第7回 デカルト『方法序説』読書会
平成17年12月4日

第六部 自然のさらなる探究に必要なもの、『方法序説』の執筆理由
◇自然学の探究(『世界論』)について(第1段落〜第3段落)
 当時すでにデカルトは、刊行予定だった『世界論』という論文を書き上げていた。しか
し、ガリレイの宗教裁判のことを知ったことから、慎重を期して急遽出版を取りやめた。
(『世界論』は地動説を前提に書かれていた。)
 もともと本の出版を嫌っていたデカルトは、自分の見出した方法それほど成果を収めて
いなかった間は、それについて何かを書こうとは思っていなかった。しかし、その方法を
自然学に適用することで、「人生にきわめて有用な知識に到達することが可能」(p.82)であ
るとデカルトは気づいた。つまり、物体の力や作用をはっきり知ることで、それらを適切
な用途に用いることができるようになるのである(「われわれをいわば自然の主人にして所
有者たらしめる」(同上))。そうした自然に関する知識は技術の発明や、この世で最上の善
である健康の維持に役立つ。精神でさえ身体の健康状態に左右されるから、人間たちをい
っそう賢明で有能にするためにも、医学の探究が重要不可欠である。ただし、学問の探究
は人生の短さと実験の不足によって妨げられるので、デカルトは自分の発見を少しでも公
衆に伝え、すぐれた精神の持ち主にさらなる探究を促そうとした。「こうして多くの人の生
涯と業績を合わせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進
むことができるようにするのである」(p.84)。
 知識の進歩に必要な実験は、誤りがないようにはじめは簡単なものを利用するのがよい。
第一にデカルトは、「すべての事物の原理または第一原因を、全般的に見出そうと努めた」
(p.84)。こうした原理によって天体や地球上の物体(水や空気など)を見出した。そして
次に、一般的な原理によってだけでは多種多様な事実を十分に説明できないので、むしろ
結果から原因へと達するような特殊な実験を利用することにした。そうして、一般的な原
理から特殊な事実がどのような仕方で生じるのかを確定しようとした。以上のようなこと
が公衆にとって有益であることを知らせ、また実験の探求において自分を助けてくれるこ
とをデカルトは期待していた。

◇論文公表による弊害への危惧、あるいは人生の短さについて(第4段落〜第7段落)
 ところが、他のいろいろな理由から、デカルトは自分の生存中には論文の公表をしない
ことに決めた。というのは、反駁や論争によって真理の探究のための自由な時間が失われ
ることを恐れたからである。これまでに学んだものは、これから知られるであろうものに
比べれば無に等しいと考えたデカルトは「まだ学びうるという希望を捨てていな」(p.88)
かった。そして、そのために残された時間を無駄なく使おうとしたのである。
 確かに人々からの反論は有益かもしれない。しかし、人々の反論を調べた経験から言っ
て、そこにはどんな利益も期待できない。人々の反論はデカルトの予見した範囲内のこと
だったからである。また、学校で行われている討論によって何か真理が発見されたことも
見たことがない。そこでは、双方の論拠を考量するよりも、相手を論破するために真実ら
しさを強調することに努力が傾けられるからである。
 またデカルトは自分の思想を伝えてもたいして他の人々の利益にはならないだろうと考
えた。というのは、それらの思想を実地に応用するために、なお多くのことを自分自身で
付け加える必要があるからである。他の人から学んでも、自分自身で発見するときほど、
はっきりとものを捉えることができない。そこにはつねに誤解がつきまとうのである。曖
昧な区別や原理によって議論をする人々は、目の見える人をどこか暗い洞窟に連れ込んで
対等に戦おうとする盲人に似ている。これに対して自分の発見した諸原理はきわめて単純
かつ明証的なので、洞窟に光を射し入れることになるだろうとデカルトは述べる。学者の
名声を得るためならば、真らしさで満足するほうがはるかにその目的を達しやすい。しか
し、真理の探究に専心するならば、自分で学ぶ楽しみや絶えず新しい真理を見出す習慣と
能力を得るだろう。要するに、真理の探究は「ほかのどんな人が取り組んでも、それを始
めた当人ほどにはうまく完成されない」(p.95)のである。
 実験に関しては、職人を雇うのは別として、他の人の手による実験は役に立たないだろ
う。また、秘儀として公開されない実験は、よしんば伝えようとする意志があっても、そ
れを読み解くのは難しい。それに、中には間違っている実験もあり、その中から役立つも
のを選び出すのに時間をかけるほどの価値はない。

◇『方法序説および三試論』の執筆理由、および自然学について(第8段落〜第12段落)
 こうしたことからデカルトは生存中に論文を決して公表すまいと考えた。しかし、ある
理由から『方法序説』と自然学についての試論を書く必要に迫られた。第一には、『世界論』
の公刊中止の原因が必要以上に不利に想像されかねないからである。つまり、悪評によっ
て精神の平穏を乱されることをデカルトは恐れたのである。第二に、自分だけではやはり
必要な実験をすべてこなすことができないので、自然学の探究のためにどういう実験が必
要かを示すことで、後の人たちの非難を避けようとしたのである。
 そこで、必要以上の論争を避けて、しかも諸学問で自分のなしうることを十分明晰に示
すような題材が選ばれた。とはいえ、デカルトは、反論がある人がいれば、それを出版者
まで送るよう記している。そうすれば、なるべく答弁を添えるよう努めるとも述べている。
 『屈折光学』『気象学』の中では、先のものから結果が論証され、また逆に結果から初め
のものが論証される、という具合になっているが、これを循環論法だと考えてはいけない。
諸原因は仮説として結果を説明するが、証明の役には立たない。それはむしろ逆に実験に
よって結果から証明されるのである。ここでは、早合点を防ぐために、第一原因からの演
繹をわざとしないことを知ってもらいたかったとデカルトは述べている。
 『屈折光学』のなかでの発明を職人がすぐに実行できないとしても、そのために悪い発
明とはいえない。その実行のためには手腕と熟練が必要だからである。また、学者の言葉
であるラテン語ではなく、自国の言葉であるフランス語で書いたのは、「自然〔生まれつき〕
の理性だけをまったく純粋に働かせる人たちのほうが、古い書物だけしか信じない人たち
よりも、いっそう正しく私の意見を判断してくれるだろうと期待」(pp.101-2)したからで
ある。こうしてデカルトは良識と学識を兼ね備えた人びとだけの審判を待ったのである。
 最後に、デカルトは、自然の探究に残された時間を捧げる決心を表明している。その知
識は医学のもっと確実な諸規則を引き出すことができるようなものである。そのために、
名誉よりも、自由な時間の享受を望むと述べてデカルトはこの序説を締めくくっている。