<Resarch>
はじめに
植物はどうして香りを出すのだろう?もちろん、花の香りは受粉媒介者を呼び寄せるためにつくられている。また、果実の香りは種子散布者の誘引に一役買っている。しかし、こうした特定の場面でなくても植物からは様々な香りが放散されている。森の香りは森林浴に欠かせない要素で、その成分は人に好ましい心理・生理作用を与えることが実証されている。森の木々がその葉や幹からこうした香りを放散しているのだが、木々達は人をリフレッシュさせるために香りを放散しているのではなく、何らかの利益を自らにもたらすために香りを放散しているに違いない。古くはこうした香りは植物代謝産物の老廃物、余剰物に過ぎない、と考えられていた。確かに、植物の放散する香り化合物の中にはそのようにあまり深い意味がなく放散されてしまうものもあるようである。排泄器官を特にもたない植物にとってこうして揮発させて捨てる、ということには積極的な意味があるのかもしれない。しかし、植物が数千種類もの揮発性化合物を作る能力を進化させてきたのは単に捨てる、ということ以外にもっと積極的な意味があるはずだ。
植物は光合成でせっせと取り込んだ炭素の最大36%までもを揮発性化合物として植物体外に放出している、との試算がある。進化の淘汰圧がこのような無駄を意味もなく許すはずがない。植物が生成し、放出する揮発性化合物には植物に何らかのメリットをもたらす機能が付与されているに違いない。オーストラリア西部のブルーマウンテンズはその山麓がほのかに青く見えるためにこのように名付けられた。この青色はここに自生するユーカリの木から放散されるイソプレンに太陽光の一部が吸収されるためだと言われている。地球上の植物によるイソプレンの生成量は年間3億トンにも達し、大気汚染ガスともなっている厄介者だが、植物は強い光や高い温度に曝された時にイソプレンを生成、放散することで酸化的なストレスを回避している。また、植物が草食動物の食害を受けた時や病原菌に感染した時にも揮発性化合物を生成し、放散している。どうやら植物は何らかのストレスを受けた時に揮発性化合物を生成し始め、その一部を放散させるのだ。そうすると、揮発性化合物の生成、放散は植物にとってストレス回避の一手段なのかもしれない。また、こうした揮発性化合物が周りの植物に到達し、受容され、受容した植物がその化合物が放散された理由をきちんと理解することができればその植物は直接ストレスを受ける前から何らかの方策でストレス回避の確率を高めることが可能になるはずだ。
私たちはこれまで「みどりの香り (Green Leaf Volatiles: GLV)」と呼ばれる揮発性化合物群が植物でどのようにして生成されるのか、またその生理的な意義は何かについて検討してきた。GLVは植物特有の揮発性化合物で無傷の植物体内にはそれほど多く含まれていないが、植物に傷を付けると急速に生合成され、その一部は大気中に放散される。庭の草刈りをした時に感じる青臭さや草いきれの本体である。これまでの研究からこうしたみどりの香りが植物の病虫害抵抗性を高めていることが明らかとなってきた。また、植物がみどりの香りを始めとする様々な匂い物質を用いてお互いに交信し合っていることも明らかになってきた。こうした匂い化合物の機能を詳細に検討し、そのメカニズムを明らかにすることで、匂い化合物を用いた新しい農業システムを開発できるかも知れない。