ミロ=砂盃:無名こそ普遍性へ通ずる道
“偉大な時代というのはいつでも無名性の時代だった。そして今日の世の中はますます無名性を必要としている。
ところがそれと同時に今日の人間はどこまでも個人的な身振りをする必要も感じている。これは社会的な視点から見ればまったく時代錯誤なことだが。
なぜ時代錯誤かって? それは本当に深く個人的な身振りが無名な身振りだからだ。無名であることが普遍的なものに到達することを可能にする。
無名性ということを重んじることで、私は私自身を捨てることができるようになる。けれども私自身を捨て去ることで、いっそう自分を主張することができるようになる。ちょうど静けさが音に対する拒絶であるのに、その結果ほんの小さな音が、沈黙の中でとても大きく響くのと同じように。 ジョアン・ミロ”
(砂盃富男『ゲルニカの悲劇を越えて』、沖積舎、2000年9月、296-97頁、「結び
新たな精神の緊張を求めて」より。ミロの言葉の出典は、ジョアン・ミロ「私は庭師のように仕事をする……」より、阿部宏慈訳、雑誌『二〇世紀』、1959年2月15日)
下線部は、著作中、砂盃氏による傍点部分