■ スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』読書会
   第3回 2005.05.11 参加者ー(+)、χ、脇、文照

◇ 第1部第2章 神とは何か
2.0 第2章について
 この第2章には、スピノザの著作という点から見ると奇妙な点がいくつか見られる。
 まず、この章は幾何学的証明の観点からすれば、本来第1章にくるべきである。この点はマイエルも指摘している(訳注参照)。スコラ哲学では、神の存在 証明→神の定義という順番で書かれていることもあるようだが、『エチカ』においては、定義6において神の定義を与え、定理11において神の存在証明を行っ ていることから見ても、この章が第1章であったのではないか、という疑いは当然起こってくるものであろう。第1章の失われたテキストにこの神の定義を補う と作業を必要としているのも、順番を入れ替えるだけで解決される問題である。
 次に、この章の後ろに付されている小対話篇である。対話篇といえば当然プラトンを思い起こさざるをえないのだが、幾何学的証明にあれほどのこだわりを 持っていたスピノザがなぜこのような対話篇を書き記したのか、非常に気になるところである。

2.1 神の定義
 スピノザの神の定義はほぼ一貫している。神の定義が述べられているほかの箇所については、1.11を参照。
 定義について、ひとつだけ述べておく必要があるのは、『エチカ』では「自己の類において無限な」ではなく「絶対に無限な」である点が強調されている(定 義6の説明参照)。『エチカ』以前では、「自己の類において」という表現が頻繁に用いされている。この点は、『エチカ』にいたるまでにスピノザの思考が変 化したと考えられる。
 では、「自己の類において」という表現がなぜ用いられたのか。われわれの推測でしかないが、これはデカルトの影響からではないかと思われる。この点は脇 君の宿題として残された。

2.2 神の定義に関する四つの前提
 そもそも、神の定義が前提とするものを持つという説明が奇妙である。通常、定義とは論証において最も基本的な前提であって、何かを前提としてなりたる種 のものではない(このようなものはむしろ定理と呼ばれるべきである)。例えば、聖アンセルムスが「それより大なるものが考えられないもの」という定義を提 出してる場面でも、それ以上の説明もなければ何かを前提としているという記述もない(『プロスロギオン』第2章参照)。ここでは前提という言葉はふさわし くない、むしろ説明とでもしておけばよいように思える。

2.2.1 第1の前提
 『エチカ』定理8「すべての実体は必然的に無限である」に相当する。とはいえ、ここでも「自己の類において無限な」(『短論文』)と「必然的に無限な」 (『エチカ』、「必然的に」は「絶対に」と同義とみなす)という言葉づかいの変化が見られる。
 この第1の前提の証明には、神が自己原因であること、神が全能であることが前提とされているように思える。前者は『エチカ』において定義に含まれている が(定義1)、後者はそうではない。

2.2.2 第2の前提
 『エチカ』定理5「自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない」に相当する。二つの等しい実体が存在するな らば、お互いがお互いを限定しあうことになる。これから、二つの実体は無限ではなくなる。

2.2.3 第3の前提
 『エチカ』定理6「一の実体は他の実体から産出されることができない」に相当する。この論証はエレガントで隙がないように思える

2.2.4 第4の前提
 『エチカ』定理7「実体の本性には存在することが属する」に相当する(?)。訳者注四ではこのように述べられているが、前提1と明確に異なることを言っ ているようには見られない。「神の知性の中にある程のすべての実体」という表現がそもそもおかしく、結論からいえば実体とは神以外にありえないのだから、 厳密には実体の存在性ではなくて、神の被造物(神が延長したもの)の存在性がテーマであると考えられるのではないか。スピノザにおいては、被造物(物体) は、神が延長したものと見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現する様態であるから(『エチカ』第2部定義1)。

2.2.5 結論
 個々に挙げられた四つの命題は、多少の変化を受けながらも『エチカ』にも見られる。さらに付け加えておくと、これらの定理は定義6を用いることなく証明 される。つまり、『エチカ』においても、これらの定理は『短論文』における命題と同じ働き、すなわち、神の定義の前提(説明)との意味を持つと解釈でき る。これらの前提(説明)から、最初の神の定義とまったく同じ結論が導かれている。

4 2005.5.18 第4回