■ スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』読書会
   第2回 2005.04.27 参加者ーχ、脇、文照

◇第1部第1章 神が存在するということ
1.3.2 テキスト問題への解答
 恐れ多いことながら、私たちの議論の結論は、原典のままでも解釈が可能である、というものに落ち着いた。
 まず、翻訳のとおり解釈しても意味は通る。しかし、翻訳の場合、公理の位置に違和感を感じる。『エチカ』の構成から考えると、公理のあとに何らかの証明 がくるのが自然であり、翻訳の場合はこれが当てはまらない。スピノザ自身も「この推論の最初の部分を確かめるために…」と述べており、この後に何らかの証 明が続くのがふさわしいと思われる。原書に従えば、公理の後に翻訳では省略された部分が続くので、論証の形式としてより自然であると考えられる。
 しかし、原典にしたがってその意味を理解することは大変難しい。そこで、私たちは何らかの違約をする必要が出てきた。おそらく、もっとも自然な方法は、 「何か」に適切な語句を補うことであろう。(原語では「iet」、もしこれが「hem」であったなら、文法的にもこの方法が妥当であったことだろう)。い くつか 候補が 挙がったが、もっとも適切であると思われるものは、「神が万物の第一原因であり自己の原因であるということ」ではないかと考えられる。この記述は後ろ(翻 訳p.61、6〜7行)に見られるものである。これを補うことで、この部分は原典どおり読むことが可能であると考える。

1.4 結論
 ポイントとしてあげることができるのは、神の存在論的証明は、ア・ポステリオリな証明よりア・プリオリな証明の方がよい、というスピノザの主張である。 訳者注の説明において、ア・プリオリな証明とはあるものの原因(定義)から結果(結論)へと至る論証のことである。
 したがって、この説明からすると、ア・プリオリな証明とは定義から神の存在を証明する存在論的証明のことである。反対に、ア・ポステリオリな証明には、 宇宙論的証明と目的論的証明が相当 することになる。

1.5 駁論
 神の存在は神の外側にある原因から証明されねばならない、というのは神は自分自身によって認識されないから、という駁論がなされる。しかし、スピノザに よれば、神は万物の原因でありかつ自己自身の原因であるから、自分を自分自身によって認識させる。従って、神の外側に原因を設定する必要はない。ア・プリ オリに神の存在が証明されないと主張するトマス・アクィナスは、ア・プリオリな証明の大家である(『神学大全』第2章第2問参照)。

3.2005.05.11 第3回