■ スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』読書会
   第10回 2005.08.31 参加者ーχ、脇、文照

◇第7章 神に属しない属性につ いて
7.1 過去の哲学者たちの神の定義と告白
 これまでの哲学者たちは、神の定義を次のように与えてきた。

神=自 己自身からある いは自己自身によって存在する実有、万物の原因、全
知、全能、永遠、単純、無限、最高善、無限なる慈悲者、等。

 一方で、哲学者たちは神の定義に関して、次のような告白をしている。

哲学者たちの告白 1.神に関し て真のあるいは合法的の定義を与えることは
不可能である。というのは、合法的な定義は類と種差からならねばならないから。
         2.定義は物を端的に且つ肯定的 に表現せねばならぬから
神は定義され得ない。
         3.神は何ら原因を有しないから 決してアプリオリに証明
されることはできない。

7.2 スピノザの分析
 スピノザによれは、神の属性(Attributa)とは思惟と延長のみである。従っ
て、7.1 において哲学者たちの神の定義で用いられているのは「特性」
(Propria)であって、属性ではない。
 また、その特性のうちでも神に属するものとそうでないものに分類される。

神に属する特性=自己自身からあ るいは自己自身によって存在する実有、万物
の原因、永遠、不変、最高善

 ただし、これらは神のみが持つ が、これらの特性から私たちが神が何である
か、あるいは神が如何なる属性を持つかを理解できない。それが出来るのは、私
たちが神について知 ることのできる思惟と延長という属性のみである。

神に属さない特性=全知、慈悲 的、賢明

 これらが神に属さないといわれるのは、これらが思惟の一様態にすぎないから
である。また、もしこれらを紙に属する特性とするならば、神の意思を認めねば
ならなくなるから、とも考えられる。

7.3 哲学者の告白に対するス ピノザの返答
1.これが真実ならば、私たちは 何も知ることができない。というのは、もし
我々が種と類からなる定義によって飲み物をはじめて完全に知りえるならば、自
らの上に何ら類を有しない最高類を 知ることができず、結果として何も知りえ
ないから。
2.デカルト『省察』第五答弁、 参照。
3.神は自己原因であるから、証 明可能である。

◇第8章 能動的自然について
8.0 第8章と第9章について
 以下を読んでもらえれば明白だが、私たちは第8章を二つに分割し、前者を第
8章、後者を第9章とみなしている。この理由を述べよう。
 まず第一に、第8章の後半の内容が、明らかに「所産的自然」をテーマとして
いるからである。第9章の表題が所産的自然となっていることからみても、この
部分を第9章とみなすことになんら問題はないように思える。
 次に、第9章の表現が圧倒的にいかがわしいからである。役者は注をスピノザ
以外の手によるものと解説しているのだが、後で詳細に述べるように、この章全
体が他者の手によるものであるように思える。

8.1 第8章(p.104、1〜5)
 自然は、能産的自然と所産的自然とに分類される。能産的自然とは次のような
定義が与えられる。

能産的自然=神(自分自身以外の 他のものを要せずにそれ自身で明瞭判然と概
念される実有) 『エチカ』第1部定理29備考(p.73〜74)、定理31
(p.74)、第4部序言(p.9、2〜6行)、定理4証明(p.17〜18)
参照。

8.2 真の第9章(p.104、6〜9)
 所産的自然は次のように二つに分類され、定義が与えられる。

所産的自然 1.普遍的な所産的 自然(神に直接依存する神の属性のすべての
様態)
      2.個別的な所産的 自然(普遍的な様態によって生ぜられるすべ
ての個々物)


◇第9章 所産的自然について
 そもそも能産的自然と所産的自然という言葉そのものが、スコラ哲学の流れを
汲むものということを知ると、この章の文章がとたんにスピノザ以外の手による
ものではないか、と思えてくる。
 
 さて、普遍的な所産的自然、…について言えば、我々はそのうち二つだけしか
識っていない。それは物質における運動と思惟するものにおける知性である。
(p.105、1〜4行目)

 『エチカ』で所産的自然に搗いて述べられているテキストのどの部分にも、こ
のような内容は含まれていない。kのような主張はスコラのもので、スピノザは
それをまとめただけとも考えられる。しかし、注における内容、あるいは思惟す
るものにおける知性について述べられている最終段落の内容は、それがスピノザ
の手によるものであることを疑わせるには十分であると考えられる。

 まことに創り手の偉大さにふさわしい偉大な作品である。(p.105、5行目)
 ただそれについて我々は、それが神の子、神の作品、神から直接に創造された
結果であることを言うに止めよう。(p.105、10〜11行目)

 この二つの表現はどう考えてもスコラ哲学の匂いがする。たしかに、スピノザ
はスコラの用語を多用してはいるが、思想的にスコラと同一であるとは言い難
い。また、それぞれが段落の最後に置かれていることから見ても、後人の勝手な
挿入富なすことができると思う

11.2005.09.07 第11回