

・神の本質からの証明(存在論的証明)
B神は完全である→その本質(完全であること)が存在を含む
 神は完全である。完全なるものの観念の中には存在するということが含まれている(存
在しないというのは不完全であることを意味するから)。それゆえ、完全なるものは存在す
る。

◇神と魂の認識(第6段落〜第8段落)
・神や魂は感覚や想像力(物質的事物に特有の思考法)によっては捉えられない
「神と魂の観念を把握するのに想像力を用いようとする人たちは、音を聞き匂いを嗅ぐた
めに眼を用いようとする人と、まるで同じことをしている」(pp.52-53)

・神なしにはいかなる真理の保証もない
「われわれのうちにあって、実在であり真であるすべてのものが完全で無限な存在者に由
来することを、もし知らなかったら、われわれの観念がどんなに明晰で判明であっても、
それらの観念に真であるという完全性が具わっていると保証するいかなる理由も、われわ
れにはなくなってしまう」(pp.54-55)

・理性の明証性のみを信じること
「こうした観念[感覚的観念]は、われわれが眠っていなくても、しばしばわれわれを欺きう
る・・・・・・結局のところ目覚めていようと眠っていようと、理性の明証性による以外、けっ
してものごとを信じてはならないのである」(p.55、[]=引用者)
  本文からの引用はすべて、岩波文庫版『方法序説』(谷川多佳子訳、1997)による。
  『省察』では、さらに、このうえなく有能で狡猾な悪霊がわたしを欺いているという想定がなされる。
そこでデカルトは言う。「それでも、彼が私を欺くのなら、疑いもなく、やはり私は存在するのである。欺
くならば、力の限り欺くがよい。しかし、私がみずからを何ものかであると考えている間は、けっして彼
は私を何ものでもないようにすることはできないであろう。」(『世界の名著 デカルト』(井上庄七・森啓
訳)、中央公論新社、1978、p.245)
  デカルトにとって、「考える(もの)」とは次のような幅広い意味をもったものである。「しかし、それで
は私とはなんであるか。考えるものである。では、考えるものとはなんであるか。すなわち、疑い、理解
し、肯定し、否定し、意志し、意志しない、なおまた想像し、感覚するものである。」(同前、p.249、p.255)
  『省察』の中で、デカルトは、想像のはたらきを悟性作用と区別して次のように説明する。「すなわち、
理解するときには、精神が、いわば自己を自己自身に向け、精神そのものに内在している観念のあるもの
を考察するのであるが、想像するときには反対に、精神が、自己を物体に向け、その物体のうち精神自身
によって理解された観念なり、感覚に知覚された観念なりに対応するあるものを、直観する」(『省察』、引
用は上掲書、p.292)。