■ スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』読書会
   第1回 2005.04.20 参加者ーχ、脇、文照

◇ 第1部第1章 神が存在するということ
1.1 神の存在論的証明、ア・プリオリに、その1
1.11 隠れた(失われた)前提としての神の定義
 この論文が最初の一部分を書くことは、内容的にも間違いない。では、その失われた内容が何かが問題となるが、同あがいても推測の域を得ない。しかし、失 われた部分の後に神の存在論的証明がなされてることから、神の定義が述べられているというフロイデンタールの補充は相当説得力があると思われる。隠れた (失われた)前提としての神の定義とは、おそらく次のようなものであろう。

神の定義 神とは、一切が帰せられる実有、換言すれば各々が自己の類において無限に完全であるところの無限数の属性が帰せられる実有である

 同様の定義が、『短論文』第1部第2章(p.62、1〜3行)および〔第一〕付録定理4系(p.214、12〜15行)、『往復書簡集』書簡2(p. 16、3〜4行)、『エチカ』第1部定義6(p.38、2〜3行)でなされている。

1.12 前提2の補足
 前提2から神の存在を証明しているが、この前提から神の存在を証明することは、論点先取ではないだろうか。また、もし存在が神の本性に属することを我々 が 明瞭判然と認識しうるならば、わざわざそれを証明する必要はないように思える。もしスピノザを擁護するような解釈をするなら、『エチカ』第1部定義から定 理7までの内容が前提2として要約されているとみなす方法がある。あるいは、キリスト教の教義からこの前提が導かれたとも考えられるかもしれない。

1.2 神の存在論的証明、ア・プリオリに、その2
1.21 前提2の補足
  『エチカ』第1部定義から定理7までに加えて、定理8備考2を参照。そこには、「実体の存在はその本質と同様に永遠の真理であることを我々は必然的に 容 認しなくてはならないのである」とある。 

1.22 注に含まれている神の存在論的証明
 翻訳では原典とは異なる位置におかれているが、これが妥当であるだろう。形式としては、『短論文』第1部第2章における神の定義と、存在を属性とみなす ことから、神の存在を証明する。言葉の細部は違うが、ほぼデカルトの存在論的証明と同じタイプのものである。

1.3 神の存在論的証明、ア・ポステリオリに、その1
 スピノザは直後からこの証明、特に第一前提を補足する証明を行なっている。ところが、この部分は翻訳では入れ替え・省略により改変されており、その通り に読むと論証の形式が大きく変わってくる。そこで、この証明に関しては、原典と翻訳を比較した上で、再考察する必要があるように思える(第2回に持ち越 し)。

1.3.1 テキストの問題
 翻訳59p.4行目から17行目は、原典とを入れ替えたり省略したりしている部分である。訳者の中では、編纂自体に問題があると考えたため、意味を通り やすくするためにこのような編集を加えたとある。しかし、多くの翻訳ではこのような方法は採用されていない。そこで、原典と畠中訳との比較をしてみようと 思う。以下、原典どおりに畠中翻訳を整理したうえで、文照の翻訳による省略された部分(太字部分)を追加したテキストを提示します。(なお、<>内は文照 が補った部分です。)

 (59p.4行)
 この推論の最初の部分を確かめるために我々は次の諸公理を立てる。
 即ち−
 1、認識可能な物の数は無限にある。
 2、有限な知性は無限数のものを把握することが出来ない。
 3、有限な知性はある外部の原因によって決定されるのではなくて自分自身で何ものをも認識することができない。何故なら、有限な知性は一切を同時に認識 する力がないと同様にまた〔外的原因ないしには〕例えばこれをあれより先にあるいはあれをこれより先に認識しはじめる力を有しない、即ちその両者とも不可 能なのだからそれは何ものをも認識することが出来ないわけである。
 最初の(<神の存在論的証明、ア・ポステリオリに、その1の言い換え>の大前提) は次のようにして証明される。
 もし人の想像力がまさに<神の>観念の原因であるならば、人が何かを理解できると いうことは、不可能であるだろう。しかるに、人は何かを理解することができる。故に<人の想像力は神の観念の原因ではない>。
 この第一前提(即ち大前提)は次のようにして証明される。
 若し人間の虚構が人間における観念の唯一の原因であるとしたら人間が何ものかを認識することが不可能であろう。しかるに人間は何ものかを認識しうる。故 に〔観念があれば原因がある〕。
 (59p.17行)

2.2005.4.27 第2回